2.7_箱崎会戦-2 商談のゆくえ
「……あなたが、あのFAXの送り主ですか」
箱崎ロイヤルパークホテルのラウンジ。
吹き抜け天井から降り注ぐ柔らかな光とは対照的に、そのテーブルの周囲だけは、真空状態のような静寂が支配していた。
宗正憲の声は、驚くほど静かだ。しかし、トレードマークである丸い眼鏡の奥の瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、誠を射抜いている。
ラウンジを流れる優雅なピアノの調べが、かえってこの場に漂う殺気のような緊張感を際立たせていた。
「上條誠です。こちらは協力者の石川、そして降旗です」
誠は宗の手元を見た。
大理石のテーブルの上に置かれた宗の指先が、微かに、しかし規則的に震えているのを。
それは、昨日の為替予言という「世界のバグ」に直面した恐怖なのか。あるいは、これから目の当たりにするであろう「未知」への、制御しきれない興奮なのか。1996年の日本において、誰よりも速く、誰よりも遠くの未来を掴もうとしているこの男ですら、今、自らの「直感」という名の猛獣が喉元を噛み切ろうとしているのを、本能的に感じ取っているようだった。
「単刀直入に伺いたい。……あなたは、何者だ」
宗が身を乗り出す。テーブルの端を掴むその指先が、先ほどよりもさらに震えいる。武者震いか、あるいは制御しきれない好奇心か。
「昨日の為替相場。あれを一分一秒の狂いもなく言い当てるなど、この世界のロジックでは説明がつかない。インサイダーなどという次元ではない。……あなたは、未来を知っているのか。あるいは、未来を『作っている』側の存在なのか。どちらだ」
誠は答えを口にする代わりに、無言でテーブルの中央に『iPhone 15』を置いた。
1996年のホテルの暖色系の照明の下で、チタニウムの筐体は、この時代のどんな工業製品とも異なる、異質なほど滑らかで鈍い光を放っている。宗の視線が、ブラックホールの如くそのデバイスに吸い寄せられた。
「あなたが今、命懸けで広めようとしているインターネットの、三十年後の姿がこれです。……中を見てください」
誠が画面に触れ、ロックを解除した。瞬時に点灯した、有機ELの暴力的なまでの高精細な輝きに、宗は「……っ」と短く息を呑んだ。ドットの欠片すら見えないその画面は、現実の窓を切り取ったかのような鮮明さを放っている。
誠は、オフラインで保存していた2026年年始のニュース映像を再生した。
明治神宮に参拝する沢山の人達、言葉を理解して絵を描き出すAI、そして老若男女誰もが、「薄い板」に向かって指を滑らせ、世界中の情報と瞬時につながっている光景。
「……素晴らしい。なんという……」
宗が、震える指でiPhoneに触れた。熱を帯びた画面の上で、鮮やかに動く未来の残像。彼は、これがトリックや映画の特撮ではないことを、その研ぎ澄まされた嗅覚で理解していた。
「これは、魔法だ。……いや、情報革命の『聖杯』だ。上條さん、これがあれば、私の描くデジタル情報革命は一気に完成する。全財産を注ぎ込んでいい。この技術を独占しましょう。あなたが最高経営責任者(CEO)になり、私が資金のすべてを出す。世界を、今この瞬間から塗り替えるんだ!」
宗の瞳には、すでに数兆円の利益と、歴史の教科書に刻まれる自らの名前が映っていた。その熱狂は、周囲の空気を歪めるほどに強烈だった。
だが、誠の反応は、その熱を冷徹に突き放すものだった。
「……いいえ。宗さん。
私は、あなたを儲けさせるためにここにいるのではありません」
誠の声は低く、そして硬かった。宗の昂揚した笑顔が、凍りついたように固まる。誠はiPhoneの画面をスワイプし、一枚の写真を表示させた。
2026年。暗い寝室で、わずかな光を受けて眠る、愛娘・愛実の寝顔だ。最新のナイトモードが捉えたその写真は、肌の質感から睫毛の一本一本まで、父親の愛を封じ込めたように鮮明だった。深い慈しみと、奪われてはならない日常が封じ込められている。
「私の目的は、ただ一つ。2026年の、娘のいる場所へ帰ることです。そのために、あなたの力が必要なんです」
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「ちょっと、社長。話の腰を折って悪いんだけど」
静寂を破ったのは、傍らで黙っていたあずさだった。
彼女は、厚底ブーツとミニスカートという出で立ちからは想像もつかない、冷徹な法学徒の目で宗を見据えていた。
「このiPhone。所有権は100%、この上條誠にある。その証明に、ほら」
あずさが誠からiPhoneを受け取り、手際よく設定画面を開いた。『Apple ID: Makoto Kamijo』の文字が並ぶ。
「これは彼自身の占有物であり、彼の『ID』に紐付けられた排他的な所有物。今の日本の法律の枠組みで見ても、これを取り上げたり勝手に解析したりするのは、明確な財産権の侵害になる」
あずさは淡々と告げながら、内心で激しく高鳴る鼓動を抑えていた。
(……ナメないでよ。あんたみたいな怪物を相手に、手ぶらで来るわけないでしょ)
この一週間、大学の図書館にこもりきりだった。
誠から断片的に聞き出した「未来の崩壊」——アメリカの巨大プラットフォーマーに屈し、技術立国としての誇りを失った日本の姿。そこから逆算し、今この96年において、誠という存在を守るために取れる法的手段をすべて洗い出したのだ。
(お兄さんの『未来』や『家族』を守るために。あたしができるのは、法律っていう武器で、この怪物の牙を弾き返すことだけだから)
あずさはさらに、足元に置いていた大きなバッグから、次々と『オーパーツ』を取り出し、テーブルに並べていった。
iPhone SE、Surface Pro、Apple Watch、そしてAfterShokzの骨伝導イヤホン。
1996年においては、どれ一つとしてその製造原理すら解明できないであろう、未来の結晶。
「これらすべての所有権は上條誠さんにある。そして、その所有権と誠さんの人身を保護しているのが、この秋葉原の『有限会社石川無線』であり、社長の石川さん。……」
丸い眼鏡の奥で宗の瞳が一段大きくなることをあずさは見逃さない。
「宗社長。あんたが強引にこのオーパーツを巻き取って、特許を乱用したり、無理な解析を強行したりすれば、未来が変わる。これほら、ようくココ見て、全部アメリカ製。残念ながら 三十年後の未来、日本のお家芸だった電機メーカーは、ボロボロになってる。でもさ、こんなさえないお兄さんだったり、さっきの映像で見た老若男女が当たり前にこんな便利なツールを使える日常もあるの。」
喧嘩口調とは違う。ただ、活舌やイントネーションがいつものギャル語を話すあずさとは別人だった。
「社長が今、目先の欲で介入すれば、日本が本来たどるはずだった『進化のプロセス』が壊れて、社長も愛しているはずの日本が、もっと早く、無惨に食い荒らされることになる未来だってありうる。……あんたの望む『デジタル情報革命』が、他国の植民地化を早めるだけになったら、意味ないでしょ?」
あずさの言葉に、誠は目を見張った。彼女が図書館に通っていたのは、単なる学業のためではなかったのだ。誠から聞いていた「未来」を、彼女なりに法学的ロジックで受け止め、自分たちの『盾』を必死に削り出していたのだ。
宗の眉がピクリと動いた。あずさは、さらに攻勢を強める。
「だから、提案。このオーパーツの解析については、誠さんの『未来への帰還』を最優先の前提とする。そこから得られた副産物の知見や技術は、システムバンクが活用していい。ただし、所有権はあくまで誠さんにあり、解析後は現状復帰して返却すること。これらを、法的に有効な『鉄の契約書』として締結するのが条件」
宗は、しばらく沈黙した。
目の前のギャル――そう呼ぶにはあまりに理路整然とした少女への感服と、彼女を動かしている誠という男の存在感にさらに興味を深める。
誠もまた、あずさが陰で見せていた努力と、自分を守ろうとするその気迫に、胸が熱くなるのを感じていた。
だが、宗は一筋縄ではいかない。彼は鋭い口調で、ビジネスの本質的な矛盾を突きつけた。
「……話はわかった。だが、その『契約』とやら、どのような座組にするつもりだ? 降旗さん、君は法律を勉強しているようだが、経営はそう簡単じゃない」
宗は、テーブルに並んだ機器を指で示した。
「私個人との契約か?
それではシステムバンクの潤沢な資金は使えない。私のポケットマネーにも限界はある。ならば会社対会社の契約か?現在、わが社はWahooの買収で世間の注目の的だ。当局の目もある。実体のない怪しい個人に数億の資金を流せば、特別背任や不正送金を疑われる。……アングラで進めるには、経営者としてのリスクが大きすぎる。不完全な状態では、私はハンコは押せない。」
一瞬、あずさがひるんだ。経営の実務という、学問では超えられない壁。
だが、その時、誠がゆっくりと口を開いた。
「……座組については、すでに精査してあります」
誠の顔つきが変わった。それは、2026年、数多の修羅場をくぐり抜けてきた『経営企画部長』の顔だった。
誠は机に置いていた『Surface Pro』を手に取る。
キーボードを跳ね上げ、画面に軽く触れた瞬間。
1996年のパソコンなら数分はかかる「起動」が、わずか数秒で完了し、高解像度の壁紙が鮮やかに浮かび上がった。
「……っ!」
宗が、今日一番の驚愕を見せた。Windows 95がようやく広まり始めた今、これほど滑らかに、これほど速く、指先一つで操作できるデバイスなど、存在しない。宗は、自分の持つカバンに忍ばせている重厚なノートパソコン(当時はまだ厚みのあるものが主流だった)と想い見比べ、言葉を失った。
誠は慣れた手つきで『PowerPoint』を開いた。そこには、2026年のビジネスシーンで練り上げられた、視覚的に完璧な「契約スキーム図」が投影されていた。
「契約の当事者は、システムバンク株式会社と、有限会社石川無線。この二社間で『業務委託契約』を締結します。ただし、形態は請負ではなく、準委任とします」
「……準委任だと?」
宗が身を乗り出した。1996年では、成果物の納品を義務付ける「請負」が一般的だ。
「ええ。本件は未知の超高度技術の解析であり、現時点での『完成』の定義が不可能です。我々が負うのは成果の保証ではなく、善良なる管理者の注意義務をもって解析にあたるというプロセスへの責任です。名目は『次世代移動体通信規格の研究調査費用』。対価は以下の二階建てとします」
誠がペンで画面上の図を丸で囲む。
「第一に、月額300万円の固定報酬。これは石川社長の技術独占拘束料、および機密保持の担保です。この金額規模なら、現在の貴社の売上規模からすれば、社内監査のサンプリングにもかかりにくい。第二に、解析に伴う特殊部品の制作や高精度測定器のリース料といった諸経費は、すべて実費として貴社が負担する従量課金制を導入します。石川さんは、元ナショナルブランド電機メーカーの技術責任者。このバックグラウンドがあれば、外部監査や税務当局への説明、社内稟議の整合性は十分に取れます」
宗は、その完璧な「稟議の通りやすさ」と「リスクヘッジ」のバランスに、息を呑んだ。石川が元大手メーカーの技術責任者であったという社会的信用を「隠れ蓑」にしつつ、実態は未来技術の解析特区を作る。そのあまりに高度な経営的嗅覚。
さらに、誠が提示した次の条項が、宗の背筋を震わせた。
「そして資産の解析保証と免責です。解析の過程でこれら『オーパーツ』に修復不能な損壊、またはデータ消滅が生じた場合、その原因が貴社の要求した解析工程に起因するものであれば、システムバンクがその一切の責を負い、石川無線を免責する。さらに、その損壊によって生じる私の『未来への帰還』の機会損失に対し、貴社は無制限の補償を確約していただきます」
宗は、手元のメモを取るのも忘れ、画面上を凝視した。 96年において、これほどまでに「無形資産の価値」と「不確実性リスク」を法的に定義できる人間がどこにいる。特許の帰属、秘密保持、免責範囲――その一文字一文字が、まるで磨き上げられた剃刀のように鋭く、自分たちの身を守るための「盾」として機能している。
(……この男、ただ未来の道具を持っているだけじゃない)
宗の脳裏に、強烈な確信が走った。この論理構成。ステークホルダーの心理を読み解き、監査の目すら計算に入れ、情熱を殺さずに冷徹な契約へと落とし込む手腕。これは、96年の日本に漂う「なあなあ」のビジネス慣習とは一線を画す、もっと先の、もっと過酷で、もっと洗練された時代の「知性」そのものだ。
「そして…」
誠が続ける
「宗社長がシステムバンクの成長戦略として描かれようとしているシナリオ。
そこには、有線にとどまらないインターネットの世界観が視野に入っているはず…」
宗の鼓動が大いに上がった。見開いた眼を見逃さず誠が続ける
「『次世代移動体通信規格』と言う言葉であれば、企業戦略上の取り組みとして株主への説明論旨がたつのではないでしょうか。さらに実際に石川さんの解析から得られた知見は、御社の未来資産に必ずなるはず。」
単に稟議の通りやすさや監査の目をくぐるだけではない。本質的に自社を成長させるための戦略論も視野に入れた取り組みだとなれば、説明骨子が確固たるものになる。
(……なかなかやるな、この男。ただの『社内稟議屋』に留まっていない・・・)
宗は、心の中で呟いた。
FAXには『あなたの部下』と書いてあったが、目の前の男の立ち振る舞い、ステークホルダーへの配慮、そして何より「情」と「コト」を切り分けるプロフェッショナリズム。それは、宗がこれまで渇望してきた「右腕」の資質そのものだった。
(情と理。この切り分けもか‥‥)
宗は、自分自身の原点を思い出していた。
お金じゃない、地位でも名誉でもない。かつて九州の田舎でばあちゃんがやっていたような、困っている人を助け、誰かに喜んでもらうことに貢献できたら幸せだ。どこか名前も知らない小さな女の子が、自分の作ったサービスで「ありがとう」と言ってくれる。そんな仕事がしたいと願うようになった自分を。
目の前の男、上條誠。
彼は、「家族のもとに帰りたい」という極めて個人的な「情」を原動力にしながらも、それを実現するために、完璧な「合理」と「ロジック」を完遂しようとしている。
「……情を実現するために、コトを極めようとしているのか」
宗は、大きく深く息を吐き出した。そして、テーブルの上に置かれていた自分のペンを取り、手元のメモ帳に力強く何かを書き込んだ。
「わかりました、上條さん。……いや、上條部長。あなたの提案を受けましょう。有限会社石川無線を、わが社の『最重要極秘研究所』として認定します。」
宗は立ち上がり、誠に向かって右手を差し出した。
「日本の未来を、いや、あなたの未来を救いに行くとしましょうか。……ただし、契約書は今すぐ降旗さんに作ってもらいましょう。私は気が短いんでね」
誠は、未来を掴み取ろうとする宗の分厚い手を、力強く握り返した。
「ありがとうございます、宗さん。必ず、やり遂げましょう」
窓の外、箱崎の空には、冬の澄んだ光が降り注いでいた。
1996年2月2日。歯車が、今、静かに、でも着実に回り始めた。




