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1996.0渋谷のマッキントッシュ  作者: 代々木ノブ
select from SystemBank where FaxNo and…
14/15

2.6_箱崎会戦-1 交渉開始

 1996年2月1日、午前九時。

 天王洲にあるシステムバンク本社。その最上階に近い社長室横の秘書室では、数台のFAX機がせわしなく駆動音を立てていた。


「またこれ? 最近、変な営業FAX多すぎじゃない?」


 秘書の一人、佐藤が、FAXから吐き出された一枚の感熱紙を手に取った。そこには、ワープロ打ちではなく、力強い、しかしどこか見慣れない書体で、異様な内容が記されていた。


『私は2026年から来た……』


「……何これ。タイムスリップ? 宗教? それとも頭のおかしい部下のいたずらかしら」


 佐藤は鼻で笑い、その紙をシュレッダー——ではなく、足元のゴミ箱へ放り込もうとした。1996年のビジネス現場において、差出人不明の「預言」など、スパムメール以下の価値しかない。


 だが、その指が紙を離す直前。

 背後の自動ドアが開き、室内の空気が一瞬で凍りついた。


「おはよう。何か面白いものでも届いたのか?」


 独特の、低く、しかし熱を帯びた声。

 システムバンク社長、宗正憲むね・まさのりだった。彼は1996年現在、日本で最も「時代の寵児」に近い男であり、同時に最も既存の秩序から疎まれている革命家でもあった。


「あ、社長。おはようございます! いえ、大したことでは……。変な悪戯FAXが来ていたものですから、捨てようと思いまして」


 佐藤が慌ててFAXを差し出す。宗はそれを無造作に受け取り、歩きながら視線を落とした。

 一歩、二歩。

 そこで宗の足が止まった。


「……」


 宗の鋭い瞳が、紙面に躍る数字を捉える。

 九時、十一時十五分、十五時。

 そして『Wahoo』という、彼が今まさに進めている米国の検索エンジン企業への買収事案。


(……悪戯か。だが、このフォントの並び、そしてこの言い切り。ただの狂人にしては、言葉の背後にある『論理』が美しすぎる)


 宗は、自分の中に眠る「直感」という名の猛獣が、小さく唸りを上げたのを感じた。


「佐藤さん。今日のドル円相場の動き、一分単位でまとめておいてくれ。……ああ、いや。私のデスクの端末にも、常にロイターの画面を出しておいてほしい」


「えっ? あ、はい。……そのFAX、本当だと思われますか?」


「さあな。だが、もしこれが『的中』したなら。……私は今日、歴史の転換点に立ち会うことになるかもしれない」


 宗はそう言い残すと、社長室の奥へと消えた。その背中には、数千億円の勝負を仕掛ける男特有の、孤独で暴力的なまでのエネルギーが立ち昇っていた。


 午前九時の始値。106.12円。

 宗はデスクのモニターを見つめていた。FAXの記述と、小数点第二位まで一致している。 (……偶然だ。始値くらい、プロならある程度予測できる)


 だが、宗の胸の鼓動は確実に速まっていた。

 彼は午前中の会議をすべてキャンセルした。役員たちは「社長に急用ができた」と聞かされ困惑したが、宗にとっては、目の前のモニターに映し出される緑色の数字の変化こそが、世界の何よりも優先すべき「聖書」だった。


 そして、運命の十一時十五分。

 それまで小康状態を保っていた市場が、突如として牙を剥いた。


「……動いた」


 宗が呟く。

 105.90……105.70……105.55……。

 誰かが意図的に仕掛けたような、猛烈なドル売り・円買い。市場関係者の悲鳴が、モニターの向こうから聞こえてくるようだった。


 105.45円。


 数字が、そこでピタリと止まった。

 FAXに記されていた『急激な円買いが入る』という文言通りの、完璧な着弾。


 宗の全身に、電気のような鳥肌が走った。

 彼は1996年の日本で、誰よりも「未来」を見ようとしてきた男だ。だが、今、目の前にあるのは「予測」ではない。これは「記録」だ。これから起こることを知っている者が、過去に向かって放った、正確無比な観測データ。


「……本物だ」


 宗は震える手で内線電話を掴んだ。


「佐藤さん… 明日の予定はすべて白紙だ。シンガポールとのテレコンも、通産省との会食も、すべてキャンセル。……それから、明日の朝十時に箱崎のロイヤルパークホテルだ。車を手配してくれ。秘書の同行は不要。私一人で行く」


「えっ……社長、十時からは……」


「いいから言う通りにしろ! ……私は、人類の『答え』に会いに行くんだ」


 宗の瞳には、巨万の富を得た時よりも、革命を成し遂げた時よりも深い、純粋な「少年のような好奇心」が燃え上がっていた。


――――――


 秘書室が対応に追われ、騒然とする中。

 一人の男がゆったりとした足取りで秘書室に現れた。赤坂で美雪の知性と「鋼鉄の魂」を目の当たりにした専務、宮川健一だった。


「おや、佐藤さん。ずいぶんと慌ただしいね。社長に急用かな?」


「あ、宮川専務。……はい、それが、急に今日と明日の予定をすべてキャンセルすると言い出しまして。理由も仰らずに……」


 宮川は、宗が籠もる社長室の扉をじっと見つめた。

 彼は知っている。宗正憲という男が、世間の常識を放り投げて「一点」を注視し始めた時、世界が大きく動き出すことを。


「ふふ……。また社長は何か『やらかそう』としているなあ」


 宮川はそう呟くと、口元に苦笑を浮かべた。だが、その瞳の奥には、赤坂で美雪に向けた時と同じような、鋭い期待の光が宿っていた。


「よほど面白いオモチャを見つけたか、あるいは歴史を覆す爆弾を拾ったか。……いいよ、私が各方面に言い訳をしておこう。その代わり、後でたっぷり種明かしをしてもらうとするかな」


 宮川は軽やかに手を振ると、混乱する秘書室を後にして、自分たちのフィールドを支えるための「調整」へと向かった。


――――――


 同じ頃、秋葉原の『石川無線』。

 店内には、静寂と、安物のコーヒーの匂いが充満していた。

 石川と誠は、カウンターに置かれた一台の黒い電話機を、まるで爆弾でも見つめるような目で見つめていた。あずさは大学の講義、美雪は職場に出勤している。


「……誠。本当にかかってくるのかよ、こんな怪しいFAX一本で」


 石川が、落ち着かずにマイルドセブンの煙を吐き出す。


「かかってきますよ。宗正憲という男が、私の知る通りの『狂気』と『情熱』を持った人間なら……。彼は、このチャンスを絶対に逃さない」


 誠の声は静かだったが、その指先はわずかに震えていた。

 自分は今、歴史を書き換えている。2026年の妻と娘に会うために、この1996年の世界に「未来」という劇薬を注入しようとしている。


 ――ジリリリリリッ!!


 ベルの音が、事務所の空気を切り裂いた。

 石川が飛び上がり、誠と視線を交わす。誠がゆっくりと頷く。

 石川は意を決して、受話器を取った。


「……はい、石川無線です。……あ、はい。……ええ、存じております。……はい。承知いたしました」


 石川の手が目に見えて震えている。彼は電話を切ると、腰を抜かしたように椅子に座り込んだ。


「……誠。……本物だ。システムバンクの秘書からだ。……明日の十時、箱崎のロイヤルパーク。社長が、一人で来るとよ」


 誠は、深く、長く息を吐いた。

 肺の中に溜まっていた1996年の空気が、すべて入れ替わるような感覚。


「……よし。第一段階、クリアだ」


「クリアじゃねえよ! おい、どうすんだよこれから! 相手は日本一の成り上がりだぞ!」


 石川が叫ぶ中、誠はすぐに連絡を開始した。


 まずは美雪だ。

 誠は石川無線の電話から美雪のPHSに電話を入れる。想定はしていたが、出勤しておりなかなか受電はできないようだ。留守番電話につながる。


「美雪さん、誠です。……魚が食いつきました。明日の十時、決戦です。……あなたは仕事があるでしょうから、心の中で応援していてください。あなたの獲った名刺が、道を切り拓きました。感謝します」


 続いて、あずさ。誠は事務所のプッシュ電話で、あずさのポケベルを呼び出した。  1996年、ポケベルは全盛期。公衆電話や家庭用電話から数字を打ち込み、カタカナや数字でメッセージを送る。


『32 12 14 34 53 14 12 15 11(サクセンセイコウ)』


 誠は高校一年生以来の、懐かしくもまどろっこしい打ち込みを終え、受話器を置いた。

 数分後、事務所の電話が鳴り響く。あずさからだ。


「ちょっと誠さん! 今の何!? マジで!? あのシステムバンクの社長に会えるの!?」


「ああ。あずさ、君は講義があるだろ。ここは大人に任せて……」


「バカ言わないでよ! 私も行くに決まってるじゃん! 私、こう見えて法学部の端くれだよ? 怪しいおじさん二人が、日本一の経営者に丸め込まれないように、私が『法律の盾』になってあげるわよ!」


 あずさの威勢のいい声に、誠は苦笑した。だが、その明るさは今の誠にとって、救いのような光でもあった。


――――

 午後一時。

 有楽町のビルの薄暗い階段の踊り場で、美雪はPHSを取り出した。短い昼休みの終わり、彼女は留守電センターにダイヤルする。

 機械的なガイダンスの後、受話器の向こうから誠の、落ち着いてはいるが確かな熱を帯びた声が流れてきた。


「……」


 美雪は、手すりを握る手に力を込めた。

 脳内で、ジューダス・プリーストの激しいリフが静かに変化していく。


(……本当にやったのね、あの人。たった一枚のFAXで、あの宗正憲を動かした。……私の名刺が、彼の弾丸になったんだわ)


 美雪はPHSを閉じ、窓の外に広がる冬の空を見上げた。


(……勝ちにいきなさいよ、誠さん。そして、さっさと未来へ帰りなさい。……あなたの愛する人が待っている、未来へ。……健闘を祈る。私の、最高に惜しい『預言者』さん)


 美雪は深呼吸を一つすると、表情を消し、再び「商社の武器」としての顔に戻ってオフィスへと戻っていった。


――――――


 その夜、誠は石川無線の仮眠室で、一人、シャツにアイロンをかけていた。

 2026年では、形状記憶のシャツが当たり前で、アイロンなんて何年も握っていなかった。

 ジュッ、という蒸気の音。

 自分は45歳の、酸いも甘いも噛み分けた部長。

 明日戦う相手は、2026年では自分より年上の、若き日のカリスマだ。


(……待っていてくれ、幸恵、愛美。パパは明日、未来への扉をこじ開けてくる)


――――――


 翌朝、午前8時。

 『電脳・石川無線』のシャッターには『本日、臨時休業』の張り紙が出されていた。


 店の前には、石川が仕事で使っている、少し凹みの目立つトヨタのハイエースが停まっていた。側面には大きく『石川無線:PC修理・パーツ販売』の文字。1996年の秋葉原を象徴するような、およそ高級ホテルには似つかわしくない営業車だ。


「おい誠、どうだ、俺の格好‥‥。スーツなんて何年かぶりだからよ…」

 石川が、慣れない安物の背広に首を締められながら尋ねる。

「大丈夫です。様になってますよ」


 そして誠は、イギリスの老舗ブランド『マッキントッシュ』のコートを身に纏っていた。1996年の日本では、一部のファッション好きにしか知られていないブランドだ。だが、誠にとっては、ITの象徴である「マック(Macintosh)」への敬意と、英国的な「盾」の意味を込めた勝負服だった。


「……ちなみに僕は…、未来を凌ぐための鎧を着ています」

と冗談めいて呟く。


「へっ、気取ってやがる。……ちなみに‥‥あずさ‥‥、お前その格好で行くのか?」


 ハイエースの後部座席では、あずさが「超ベリー・バッド」な気合の入り方で座っていた。

 Burberryのミニスカートに、膝下までの厚底ブーツ。髪はさらに高く盛り、黄金に光るサングラス。手には法学の教科書と、当時の最先端ガジェットであるザウルス(PDA)を握っている。


「当たり前じゃん! これが渋谷の正装だよ! ナメられたら終わりなんだから!」


 かくして、ヨレヨレのスーツの中年エンジニア、謎のコートを着たガタイの良い年齢不詳の男性、そして渋谷のコギャルという、世界一「場違い」なパーティを乗せたハイエースは、箱崎のロイヤルパークホテルへと走り出した。


 午前九時三十分。

 箱崎ロイヤルパークホテルの正面玄関。

 黒塗りの高級セダンが次々と到着する中、エンジン音を響かせて『石川無線』のバンが滑り込んできた。


「……あ、あの、お客様? こちらに停車されますと……」


 駆け寄ってきたボーイが、車体を見て絶句した。

 さらに中から降りてきたのは、到底このホテルのスイートルームの住人には見えない三人組だ。


 石川は、慣れないホテルの空気に飲まれそうになりながらも、「俺は腕利きの技師だ」というプライドだけで胸を張る。

 あずさは、ボーイの戸惑いを「何よ、見たことないの?」と言わんばかりの冷めた視線で一蹴し、カツカツと厚底を鳴らしてロビーへ突き進む。


 そして誠。

 彼は一人、周囲の視線など存在しないかのように、真っ直ぐにホテルの奥を見据えていた。

 その立ち居振る舞い。その静かな呼吸。

 ボーイは、一瞬だけ、誠の中に「王の品格」を見た気がして、思わず怯み言葉を飲み込んだ。


 三人はロビーのソファに座り、その時を待つ。

 周囲の宿泊客たちが、ヒソヒソと「何かしら、あの人たち……」と囁き合う。


「……誠。俺、やっぱり帰っていいか? 腹が痛くなってきた」


「石川さん。……あなたが横にいてくれるだけで、私の言葉には『裏付け』が生まれるんです。逃がしませんよ」


「……鬼かよ、お前は」


 九時五十五分。

 ホテルの自動ドアが開き、一人の男が足を踏み入れた。

 取り巻きはいない。秘書もいない。

 ただ、鋭い眼光と、世界を飲み込もうとする野心だけを纏った、小柄な男。


 宗正憲だ。


 彼はロビーを見渡し、迷うことなく、最も異質な空気を放っている三人組の元へと歩き出した。

 周囲の喧騒が、嘘のように遠のいていく。


 誠は立ち上がり、コートを脱いだ。

 その下には、アイロンが完璧にかかった、真っ白なシャツ。

 二人の視線が、空中で衝突した。

 1996年のカリスマと、2026年のサバイバー。


「……あなたが、あの『預言状』の主か」


 宗が、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべた。


「はじめまして、宗社長。……2026年から来ました、上條誠です」


 歴史という名の歯車が、轟音を立てて逆回転を始めた。


 1996年2月2日、午前十時。

 箱崎のロビーで、未来を賭けた、最も「奇妙な」交渉が幕を開けた。

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