1.1_境界線の消失
2026年1月22日。
午前11時を告げるスマートウォッチの微かな振動とともに、
上條誠は渋谷クロスタワーの玄関口を出て、
三階テラスへと足を踏み入れた。
一月の澄んだ空気が、コートの表面を滑っていく。
誠にとって、この場所は日常の一部であり、同時に神聖な場所でもあった。
入り口付近にある、尾崎豊の歌碑。
「……今日も、戦ってきますよ」
心の中でそう呟いて歌碑のレリーフに黙礼する。
経営企画部長という、数字と論理の戦場へ向かう前の、彼なりの儀式だった。
とはいっても、今日はいつもと様相が違う。
明日、福岡で開催されるグループ会社の経営企画責任者が集まる会議に参加するため、これから羽田に移動しようとしている所だ。
「午後のフライトまでに、どこで昼飯を食おうかなあ。」
と、スマホを取り出したその数秒後、世界は音を立てて崩壊した。
耳の奥を、ガラスを金槌で叩き割ったような高い音が貫通する。
三半規管が激しく揺さぶられ、眩暈に襲われた誠は思わず歌碑の縁を掴んだ。
視界が急速に色を失い、モノクロームの砂嵐が網膜を覆う。
「……っ痛い!」
数秒か、あるいは数分経っただろうか。
激しい眩暈が収まり、誠が目を開けたとき、世界は一変していた。
「……え……消えた……?」
誠は、歌碑を掴んだまま、背後を振り返って絶句した。
そこにあるはずの「渋谷ヒカリエ」がない。
空を切り裂いていたガラス張りの「スクランブルスクエア」も、
一昨年開業したばかりの「渋谷アクシュ」も、その威容は跡形もなく消え失せていた。
視界に広がるのは、煤けた灰色のビル群。
看板には「デジタル」「マルチメディア」といった、今では死語に近い言葉が踊っている。
耳を突くのは、街頭スピーカーから大音量で流れる、かつて死ぬほど聴いたはずの安室奈美恵のハイトーンボイス。
天気は眩暈がする前と変わらないようだが。。。
パニックでしかない。。。。
心臓が肋骨を内側から叩き壊しそうなほど激しく打つ。
呼吸が浅くなり、足元が浮ついた。
これは高度なドッキリか?
それとも脳の血管が切れたのか?
確かにうちの家系は脳梗塞で亡くなっている人もいる・・・。
(ああ、俺はとうとうここで人生が尽きるのか。。。)
誠は崩れ落ちそうになる心と体を、歌碑の冷たい石の感触で辛うじて支えていた。
・・・・・・・・・・
「ねえ、お兄さん。火、持ってない? ライター」
不意に投げかけられた声に、うつむいていた誠の思考が停止する。
顔を上げると、そこには一人の若い女性が立っていた。
茶髪に革の黒ベレー帽。
不自然なほど白い肌に真っ黒なアイラインとシュッと細身に整った眉毛。
異様に短いスカートに、膝下まである厚底のロングブーツ。
2026年の渋谷では決して見ることのない、「コギャル」という名の歴史的遺物そのものの姿。
誠が高校生の頃、テレビや雑誌で見かけた、ある意味おなじみでありながら懐かしくもあるいで立ち。
そんな彼女は、誠の狼狽を歯牙にもかけず、手持ち無沙汰に指先で一本の煙草を弄んでいた。
「……火、ですか。すみません・・・持ってません。吸わないので(と言うか38の時に辞めたので・・・)」
誠は絞り出すように答えた。
その声は自分でも驚くほど震えていた。
女性は誠の顔をじっと見つめると、
「ちぇ、シケてんなあ~。」
と、隠そうともしない不満を露わにして舌打ちをした。
「シャアねえ、最後の一本使うか。」
彼女はコートのポケットから、小さなマッチ箱を取り出した。
シュッ、という乾いた音。
冬の風の中で、小さな炎が彼女の指先を照らす。
彼女は慣れた手つきで『セブンスター』に火をつけ、深い煙を吐き出した。
誠の鼻腔を、安っぽい煙草の匂いと、マッチの火薬の臭いが突く。
2026年の渋谷では決して許されないはずの、生々しい「生活の臭い」。
ただ、街中でこの臭いをかぐのも、ずいぶん久しぶりであもる。
彼女は煙草を燻らせながら、誠の服装をジロジロと観察し始めた。
「お兄さん、変な格好だね。そのコート、どこの? 見たことない質感なんだけど」
誠は自分の胸元を見下ろした。
2025年末に自分へのご褒美として、ボーナスで買ったマッキントッシュのコート。
「あ……、マッキントッシュ。。。」
「マッキントッシュ? ?何それ~面白い名前~。コンピュータの親戚かなんか?」
彼女はケラケラと、この世の全てを笑い飛ばすような無邪気さで笑った。
そんな彼女の笑顔に少し落ち着けたのか
「あの、、今って何年何月何日ですか…??」
と弱弱しく誠は彼女に質問をぶつけてみた。
「はあ~!? 1996ねん~ 1996年1月22日。月曜日
お兄さん、大丈夫?頭いかれた?」
「え??1996ねん?」
思わず、手元のスマートウォッチの画面を見る誠。
(たしかに‥‥1996年の文字が表示されている‥‥)
この時代の人々にとって、マッキントッシュとはアップルのコンピュータの代名詞に過ぎなかった。
英国の老舗ブランドが、この特有のカッティングと質感で日本のファッションリーダーたちに認知されるのは、まだ十年以上先の話だ。
「え、ほんとに大丈夫~、、なんか面白いんだけど~お兄さん」
屈託のない笑い声と、彼女が吐き出した煙草の匂いが、逆説的に誠の理性を引き戻した。
(落ち着け……。彼女がここにいて、このマッチの火は確かに灯っていた。
そして、このセブンスターの匂いは本物だ。
これは夢でも病気でもない。
俺は、本当に1996年に立っているんだ。)
誠は深く、冷たい空気を肺に吸い込んだ。
大学まで野球を続けた誠。
捕手として、何度となくピンチで投手や野手達を宥めてきた経験。
そして経営企画部長として、数多のイレギュラーを論理的に片付けてきた経験。
その全てが、誠に「現状を肯定しろ」と命じていた。
かみ合わない事が重なって満塁のピンチを招いたかもしれない。
ならば、ここからどうアウトを獲り、ゲームを立て直すか。
「……マッキントッシュ……。ああ、そうか。まだ知らないんだな」
誠の独り言に、彼女は
「はあ? 変なお兄さん~。まあいいわ、じゃあねえ~」
と煙を吐きかけ、そのまま青山学院大学のキャンパスがある方向へと、
厚底ブーツを鳴らして去っていった。
(なんだか、どこかで会ったことがあるような人だな。
彼女は、どこかの学生さんなんだろうか?)
誠は彼女の背中を見送ると、パンパン!と強く自分の頬を叩いた。
皮膚に残る確かな痛み。
それこそが、この時代を生き抜くための最初の「実感」だった。
「考えろ、俺」
誠のサバイバルが開始された。




