朝仲志音の夜
撮影が終わったのは、
日が落ちてからだった。
スタッフに挨拶をして、
車を降りる。
本来なら、
そのまま帰る予定だった。
志音は、
スマートフォンを見下ろす。
SNSで、
ずっと前に見かけた場所。
山の中にある、
小さなコテージ。
なぜか、
忘れられなかった。
両親と兄には、
泊まりの撮影だと伝えてある。
嘘をついた、
という感覚はなかった。
説明を、
省いただけだ。
コテージは、
想像していたよりも静かだった。
鍵を開けて、
中に入る。
木の匂い。
少しひんやりした空気。
室内には、
生活の気配がほとんどない。
荷物を置き、
志音はリビングの窓に近づく。
カーテンを開け、
サッシに手をかける。
窓を開けると、
夜風が静かに流れ込んできた。
志音は、
ベランダに出た。
足元の板が、
小さく音を立てる。
外は、
思っていた以上に暗い。
空を見上げる。
街よりも、
星が多い。
名前の分からない光が、
いくつも浮かんでいる。
虫の声。
遠くを走る車の音。
それ以外は、
何も聞こえない。
誰もいない。
呼ばれることも、
尋ねられることもない。
選択肢を、
並べられることもない。
それなのに。
胸の奥に、
薄い膜のようなものを感じた。
追われてはいない。
縛られてもいない。
けれど、
何かが、
ずっと巻き付いている。
ほどけない、
感覚。
ベランダの手すりに
軽く手を置いたまま、
志音は息を吐く。
少し、
冷えた。
志音は、
室内へ戻る。
ベランダの窓を閉め、
カーテンを引く。
外の音が、
一気に遠ざかった。
リビングのテーブルに、
スマートフォンを置く。
画面が、
小さく震えた。
表示された名前は、
桐原涼真。
《今日はもう帰った?》
短い文章。
問い詰める調子ではない。
ただ、
正しい心配。
志音は、
ソファに腰を下ろしてから、
少し考える。
《まだ》
すぐに、
既読がついた。
間が空く。
室内は静かで、
その沈黙がやけに響く。
《撮影、遅かったんだな》
《無理しなくていい》
正しい言葉。
優しい。
配慮もある。
疑う理由は、
どこにもない。
《今日は、静かなところ》
志音は、
それだけ送った。
場所は、
書かなかった。
少しの間。
そして、
返事が来る。
《それなら、よかった》
《ちゃんと休め》
それ以上、
何も聞いてこない。
干渉されていない。
――そう、感じた。
けれど、
同時に思う。
聞かないことと、
知らないことは、
同じではない。
志音は、
スマートフォンを伏せる。
テーブルの上に置く。
これ以上、
やり取りを続けない。
それを、
自分で選ぶ。
部屋の明かりを、
少しだけ落とす。
ソファの背に身を預け、
天井を見上げる。
誰にも見られていない。
評価も、
期待もない。
それでも、
自分がどこにいるのか、
分かってしまう。
安全な場所。
用意された範囲。
たとえ、
一人でいても。
志音は、
小さく息を吐いた。
自由だと、
思う。
誰にも、
邪魔されていない。
それは、
確かだった。
でも同時に、
こうも思う。
――この自由は、
本当に、自分で選んだものだろうか。
答えは、
出なかった。
出さなくても、
困らない。
明日になれば、
また日常に戻る。
志音は、
そのまま目を閉じる。
夜は、
静かに流れていく。
何も起きないまま。
それが、
朝仲志音の、
ひとりきりの夜だった。




