62話 逃亡
俺は今、ノワラ国で指名手配されている。
数時間前、国王の身勝手な提案を突っぱね、さらには無礼極まりない行いを働いた俺は、今や王直属の親衛隊に追われる身だ。
(もう、この国にはいられない…ノアたちにも会えない…)
思い浮かべるのは仲間たちの笑顔とその温もり。しかし、そのどれもがもう手の届かないものだと思うと、胸が締め付けられる。
俺はわずかに涙ぐみそうになるのを堪え、裏路地を駆け抜けた。
目指す先は一つしかない――『夜露通り』。
ここは法も秩序も届かない闇の巣窟。奴隷市場や闇市が密かに繁栄する場所で、悪党たちがばっこする街の底辺だ。親衛隊ですら滅多に足を踏み入れない。あそこなら、しばらくの間身を潜められるだろう。
しかし、それは一時の安全でしかない。この街を抜けるにはどうしても首都カーヴァインの東西南北それぞれににある門を通らなければならない。だが、それらは既に厳重な警備が敷かれている。親衛隊の監視の目をくぐり抜ける方法は思いつかない。
(どうする…どうやってこの街を出る…?)
焦りと不安が脳裏を駆け巡る中、俺は無意識に足を速めていた。気づけば、通りを行き交う人影がまばらになり、あたりはしんと静まり返っている。
やがて、独特の陰鬱な雰囲気が漂う場所に辿り着いた。ぼんやりとした灯りが、歪んだ影を路地に映し出している。
「夜露通り…懐かしいな。」
声に出すと、少し乾いた笑いがこぼれた。ここに来るのは久しぶりだ。2年前、俺はこの通りで一度死にかけた。あの時は何も知らずに足を踏み入れ、命を落としかけたことを今でも覚えている。
通りを歩くだけで体が震えた当時の俺とは違い、今は足取りも落ち着いている。時間が俺を変えたのか、それとも、追い詰められた状況が恐怖を麻痺させたのか――どちらにせよ、今の俺にこの通りが怖いと感じる余裕はない。
薄暗い路地に足を踏み入れると、空気が変わった。ここでは法も理屈も通用しない。生き残るためには自分の力だけを信じるしかない世界だ。道行く者は皆、一瞥するだけで敵か味方かを見極めようと鋭い目を光らせている。
俺も無意識に手を拳にして警戒を強めた。
(油断するな。この通りでは、一瞬の隙が命取りになる…)
通りの奥へ進むにつれ、悪臭と不快感が増していく。ここに集う者たちは俺を見ても、何も声をかけない。それは俺が親衛隊に追われていることを知らないわけではなく、単純に「他人に関わるのが面倒」だと判断されているからだろう。
(今はそれでいい。問題を起こすわけにはいかない…)
俺は深く息を吸い、再び足を速める。今はこの通りに身を潜める場所を探し、この国を出る作戦を考えなければならない。
――だが、その時だった。背後で微かに足音が聞こえた。こんな場所で足音を隠そうとしない人間がいるということは、相手はこちらに接触する意思があるということ。
嫌な予感が胸を過ぎる。
(誰だ…?)
俺は立ち止まり、振り返った。そこには、一人の男が立っていた。フードを深く被り、顔は影に隠れている。腰には剣がぶら下がっており、男が剣士であることが一目で分かる。
「誰だ!?」
俺は警戒心を隠さず声を上げる。
男はゆっくりと足を止め、俺と目が合うと、ふっと口元を緩めて笑った。
「おぉ、久しぶりじゃねえか、ガキ。」
「?」
馴れ馴れしい口調に俺は戸惑いを隠せない。男は俺を知っている様子だが、こちらにはまるで覚えがない。
そんな俺の様子を見て、男は軽く肩をすくめ、フードを取ると自分の顔を指差して笑った。
「ほら、俺だよ俺!思い出したか?」
その瞬間、記憶が甦る。
「お前は…!」
二年前、この夜露通りに迷い込んだ俺に取引を持ち掛けてきた男だ。ビスマーに囚われていたノアの居場所を教える代わりに盗みを命じた、あのふざけた男。
髪は肩まで伸び、以前とは違い髭は綺麗に剃られているせいで、すぐには気づかなかったが間違いない。あの頃から変わらず不敵な笑みを浮かべる男を見て、胸の奥に湧き上がる複雑な感情を抑えられない。
だが、だからといってこの男と親しいわけでもない。この通りで生きる人間と深く関わることは、即ち裏切りや危険を意味するからだ。
「どうしたんだよ、そんな疲れ切った顔して」
男は俺を品定めするような目で見て、ふざけた調子で言う。
「別に…ちょっとな。」
俺は素っ気なく答えると、その場を離れようとした。しかし男は逃がしてくれなかった。
「おいおい、なんだか性格変わってねえか?指名手配中のカイル・ブラックウッド君よ。」
「…!知ってたのかよ。」
俺の足が止まる。まさか、この男が俺の状況を知っているとは。
「情報屋なもんでね、面白い話はすぐ耳に入るのさ。」
男は腰に手を当てて笑う。その顔は挑発的で、まるで俺の動揺を楽しんでいるようだった。
「それで…何か用があるんだろ。知っててわざわざ近づいてくるなんて、ここじゃありえないことだからな。」
俺はじっと男を見つめながら言った。こんな場所で無駄話をするほど愚かな人間は存在しない。それが分かっているからこそ、逆に警戒心が強まる。
「…察しが良いじゃねえか。そうだ、お前に用がある。」
男の顔が一瞬真剣なものに変わり、俺は無意識に身構えた。
「俺なら、お前をこの街から出すことができる。」
「本当か…!?」
思わず声が上ずるが、男は眉をひそめて俺を睨んだ。
「おい!騒ぐな。そして、気が早ぇよ。」
男は周囲を警戒するように辺りを見回し、声を落として続けた。
「実はな、二年前にお前らがぶっ殺した剣士…覚えてるか?」
「あの男がどうした?」
「あいつ、この通りを仕切ってたんだよ。当時のボスさ。」
「…!」
俺は言葉を失った。その剣士が並外れた強さを誇っていたことは今でも鮮明に覚えている。確かに、あれほどの男がただの通りすがりだったとは思えなかった。
「お前らがあいつを殺してくれたおかげで、今俺がこの通りのボスだ!いやぁ、助かったぜ。」
男はそう言って笑みを浮かべたが、俺にはそれを素直に喜ぶ気分にはなれなかった。
「それで…俺を逃がす代わりに、俺に何をさせるつもりだ?」
警戒心を滲ませながら問うと、男はさらに口角を上げ、手紙を取り出した。
「これをノワラ国の東にあるダール国まで運んで欲しい。そこのシンバって男に渡せ。」
「シンバ…?」
「ただの冒険者だよ。俺みたいな連中とは全然違う善人さ。」
「ならお前が直接届ければいいだろ。なんで俺なんだ?」
「それ以上は踏み込むな。これ以上言ったら、お前の首が飛ぶかもな。」
何か裏があることは明白だが、今の俺には選択肢がなかった。この機会を逃せば、街を出ることは絶望的だろう。
「…取引成立だ。」
俺は男の手を取った。
その後、宿に戻って荷物を回収しようとしたが、既に親衛隊が宿を包囲しており近づくことすら叶わなかった。全財産を失ったことに悔しさを感じながらも、俺は夜露通りへ戻り、男と再び合流した。
彼は荷馬車を用意しており、それに商人を装って俺を隠して街を抜ける計画だった。男は最後に重みのある袋を俺に手渡した。中を見ると、十数枚の金貨が入っている。
「…いいのかよ、こんなに。」
「あぁいいさ。郵便代と思っておけ。」
男は笑うと、それ以上何も言わずに闇の中へと消えていった。
(あいつに借りを作っちまった…いつか、恩返ししよう。)
俺は荷馬車の荷物の中に身を隠し、祈るような気持ちで首都カーヴァインを後にした。




