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異世界戦記 ~ここで俺は最強に至る~  作者: かげ2500
第10章 天命の檻編

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579話 世界の感情

 ノア――いや、“世界”の蹂躙は、終わる気配を見せなかった。


 視認できない何かが、空間そのものを裂く。

 空気元素魔法を基盤にした不可視の攻撃。

 圧縮された風が刃となり、槌となり、俺とカリーナの身体を容赦なく打ち据えた。


「――ぐっ!」


 横から叩きつけられ、視界が白く弾ける。

 次の瞬間には背中を地面に強打し、肺の空気が一気に吐き出された。


「カイルっ……!」


 カリーナの声が聞こえた気がしたが、次の衝撃でその声も引き裂かれる。

 身体が宙を舞い、雪と土が混ざった地面を何度も転がった。


 立ち上がれない。

 いや、立ち上がるという発想そのものが、暴力によって押し潰されていく。


 手も足も出ない。

 防御も回避も、詠唱すら許されない速度と密度の攻撃。


 それでも――。


(……殺されて、いない)


 骨が砕けてもおかしくない衝撃。

 内臓が潰れてもおかしくない圧力。


 なのに、致命打だけが、絶妙に外されている。


 まるで――死なせないように、選んで攻撃している。


(……いたぶってる、のか?)


 それとも、観察か。

 それとも――ただの気まぐれか。


 分からない。

 分からないが、一つだけ確かなことがあった。


 殺されていない限り、可能性は残っている。

 ノアを救える可能性が――。


 俺は歯を食いしばり、地面に突き刺さるように手をついた。

 肘が震え、腕が言うことを聞かない。


 呼吸が荒れ、喉が焼けるように熱い。

 肩が勝手に上下し、視界の端が暗く滲む。


 手が震え、杖を落としそうになる。

 身体は鉛の塊みたいに重く、今すぐ眠ってしまえと囁いてくる。


 それでも――。


(弱気になるな……諦めるな)


 俺は、無理やり震える指に力を込め、杖を握り直した。


「俺は……」


 声が掠れる。

 それでも、叫んだ。


「俺は諦めない!!」


 杖を構え、“世界”へと向ける。


 ――だが。


 その瞬間、視界に映ったのは、微笑む彼女の姿だった。


 白い長髪。

 赤い瞳。

 そして、ノアの面影を色濃く残した顔。


(……ノア)


 思い浮かんでしまう。

 どうしても。


 笑っていたノア。

 何気ない会話。

 人を傷つけないようにと、爪を丸く削っていた、あの不器用な優しさ。


 躊躇。


 ほんの一瞬。

 たったそれだけ。


 だが――。


 力は、正直だった。


 せっかく振り絞った魔力が、糸が切れたように抜け落ちる。

 集中が霧散する。


 その隙を、世界が見逃すはずがなかった。


 掌が、こちらに向けられる。


 次の瞬間――地面が、べこりと音を立てて凹んだ。


「――ッ!!」


 足元が崩れ、身体が落下する。

 重力に引きずられ、数メートル下の空間へ叩き落とされた。


 背中と尻を岩に強打し、呻き声すら出なかった。

 視界が揺れ、頭の奥で鈍い音が鳴り続ける。


「くそ……ッ……」


 岩の上に座り込んだまま、歯を食いしばる。


「駄目だ……攻撃、できない……!」


 情けなさが胸を締め付ける。

 戸惑いと劣等感、そして圧倒的な無力感。


 ――ノアだから。

 ――あの身体は、ノアのものだから。


 俺には、どうしても傷つけられなかった。


「フフ……」


 頭上から、笑い声が降ってくる。


 見上げると、崩れた地面の縁に、世界が立っていた。

 赤い瞳が、底知れない光を湛えている。


「私に攻撃することを、なぜ躊躇しているのですか?」


 分かっているくせに。

 答えなど、最初から知っているくせに。


「お前……分かって言って――!」


 叫びかけた、その時。


「――“私のことは気にしないで、カイル!”」


 ノアの声だった。


 完璧な抑揚。

 完璧な口調。


 俺は、目を見開いた。


「……お前……」


 胸の奥で、何かが、ぶちりと切れた。


 怒りが、熱を持って込み上げる。

 血が沸騰するような感覚。


 それだけは――それだけは、やめてくれ。


 胸の奥で、何かが弾けた。


「ふざけるな……!」


 怒鳴った声は、自分でも驚くほど荒れていた。

 喉が焼けるように痛む。それでも止められなかった。


「獣族だけの世界なんて作って、何になる! 

 そこに何が生まれるんだ!? 

 憎しみだけ残した世界のどこに希望がある!?」


 穴の底から見上げた“世界”――ノアの姿をしたそれは、少しだけ首を傾げた。

 まるで本当に、理解できないとでも言うように。


「誤解していますね、カイル」


 穏やかで、冷たい声。


「私は“創造神”になろうとしているのではありません。

 これは新たな創造ではない。

 既存の世界の最適化――”進化”です」


 白い髪が、赤月の光を反射して揺れる。


「獣族は、“ある不幸”によって、この私――『アルフェアス』へと流れ着きました。

 その不幸は、あなたたち先住の生命には決して理解できない」


 淡々と、断罪するように続ける。


「創造神が“最初”に作りたもうた生命――人族。あなたたちは、最初から幸福を与えられていた。

 恐怖も、喪失も、根こそぎ奪われる絶望も、知らずに生きてきた」


 赤い瞳が、真っ直ぐ俺を射抜く。


「それにもかかわらず、獣族を迫害し、差別し、時に玩具のように扱った。

 ……なんと、醜い生命でしょう」


 胸が、締めつけられた。


「これは、創造神への訴えでもあるのです」


 世界は静かに告げる。


「あなたたちは、“少数の幸福”を守るために、“全体の最適解”を拒んでいる」


 一拍置いて、そして――。


「それに……」


 その声が、ほんのわずかに低くなる。


「この依代が、それを望んでいるとしたら?」


 頭を殴られたような衝撃。


「……なに……?」


 喉から、かすれた声しか出なかった。


 ノアが?

 人族の滅亡を?

 そんなはずがない。


 否定しようとした瞬間――記憶が、勝手に溢れ出す。


 学園の中庭。

 人族の生徒に囲まれ、俯いていたノア。

 笑ってやり過ごしていたけれど、あの時、確かに震えていた肩。


 今では表向き、差別は減った。制度も整った。

 けれど――。


(加害者は、すぐ忘れる……)


 誰かが言っていた言葉が、胸に突き刺さる。


(でも、被害者は……忘れない)


 どうして、考えなかった。

 ノアも、本当は――。


「人族なんて、いなければいいって……思ったこと、あったんじゃ……」


 視界が歪む。

 罪悪感と恐怖が、心を押し潰しにかかる。


 そのとき――。


「そんなわけないでしょ!!」


 鋭い声が、上から叩きつけられた。


 見上げると、穴の縁に立つカリーナが、拳を握りしめていた。

 怒りと確信を宿した瞳。


「あの子はね! カイルのことが大好きなのよ! 一筋なの!」


 息を吸い、叫ぶ。


「人族の滅亡? 世界の再編? 

 そんなこと考えてる暇なんてあるわけないじゃない!」


 笑う。

 泣きそうな顔で、それでも笑って。


「だってあの子は――カイルと出会ったあの日から、ずっと恋する乙女なんだもの!」


 胸が、熱くなる。


「だから……」


 カリーナは杖を構え、世界を真正面から見据えた。


「そろそろ、目を覚ましなさいよ! ノア!!」


 杖先が、白く輝く。


「私の“イメージ”……受け取りなさい!!」


 放たれたのは、無色の魔法。

 いや――色がないのではない。全ての色を内包した白。


 流れの中に、俺は見た。


 笑うノア。

 ぎこちなく笑って、少し照れて、でも確かに幸せそうなノア。


「……あれは……」


 気づく。


 これは、カリーナの『唯一魔法』。

 己の記憶そのものを、イメージとして魔力に変換する魔法。


 白い領域が世界を包み込む。


 カリーナとノアが交わした他愛のない会話。

 街で買い物をした日。

 一緒に勉強して、笑って、遊んだ日々。


 それらが、スクリーンのように空間へ投影されていく。


「……こんなものを見せたところで」


 ”世界”が言いかけた、その瞬間。


 ”世界”の右腕が、”世界”自身の首を掴んだ。


「――な……?」


 力を込める。

 白い指が、喉を締め上げる。


「……この、反応は……」


 ”世界”の声に、初めて動揺が混じった。


「まさか……」


 赤い瞳が、震える。


「私に、抗おうとしている……?」


 ノアの――ノア自身の意思が、確かにそこにあった。


 白い長髪を揺らしながら、”世界”は自分の右腕を見つめていた。

 その腕は、本人の意思とは無関係に震え、喉元へと伸びている。

 まるで、己自身を拒絶するかのように。


「……これは、どういうことです?」


 無機質だった声に、わずかな動揺が混じる。

 指は確かに、世界自身の首を締め上げていた。力は強くない。

 だが、意思の介在しない“反逆”という事実が、世界を困惑させていた。


「依代の意識は、代弁者が完全に眠らせたはず……なのに……」


 赤い瞳が、わずかに揺れる。


 ――その一瞬だった。


「カイル、腕を!」


 カリーナの叫びと同時に、彼女の腕が俺の腕を掴んだ。

 反応する間もなく、身体が宙に引き上げられる。

 崩れた地面の縁を越え、雪と岩の上へと投げ出される形で転がった。


「っ……!」


 息が詰まり、視界が一瞬白む。

 だが、次に感じたのは確かな地面の感触だった。


「助かりました……カリーナさん。

 あの魔法、効いてるみたいです……!」


 荒い息のままそう言うと、カリーナは短く息を吐き、肩をすくめる。


「賭けだったけどね。

 だけど――効くって、信じてた」


「でも……どうしてこの方法を?」


 俺の問いに、カリーナは答えず、ただ俺の背後へと視線を向けた。


 釣られるように振り返った、その先。


「……アルベリオさん!」


 雪原の向こう、岩陰から一人の男が姿を現していた。

 ローブには焦げ跡があり、顔には疲労の色が濃い。

 だが、その瞳は真っ直ぐだった。


「戻ってきたんですね!」


 そう言うと、アルベリオは静かに頷く。


「うん。僕がいない間に……随分と状況が悪化したみたいだね」


 視線が、“世界”へと向く。

 己の首を絞める右腕に困惑しながらも、再び制御を取り戻そうとする存在へ。


「話は聞いたよ。

 ああいう“身体を乗っ取る類”の存在はね――」


 アルベリオは一歩前に出て、断言する。


「本体。つまり、ノアさん本人の意識を覚醒させれば、主導権は元に戻る」


 その言葉に、カリーナが俺の肩を強く掴んだ。


「次は、あなたよ」


「……俺?」


「そう。私の記憶じゃ足りない」


 カリーナははっきりと言った。


「ノアちゃんはね、私のことも大切に思ってくれてる。

 でも――“戻る理由”として一番強いのは、あなたなの」


 指先に力が籠もる。


「あなたとノアちゃんの思い出。

 あなたと過ごした時間。

 それが、あの子を“ここ”に引き戻す」


 背後で、アルベリオが小さく頷いた。


「人の想いは、時に魔法を越える。

 それがどれだけ強大な存在でも、ね」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 ――できるだろうか。

 俺に、あのノアを取り戻す資格があるのか。


 だが、迷っている時間はなかった。


「……分かりました」


 俺は杖を握り直し、頷いた。


「それでノアが戻ってくるなら……やります」


 アルベリオは満足そうに微笑み、踵を返す。


「ここは君たちに任せるよ。

 僕は、どこかに隠れているはずのルーナを探す」


「そういえば、時止めの対処法は……?」


「残念だけど、得られなかった。でも――」


 アルベリオの瞳が鋭く細まる。


「ヒントは貰えた。

 世界の意思が動き出している今、彼女も無事じゃ済まないはずだ」


 そう言い残し、彼は雪煙の向こうへと消えていった。


 残されたのは、俺とカリーナ、そして――。


「……まだ、終わっていませんよっ」


 ゆっくりと、”世界”がこちらを見下ろす。

 右腕の震えは止まったが、表情には明らかな“ノイズ”が残っていた。


「ですが……面白い」


 白い長髪が、風に揺れる。


「依代が、ここまで強く抗うとは……。

 あなたは人族の中でも、特にこの依代と深い存在らしいですね」


 赤い瞳が、俺を射抜いた。


「さあ、カイル。

 あなたの“記憶”とやらを、見せてみてください」


 ――逃げ場はない。

 ここで、ノアを取り戻せなければ。


 俺は、杖を構えた。


 彼女と過ごしたすべてを、武器にする覚悟で。


 カリーナの身体に、そっと触れる。


 それだけで、胸の奥がきしんだ。


 忘れたことなんて、一度もなかった。

 忘れられるはずがなかった。


 ノアと過ごした日々。

 出会った瞬間。

 視線が合って、怯えたように笑ったあの表情。

 何気ない会話。

 ぎこちない距離。

 少しずつ、確かに縮まっていった心の間隔。


 ――思い出すだけで、胸が痛い。


「……いくわよ」


 カリーナが静かに告げる。


 俺の手のひらから、魔力が溢れ出す。

 いや、引き抜かれていく感覚だ。


 温度を持った光が、血管を逆流するように吸い上げられ、カリーナの杖へと集約されていく。

 その中には、魔力だけじゃない。


 記憶。

 感情。

 後悔も、願いも、全部。


 カリーナは目を閉じ、杖を強く握った。


「……準備、出来たわ」


 ゆっくりと、杖が持ち上がる。


 向けられた先には、白髪赤眼の“世界”。


 ”世界”は愉悦に満ちた笑みを浮かべ、両腕を大きく広げた。


「さぁ、その記憶を私に見せてください」


 芝居がかった声音。

 だが、その瞳は本気だった。


「興味があります。

 この依代が、これほどまでに大事に思う――あなたという存在が」


 ……好機だ。


 完全に、受ける姿勢。

 避ける気も、防ぐ気もない。


 俺は息を吸い、心の中で呟く。


(ノア……待っててくれ)


 すぐに。

 もうすぐ、必ず――。


「――いけ!!」


 カリーナの声と同時に、魔法が解き放たれた。


 白い光が、”世界”を貫く。

 視界が溶け、音が遠のき、現実が剥がれ落ちる。


 そして――。



 ※※※



 ……これは。


 これは、一体――なんなのでしょう?


 ”世界”は、気づけば見知らぬ場所に立っていた。


 いや、違う。

 知らないはずがない。


 高くそびえる門。

 整えられた石畳。

 魔力の流れを感じさせる建築様式。


 ノワラ王国首都――カーヴァイン魔法学園。


「……そうですか」


 ”世界”は、すぐに理解した。


「これは……依代とカイルの記憶」


 周囲は静止しているようで、完全な静寂ではない。

 微かに流れる時間のざわめき。


 ”世界”は自嘲気味に笑う。


「この“世界そのもの”である私に、あなたたちの思い出を追体験させるつもりですか?」


 理解不能。

 無意味。


 感情など、ただの情報に過ぎないはずだ。


「何の意味があって、こんな――」


 そう思考しかけた、その瞬間。


「……っ」


 視界が、強制的に動いた。


 ”世界”の意思とは無関係に。

 抗う余地もなく。


 時間が、流れ出す。


 学園の門の前。


 一人の少女が、俯いて立っていた。


 獣族特有の耳。

 緊張で強張った肩。

 周囲の視線に晒され、無意識に身を縮めている。


 ――ノア。


「……」


 ”世界”は、言葉を失った。


 今のノアは、今とは違う。

 力も、笑顔もない。


 ただ、怯えていた少女だった。


 そのとき。


「――あの~、ちょっといいですか?」


 背後から、声がかかる。


 軽い調子。

 何気ない一言。


 振り向いたノアの視線の先にいたのは――。


 カイル・ブラックウッド。


「……え?」


 ノアの目が、わずかに見開かれる。


 それだけの、ただの瞬間。


 だが――。


 ”世界”は、胸の奥に“ノイズ”を感じた。


(……これは)


 理由は分からない。

 理解不能。


 だが確かに、何かが揺れた。


 記憶は、容赦なく次へと進む。


 会話。

 すれ違い。

 不器用な距離感。


 ノアが、少しずつ笑うようになる。


 人族に傷つけられても、カイルと話すときだけは、ほんの僅かに表情が柔らぐ。


「……こんな些細な出来事に」


 ”世界”は、困惑する。


「……なぜ、これほど――」


 言葉が続かなかった。

 胸の奥に、説明できない“圧”が生じていた。


 ――これは。


 ただの情報ではない。


 これは、

 誰かにとっての“救い”だった記憶だ。


 そして”世界”は、初めて気づき始める。


 この記憶を“見せられている”のではない。

 “感じさせられている”のだと。


 ”世界”は、知らなかった。


 これほどまでに――。

 一人の存在が、誰かの世界になり得ることを。


 “世界”の追体験は、終わる気配を見せなかった。


 白い光が揺らぎ、次の瞬間、視界は鮮やかに塗り替えられる。

 そこにいたのは――まだ幼さの残るノアとカイル、そして彼らを囲む仲間たち。


 初めて迷宮に足を踏み入れた日の記憶。

 慎重すぎるほど慎重に進むカイルの背中に、ノアが楽しそうに話しかけている。

 罠に引っかかり、慌てふためき、笑い合い、叱られ、それでも前へ進んだ。


 学園での催し。

 人族も獣族も入り混じり、ぎこちなくも確かに同じ空間で笑っていた光景。

 ノアが些細なことで落ち込み、カイルが不器用な言葉で励ます場面。


 喧嘩をして、すれ違い、沈黙の時間を挟んで、また笑い合う。


 記憶は、幸福だけでは終わらない。


 他国での出来事。

 赤黒い血に染まる地面。

 崩れ落ちるカイルの身体。

 ――ノアが死んだ、と思った瞬間。


「……ノア……?」


 その名を呼び、呼び、呼び続け、カイルがその場で膝をつき、人目も憚らず泣き崩れる記憶。


 嗚咽。

 叫び。

 願い。


 助けて。

 死なないで。

 置いていかないで。


 “世界”は、言葉を失っていた。


 ――獣族に。

 ――こんなにも、深く思いを寄せる存在がいたのか。


 知らなかった。

 知らなかったのだ。


 “世界”は、ノアという依代を得るまで、意思を持たなかった。

 あったのは、ただ一つ。


 獣族を守らねばならない。


 その衝動だけ。

 疑問も、迷いも、比較もなかった。


 だから、知らなかった。

 世界が――これほどまでに、共存の可能性に満ちていたことを。


 だが。


 “世界”の意思は、なおも固い。


 ノアとカイル。

 この関係は、彼らだからこそ成立した、奇跡のようなもの。

 人族と獣族――本来なら交わることのない存在同士。


 この二人が特別なだけだ。

 それが、“世界”の結論だった。


 記憶の追体験が終わり、白い光が薄れていく。

 “世界”の意識は、再び現実へと引き戻されようとしていた。


 ――得たものは、なかった。


 そう結論づけた、そのとき。


 目の前に、一人の少女が立っていた。


 白い長髪でも、赤い瞳でもない。

 栗色の短い髪。

 穏やかで、柔らかな緑の瞳。


 眠っているはずの――ノアの意思、そのもの。


「あなたは……」


 呟く“世界”の言葉を遮るように、ノアは一歩踏み出し、そっと、“世界”を抱きしめた。


「私の……獣族のために、ありがとう。世界さん」


 その温もりは、驚くほど――暖かかった。


 感覚も、感情も、持たないはずの存在。

 それなのに。


 胸の奥が、じんわりと満たされていく。


「これは何でしょう。

 この、溢れ出しそうなものは……」


 “世界”は、ようやく理解した。


「――あぁ。

 私は、獣族を……ただ、愛していただけなのですね」


 守りたい。

 失わせたくない。

 二度と、あの不幸を繰り返させたくない。


 それだけだった。


「私は……間違っていたのでしょうか」


 震える問いに、ノアは首を横に振る。


「ううん。どこも、間違ってなんかないよ」


 優しい声が、静かに響く。


「……ただ、ちょっと度が過ぎちゃっただけ。

 あなたは、本当はとても優しい。

 その優しさが、少し行き過ぎちゃっただけなんだと思うの」


 沈黙のあと、“世界”は、最後の疑問を口にした。


「なぜ……彼は……。

 カイルは、獣族を好いているのでしょう?」


 ノアは、くすりと笑い、自分の姿をした“世界”の瞳を、まっすぐに見つめる。


「カイルはね……」


 一拍置いて。


「“モフモフ”が好きらしいの!」


 満面の笑み。


 そのあまりにも拍子抜けする答えに、”世界”は、思わず微笑んでしまった。


 自ら手を下さずとも。

 人族を滅ぼさずとも。


 時間はかかるかもしれない。

 痛みも、衝突も、まだ残るかもしれない。


 それでも。


 ――きっと、人々は変わっていける。


 今、この瞬間。

 この二人の関係を知ることができただけで。


 “世界”は、確かにそう思えたのだった。

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