閑話 キャロル・オブ・ザ・ヘル
そこは――雪が、永遠に降り続ける白い世界。
空は低く、雲は裂けることなく、陽光は決して地に届かない。
降り積もる雪は大地を覆い、街を埋め、人の足跡も、血の跡も、やがてはすべてを消し去る。
その地の名を、人々は『クリアステル』と呼んだ。
太古――。
この地には、かつて緑があり、命があり、争いがあったという。
そしてそれらすべてに愛想を尽かした存在がいた。
『死の女神』。
彼女は語らなかった。
裁きも、赦しも、宣告すらも与えなかった。
ただ一つ、罰として――雪を降らせた。
終わることのない雪。
命を奪い、腐敗を遅らせ、罪も穢れも覆い隠す白。
人々は、その意味を理解できなかった。
理解できぬものに、人は名を与える。
ある者は言った。
――これは救済だ。死を等しく与える、慈悲なのだと。
ある者は言った。
――これは神の慈愛だ。苦しみを白で包む、優しさなのだと。
またある者は言った。
――これは天罰だ。罪深き者への、終わらぬ刑なのだと。
解釈は交わらず、否定し合い、絡まり合い――やがて、一つの歪んだ結論へと収束していった。
ならば、誰かが”穢れ”を引き受けねばならない。
神を信じるために。
雪を祝福と呼ぶために。
この世界が正しいと、言い張るために。
そうして生まれたのが、『聖隷』と呼ばれる者たちだった。
神に仕える者。
人々の代わりに苦しみを背負う者。
穢れを引き受け、罪を抱え、壊れていくための存在。
それは信仰であり、制度であり、
そして――正当化された犠牲だった。
ある日。
雪の止まぬ朝。
一人の少女が、聖隷となった。
少女の名は、シャロル・ベル。
まだ幼く、細い身体をしていた。
白い息を吐くたびに肩が震え、指先は常に赤く腫れていた。
だが、その瞳だけは、不思議なほど澄んでいた。
それが“選ばれた”理由だったのか。
あるいは、“選んでも壊れて構わない”と思われたからか。
誰も答えを持たない。
ただ、結果だけが雪の上に残った。
教会の鐘が鳴る。
鈍く、重く、祝福を装った音。
人々は祈りを捧げ、歌を口ずさみ、微笑んだ。
その中心で、シャロルは跪いていた。
彼女はまだ知らなかった。
この世界が求めているのは、救済ではなく――壊れきった信仰を、血で補強することだということを。
そして彼女自身が、やがて讃美歌そのものになるということを。
――地獄で、歌われる讃美歌に。
シャロル・ベルが聖隷に選ばれた理由は、単純だった。
――”力”を持っていたからだ。
それも、生まれながらに。
この雪の世界、クリアステルにおいて、人ならざる力は畏怖され、同時に”祝福”と呼ばれる。
祝福とは、女神が未だ世界を見捨てきれていない証。
そう信じることで、人々は雪の罰を耐え忍んできた。
聖隷となる者の多くは、祝福を授かっている。
傷を塞ぐ者。
呪いを沈める者。
穢れを洗い流す者。
だが、それらの祝福は、誰かのために消費されるための力だった。
シャロルの祝福もまた、その一つだった。
その名は――『讃美の鈴』。
彼女が祈り、触れ、息を重ねるとき、どこからともなく、鈴の音が響く。
澄んだ音色。
雪の夜によく似た、静かで、優しい音。
その音とともに、他者の傷は塞がれ、病は身体を離れ、苦痛は消え、罪は薄れ――。
穢れはすべて、シャロルのもとへと集まる。
“引き受ける”。
それが、『讃美の鈴』の本質だった。
浄化ではない。
消滅でもない。
移し替えだ。
誰かの不幸を、誰かの罪を、誰かの痛みを――。
すべて、彼女一人に押し付ける力。
その力を、教会は見逃さなかった。
シャロルは、ある国の聖隷として迎え入れられた。
それは栄誉として語られ、祝福として宣言された。
民の傷を癒すため。
民の穢れを祓うため。
女神への信仰を、正しく保つために。
彼女は、主要都市に一つだけ建てられた、白亜の教会へと置かれた。
そこは、最も女神に近い場所。
天井は高く、壁は白く、絶えず讃美歌が流れ、香が焚かれ、雪の冷気すら清められているかのようだった。
その場所では、祝福の力は増幅される。
同時に――祝福を持つ者を、逃がさぬための力もまた、満ちていた。
見えない鎖。
祈りという名の拘束。
神意という名の命令。
シャロルは、そこから出ることを許されなかった。
毎日、祈りの時間が訪れる。
列をなす人々が、彼女の前に跪く。
腰の曲がった老人。
罪を犯した者。
熱に浮かされた子供。
仮面を外さぬ貴族。
皆、同じ言葉を口にする。
「救ってくれ」
「祓ってくれ」
「祝福を」
誰一人として、彼女が何を失うかを問う者はいなかった。
シャロルは、祈る。
鈴は鳴る。
穢れは、彼女の中へと流れ込む。
胸が重くなる。
視界が濁る。
皮膚の内側を、黒い何かが這う感覚。
それでも、人々は安堵の息をつき、微笑み、感謝する。
――それが、聖隷の役目だった。
だが、シャロルの祝福には、明確な代償があった。
引き受けた穢れは、消えない。
時間が経てば、薄れることもない。
それは体内に沈殿し、混ざり合い、濁り、膨れ上がり――。
やがて、確実に身体を蝕む。
内臓を壊し、骨を腐らせ、思考を歪め、魂を侵す。
そして最後には、聖隷を死に至らしめる。
それは偶然ではない。
事故でもない。
定められた末路だった。
教会は知っている。
国も知っている。
人々も、薄々は気づいている。
だが誰も口にしない。
必要だからだ。
誰かが、引き受けねばならないからだ。
シャロルは、絶望していた。
聖隷に選ばれたからではない。
親に売られたからでもない。
いずれ穢れに呑まれ、死ぬと知ったからでもない。
――この世界の人々が、あまりにも静かに、それを受け入れていることに。
鈴の音が鳴るたび、救われる者が増える。
同時に、誰も、彼女を見なくなっていく。
シャロルは、雪の降る教会で、初めて理解した。
この世界は、救済を求めているのではない。
ただ、罪を押し付ける相手を欲しているだけなのだと。
そんなある日、シャロル・ベルの身体は――止まった。
それは突然の出来事ではなかった。
熱も、痛みも、前兆すらもなく、ただある朝、彼女は気づいた。
呼吸が、要らない。
心臓の鼓動が、遠い。
空気を吸わなくても苦しくならず、食事を抜いても空腹を感じず、夜になっても眠気は訪れなかった。
爪は伸びない。
髪も伸びない。
血も、汗も、涙も、以前のようには流れない。
身体の成長が、完全に停止していた。
暦の上で、シャロルは十八になっていた。
だが彼女の身体は、それを境に“年を取る”ことをやめた。
――驚きはなかった。
なぜなら、聖隷であるなら、それはよくあることだったからだ。
十八。
それは、聖隷にとっての“終わりの年”。
身体機能が停止し、数日のうちに、穢れに圧迫され、内臓が潰れ、静かに死ぬ。
教会はそれを、”女神への帰還”と呼んだ。
シャロルは、その運命を理解していた。
理解したうえで、祈り続けてきた。
だが――彼女は、死ななかった。
一日が過ぎ――。
一週間が過ぎ――。
一ヶ月が過ぎる。
一年が経っても――。
二年が経っても――。
何年経っても、シャロルはそこに在り続けた。
身体は止まったまま。
穢れは、確かに体内にある。
それなのに、壊れない。
個体差はある。
聖隷にも、寿命の差はある。
だが、ここまで生きながらえた例はなかった。
聖隷制度が確立して以来、前例は一つも存在しなかった。
教会は、沈黙した。
そしてすぐに、動いた。
これは奇跡か。
それとも、想定外の異常か。
――結論は、後者だった。
国へ報せが送られ、密やかな審議が重ねられ、やがて、一つの呼び名が与えられた。
――『超克者』。
祝福者の中でも、極めて稀。
穢れを“超えて在る”存在。
シャロル・ベルは、国家にとっての可能性となった。
穢れを物ともしない身体。
死なない聖隷。
壊れない器。
それは、クリアステルが初めて手にした、“前に進むための一歩”だった。
その日を境に、シャロルは教会の外へ出ることを許された。
実に、数年ぶりの外界。
雪は、相変わらず降っていた。
だが、空は広く、街は光に満ち、人々の声が、確かに生きていた。
シャロルは、柄にもなく、立ち止まった。
――あぁ。
この世界は、こんなにも、美しかったのか。
彼女は、聖隷となってから、人の内側しか見てこなかった。
吐き気を催す悪意。
爪を立てるような憎悪。
叫び声すら上げられない苦痛。
それらすべてが、彼女の中に流れ込み、沈み、濁り、積もっていった。
――地獄だった。
だが、あの日々は、もう終わる。
そう、彼女は信じた。
しかし、次に彼女を待っていたのは、想像を絶する地獄だった。
シャロルが超克者と呼ばれるようになってから、数日後。
教会は、国を挙げての儀式を執り行うことを決定した。
儀式の名は、『クリスマス』。
表向きには、民のための祭り。
救済の日。
讃美歌が響き、贈り物が配られる、祝福の時。
だが――教会の意図は、別にあった。
国の民を、一箇所に集める。
祈らせる。
歌わせる。
そして、シャロルの祝福によって――一斉に、穢れを引き剥がす。
彼女は、穢れを物ともしない。
ならば、国民全員分を引き受けさせればいい。
そうすれば国は、より清く、より正しく、より女神に近づく。
教会は、それを善意と呼んだ。
シャロルは、クリスマス開式の中心に立たされた。
白い衣。
鈴の音。
無数の祈り。
彼女は、知らなかった。
自分がすでに、国中の穢れを、引き受け始めていることを。
成長と変質により、シャロルは触れずとも、祈るだけで他者の穢れを引き寄せる存在になっていた。
それは、彼女自身すら知らぬ事実だった。
知っているのは、教会のごく一部の者と、国王だけ。
シャロル・ベルは救済の象徴として立ち、その実――欲望と信仰の、器として使い潰されていた。
讃美歌が、響く。
鈴が、鳴る。
その音色は、もはや救済ではなかった。
――それは、地獄を呼び寄せる合図だった。
最初に異変が起きたのは、誰もがそれを奇跡の最高潮だと信じていた瞬間だった。
クリスマスの儀は、滞りなく進んでいた。
鐘が鳴り、讃美歌が重なり、民は祈り、頭を垂れ、救済を待った。
その中心に、シャロル・ベルは立っていた。
彼女は祈っていた。
ただ、それだけだった。
――けれど、その祈りは、もはや“個”に向けられたものではなかった。
国中から、無数の穢れが流れ込んでくる。
妬み。
恐怖。
後悔。
殺意。
諦め。
自己憐憫。
そして、他者を踏み台にしてでも生き延びたいという、底の見えぬ欲望。
触れずとも、言葉を交わさずとも、祈りという形をとった瞬間、それらはすべてシャロルへと集まった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
鈴の音が、狂ったように鳴り始める。
それはもはや、澄んだ讃美ではなかった。
割れ、歪み、重なり合う、悲鳴に近い音だった。
シャロルの視界が、黒く滲む。
――多すぎる。
その感覚だけが、遅れて、確かに届いた。
次の瞬間。
穢れが、溢れた。
皮膚の隙間から、口から、眼窩から、黒い靄のようなものが噴き出す。
それは液体でも、煙でもない。
感情そのものだった。
触れたものを腐らせ、見たものの心を侵す、人が人である限り捨てきれなかった、すべての“内側”。
悲鳴が上がる。
「女神の怒りだ……!」
誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが逃げ惑う。
だが、遅い。
穢れは教会を満たし、街へと溢れ、雪を黒く染めながら、広がっていく。
国境など、意味を成さなかった。
隣国へ。
さらにその先へ。
空は黒く染まり、雲は裂け、雪は灰のように降り注ぐ。
クリアステルは、白の星ではなくなった。
それは、黒の星だった。
暗黒の中心で、シャロルは、膝をついた。
もう、立てなかった。
もう、祈れなかった。
鈴の音が、止まる。
その静寂の中で、彼女は――悟った。
あぁ。
これは、罰だ。
女神が下したものではない。
人々が――。
教会が――。
国家が――。
そして、自分自身が――。
ずっと目を背けてきた罰だ。
シャロルは、知っていた。
女神など、信じていない。
最初から。
人も。
世界も。
彼女にとって、それらすべては、”穢れ”だった。
救済を口にしながら、犠牲を当然とし、苦しみを“役目”と呼ぶ存在。
――罰に、値するものだった。
シャロルは、ゆっくりと、瞳を閉じる。
このまま――死ねるのだろうか。
分からない。
身体は、もうとっくに止まっている。
生も、死も、境界が曖昧だ。
ただ一つ、確かなことがある。
――もう、考えたくなかった。
祈りも、救済も、罰も、赦しも。
すべて、終わらせたかった。
黒い世界の中心で、讃美歌は、もう鳴らない。
だがそれでも、地獄は――静かに、歌い続けていた。
目を閉じたシャロルの瞼に、淡い光が重なった。
それは、焼けるような眩しさではなかった。
白でも、黒でもない。
ただ、静かに存在を主張する、やわらかな光。
暗黒に沈みきっていた意識が、ゆっくりと浮上する。
――眩しい。
そう感じた瞬間、シャロルは、自分が“感じる”ことに驚いた。
まだ、生きているのか。
それとも、これは死の後なのか。
分からないまま、彼女は、そっと目を開けた。
そして――目を見開いた。
そこには、彼女の知る世界が、何一つ存在していなかった。
雪はない。
白も、黒も、ない。
広がるのは、どこまでも続く緑の大地。
風に揺れる木々。
葉擦れの音。
土の匂い。
空は高く、雲は自由に流れ、その中央には――世界を凛と照らす、太陽があった。
強く、しかし優しい光。
すべてを見下ろし、それでも焼き尽くすことのない、確かな存在。
シャロルは、立ち尽くした。
見たことがない。
感じたこともない。
温度。
色。
生命。
そのすべてが、彼女の感覚を、痛いほど刺激した。
「――ここは、どこ」
思わず、声が漏れた。
掠れた、震える声。
すると、その呟きに応えるように、背後から声がした。
「ここは、貴女のいた世界とは別の世界です」
シャロルは、振り向く。
そこに立っていたのは――見たこともない美しい女性だった。
長い髪は夜のように深く、それでいて、光を拒まない。
その姿は、厳かで、静かで、圧倒的だった。
恐怖は、なかった。
本能が告げていた。
――この存在は、嘘をつかない。
「ここは、『アルフェアス』と呼ばれる世界」
女性は、穏やかに告げる。
「剣と魔法、そして加護を主軸とする世界です」
――アルフェアス。
聞いたこともない名。
雪もなく、穢れもなく、讃美歌も、鈴もない。
シャロルは、困惑したまま、問いを重ねた。
「……あなたは、誰?
あなたが、私を……ここに連れてきたの?」
女性は、一瞬だけ目を伏せ、それから、確かに答えた。
「私の名は――……。
貴女方の呼び名では、『死の女神』と呼ばれています」
シャロルは、息を呑んだ。
クリアステルを、永遠の雪で覆った存在。
救済とも、天罰とも呼ばれた、あの女神。
その張本人が、今、目の前にいる女性だと言うのか?
だが、不思議と――嘘だとは思わなかった。
女神の名を騙る者など、存在しない。存在できない。
ならば、この女性こそが、本物なのだろう。
シャロルが思考を巡らせるよりも先に、死の女神は、続けた。
「私が貴女を此処へ連れてきた理由――。
それは、貴女が前世界、クリアステルで“正解”を導き出したからです」
正解。
その言葉に、シャロルの眉が、わずかに動いた。
救えなかった。
世界は、黒に沈んだ。
人々は、絶望した。
それでも――正解だというのか。
死の女神は、シャロルを真っ直ぐに見つめる。
「貴女は、気づいたのです。
救済とは、装飾された暴力であり、信仰とは犠牲を正当化するための言葉だと。
そして――世界そのものが、穢れを生み続ける構造であることに」
シャロルは、何も言えなかった。
それは、彼女が、最後に辿り着いた答えだったからだ。
「だから私は、貴女を“終わらせなかった”」
女神の声は、静かだった。
「貴女は、壊れたのではありません。
超えたのです」
シャロル・ベルは、初めて、理解した。
死ねなかった理由を。
穢れに呑まれなかった理由を。
――これは、罰ではない。
――選別だったのだ。
緑の世界で、太陽の光を浴びながら、シャロルは、ただ立っていた。
この先に、何が待つのか。
救済か、さらなる地獄か。
分からない。
けれど――少なくとも、もう。
誰かのために、讃美歌を歌わされることは、ない。
死の女神は、緑の世界の中央で、静かに告げた。
「――シャロル・ベル。
貴女は今から、『聖隷の女神』と名乗りなさい」
その言葉は、命令ではなかった。
裁定でも、宣告でもない。
ただ、当然の事実を語るような声音だった。
「そしてこの地――アルフェアスを”管理”するのです」
シャロルは、言葉を失った。
女神。
管理。
そのどちらも、彼女が最も忌み、最も遠ざけてきたものだった。
「……私が?」
かすれた声で、問い返す。
「私が、女神に……?」
死の女神は、微笑んだ。
それは、雪の世界では決して見られなかった、柔らかく、穏やかな笑みだった。
「ええ。貴女が」
女神の言葉に迷いはなかった。
「これは罰ではありません。
褒美です」
褒美。
その言葉に、シャロルの胸の奥が、僅かに軋んだ。
「正解を導き出した貴女への――。
ささやかな――”クリスマスプレゼント”」
女神は、ゆっくりと周囲を示す。
「この世界には、穢れはありません。
貴女を縛る教会も、祈りという名の鎖も、犠牲を当然とする信仰もない」
女神はシャロルを見て微笑む。
「ここにある選択は、ただ一つ」
死の女神は、はっきりと言った。
「生きるか、死ぬか。
――それだけです」
逃げ道も、役割という名の強制もない。
「貴女は、未来永劫――。
かつて貴女の世界が滅んだように、アルフェアスが滅ぶその時まで見届け、管理するのです」
沈黙が落ちる。
風が、草を揺らす。
太陽が、変わらず世界を照らす。
シャロルは、目を伏せた。
聖隷として生きた日々。
救済の名の下に、削られ、壊され、使い潰された記憶。
人を信じなかった。
世界を信じなかった。
女神など、最初から信じていなかった。
それでも――。
「……逃げても、いいの?」
思わず、そう口にした。
死の女神は、頷いた。
「ええ――これは”拒める選択”です。
今、ここで終わることもできます」
その言葉は、甘く、残酷だった。
だが、シャロルは知っていた。
終わっても、何も残らないことを。
世界は、誰かが見ていなければ、同じ過ちを、何度でも繰り返す。
穢れはなくとも、人がいる限り、歪みは生まれる。
――ならば。
「……分かった」
シャロルは、顔を上げた。
「管理する。
……救わないし、導かない。
ただ、見ている……それでいいのなら」
死の女神は、満足そうに微笑んだ。
「ええ……。
それでこそ、『聖隷の女神』です」
その瞬間、シャロルの中で、何かが静かに定まった。
彼女はもう、誰かのために壊れる存在ではない。
世界を、距離をもって見つめる存在となったのだ。
―――。
それから間もなく――。
『聖隷の女神』となったシャロルが行った、”最初の仕事”。
それは――”二つの魂の転生”だった。
アルフェアスの均衡を保つ”善と悪”――。
それらを生み出す作業だった。
一つ目の魂は、国同士が争いを続け、すでに滅びかけている世界――『地球』にいた。
爆音の中で、血に塗れ、今にも死にそうな、若い男の魂。
二つ目の魂は、アルフェアスとよく似た、魔法が存在する世界から来た。
英雄でも、賢者でもなく、ただ戦場で、あまりにも凄惨な死を遂げた、老いた男。
シャロルは、二つの魂を手に取り、新たな命を用意した。
――だが。
慣れない仕事だったのだろう。
あるいは……どこかで気が緩んだのかもしれない。
彼女は誤って、”すでに魂が宿る”同じ身体に、その二つの魂を、同時に宿してしまった。
一つの肉体に――。
三つの記憶。
三つの人生。
三つの終焉。
それが、何を引き起こすのか。
シャロルは、少しだけ考え――やめた。
「……まぁ、いいか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
この世界に、”絶対の正解”など、存在しない。
それを、彼女はよく知っている。
こうして――『聖隷の女神』は、誕生した。
救わず、裁かず、ただ、見届ける女神。
そして今日もまた、どこかの世界で――”讃美歌”が、静かに歪んでいる。




