577話 神に仇成す意思
「――世界の意のままに」
ノアの呟きが、祠の奥で反響した、その瞬間だった。
空気が、爆ぜた。
轟音とともに視界が白く染まり、次の瞬間、灼熱が肌を焼く。
息を吸っただけで肺が焦げるような錯覚に襲われ、喉が焼け付く。
「――ッ!!」
振り返る間もなく、業火が押し寄せてくる。
先ほどとは比べ物にならない。
音が違う。
炎が“走る”のではない――“押し潰しに来ている”。
「逃げろ!!」
叫んだのは、俺自身だったのか、ライナスだったのか分からない。
三人は本能に突き動かされるように、背を向けて駆け出した。
直感が告げていた。
あの炎は、防げない。
避けられない。
真正面から受ければ、骨すら残らない。
祠の出口が見える。
その先には――アルマと、ルミエラがいる。
(駄目だ……!)
ここを出れば、あの二人を戦場に引き戻すことになる。
これ以上、彼女たちの心を削るわけにはいかない。
俺は歯を食いしばり、足を止めた。
「カイル!?」
背後でカリーナの声が弾ける。
だが、その声は、もう遠かった。
振り返る。
視界いっぱいに広がる、赤黒い業火。
世界そのものが、ノアの意志に従って牙を剥いているかのようだった。
「……だったら」
喉の奥から、低く、掠れた声が漏れる。
「こっちも――炎で対抗してやる」
漆黒の杖に、魔力を注ぎ込む。
一切の躊躇を捨てる。
制御も、安全も、考えない。
イメージするのは“燃やす炎”じゃない。
“喰らう炎”だ。
赤黒い業火よりも、さらに深く、重く、闇に近い色。
光を拒み、熱すら支配する、火元素の黒魔法。
「――ダーク・フレア!!」
叫ぶような詠唱と同時に、杖の先端が歪む。
次の瞬間、漆黒に渦巻く炎が解き放たれた。
黒炎は、矢のように飛び、ノアの放った業火へと突き刺さる。
接触した瞬間――世界が軋んだ。
まるで“火が火を喰らう”かのように、黒い炎が広がる。
赤と黒。
二つの炎が、互いの存在を否定し合う。
猛獣同士の咆哮のような轟音。
色が、色を引き裂き、空間そのものが歪んでいく。
「……止まった?」
ほんの一瞬。
業火の進行が、確かに鈍った。
(いける……!)
俺の判断は、間違っていなかった。
完全に相殺はできない。
だが、時間は稼げる。
炎越しに、ノアの姿が見えた。
火煙に包まれているにも関わらず、微動だにせず立っている。
表情は変わらない。
苦悶も、動揺も、ない。
(……熱く、ないのか?)
背筋が冷える。
だが、今は考えている場合じゃない。
「今だ!! 祠を出ましょう!!」
振り返って叫び、黒炎を維持する。
早急に脱出し、アルマとルミエラを避難させる。
その後、地上でノアと――“赤月に侵されたノア”と戦う。
そして救ってみせる。
それしかない。
黒炎と業火が噛み合う轟音を背に、俺たちは再び走り出した。
炎の光が、背後で明滅する。
だが――。
その炎の向こうで、確かに感じた。
ノアの視線を。
まるで、逃がさないと告げるかのような、
冷たく、深い“世界の意志”を。
(……くそっ)
それどころか――本当の戦いは、ここからなのだと。
そう、直感が告げていた。
祠の外へ転がり出た瞬間、肺に冷たい空気が流れ込んだ。
白い雪原と曇天が視界いっぱいに広がる。だが安堵する暇はなかった。
「ルミエラさん! アルマさん!
離れて!! 岩陰まで下がってください!!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
振り返った先で、状況を掴みきれずに目を見開くルミエラと、何も言わず祠を見つめ続けるアルマの姿があった。
「なにが――」
言葉を続けようとしたルミエラを遮るように、カリーナが前に出る。
「遅かったの……ノアちゃんは、もう……」
一瞬、言葉を噛みしめるように息を吸い、
「……ルーナの。“赤月”の手中よ!!」
その一言に、空気が凍りついた。
ぎり、と歯を噛みしめる音が、やけに大きく聞こえた。
「どこまで……どこまでアイツは……!」
怒りを露わにしかけたルミエラだったが、腕の中に抱いたアルマの存在に気づき、はっと表情を緩める。
深く息を吐き、怒りを無理やり胸の奥に押し戻した。
「……ここで戦うなら、あたしたちが邪魔、ってことだろ?」
自嘲気味にそう言い、俺を見た。
「分かった。すぐ避難する」
ルミエラはそう言うと、アルマの手をしっかりと握り、遠くの岩陰へと駆けていった。
その背中が雪原に溶け込むのを見届けた――その瞬間だった。
祠の入口だった巨大な岩が、内側から叩き割られるように崩れ落ちる。
雪と瓦礫が舞い上がり、その隙間から噴き出したのは、赤と黒が混ざり合った炎だった。
炎は意思を持つかのように蠢き、そして――それを従える“人影”が現れる。
ノア。
衣服は燃え、黒ずんでいるのに、その肌には火傷ひとつない。
赤黒い炎をまといながら、まるで散歩でもするかのように瓦礫の上を踏み越えてくる。
自我は失われ、力は底上げされている。
今のノアを、俺は――救えるのか?
答えを出す前に、ノアが動いた。
黒い炎を纏ったまま、地を蹴る。
「速――ッ!?」
一瞬で距離が詰まる。
だが、その前に飛び出した影があった。
「俺ァ手加減しねぇぜ!!!」
ライナスだ。
剣を正面に構え、全身の力を込めて振り抜く。
――だが。
ノアは即座に土元素魔法を展開した。
盛り上がった地面が瞬時に形を変え、現れたのは――岩ではない。
「鉄……だと!?」
金属光沢を帯びた盾が、ライナスの一撃を正面から受け止める。
剣と盾がぶつかり合い、鈍く重い音が雪原に響いた。
驚愕するライナスをよそに、ノアは身体をひねり、ありえない角度から腕を伸ばす。
「――エア・ショット」
淡々とした詠唱。
次の瞬間、空気が砲弾となって叩き込まれた。
「ぐぶ――ッ!!?」
ライナスの脇腹が、べこりと音を立てて凹み、血と胃液を吐き散らしながら吹き飛ばされる。
身体は雪原に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「兄さん!!」
駆け寄りたい衝動を必死で抑える。
――微かに、指が動いた。
(生きてる……)
安堵する暇もなく、俺はノアを見据えた。
今のは、ノアが元々得意としていた空気元素魔法。
空気を圧縮し、弾丸として撃ち出すエア・ショット。
だが――威力が違う。
あの一瞬で、ライナスの肉体を数センチ凹ませるほどの密度を作り上げた。
(あの魔力操作……)
以前のノアなら、絶対にできなかった。
身体の耐久力だけじゃない。
魔法の技術そのものが、異常に引き上げられている。
(低く見積もっても、聖級……いや、豪級魔法使い相当)
カリーナは聖級。
俺は、良くて上級魔法使い。
階級が全てじゃないのは分かっている。
だが、純粋な魔法技術で正面からぶつかれば、俺とカリーナでも分が悪い。
――それでも。
ノアの身体は、ノア自身のものだ。
どれだけ支配されていようと、積み重ねてきた“戦場の経験”は消えない。
(経験は……身体が覚えてる)
なら、埋めるしかない。
圧倒的な力量差を、経験で。
俺は杖を握り直し、覚悟を決めて一歩踏み出した。
――救う。
必ず、ノアを。
それが、俺に残された唯一の戦い方だった。
―――。
――だが。
勝てない。と、そう理解するのに、時間は要らなかった。
祠の外に広がる雪原は、すでに戦場としての形を失っていた。
赤と黒が混ざり合った炎が地面を舐め、溶けた雪が蒸気となって立ち昇る。
空気は焼け、息を吸うたびに喉の奥がひりついた。
瓦礫の山の中心に、ノアは立っていた。
衣服は炎に焼かれ、ところどころが炭化しているにもかかわらず、その肌には火傷一つない。
赤黒い火が、まるで生き物のように彼女の周囲を漂い、命令を待つ獣のように静止していた。
――ノア。
名前を呼びそうになって、喉の奥で言葉を噛み殺す。
今、目の前にいる存在は、俺の知っているノアじゃない。
「行って、カイル!」
横から、カリーナの声が飛ぶ。
彼女はすでに詠唱を終えていた。
魔法陣が地面に刻まれ、火が奔る。
「フレア・バインド!」
火の鎖がノアの足元から伸び、絡みつこうとする。
拘束系魔法。ノアの動きを止め、その隙に一気に畳み掛ける――はずだった。
だが。
「――遅いです」
ノアは、ただ一歩踏み出した。
それだけで、鎖は引き千切られ、霧散する。
踏み込みと同時に、ノアの姿が掻き消えた。
「ッ――!」
反射的に、俺は杖を前に突き出す。
「ダーク・シールド!」
黒い膜が展開された瞬間、衝撃が叩きつけられた。
視界が弾け、身体が宙を舞う。
「ぐっ……!」
雪の上を転がり、ようやく体勢を立て直す。
盾越しでも分かる。今の一撃は、手加減されていた。
ノアは、もう俺たちの前提に立っていない。
同じ高さですらない。
――どうすれば、救える?
戦いながら、思考がぐちゃぐちゃに絡まる。
気絶させる? 無理だ。魔法も物理も通じない。
拘束? 一瞬で破られる。
精神への干渉は? そもそも、彼女の中に“ノア”はどれほど残っている?
答えが出ないまま、戦況だけが悪化していく。
「カイル、左!」
カリーナの叫び。
次の瞬間、地面が隆起した。
土元素魔法。鋼のように硬化した岩槍が、地面から突き出す。
跳ぶ。
避ける。
だが、着地地点を――読まれている。
「エア・ブレード」
風が刃となり、横薙ぎに襲いかかる。
俺は杖で受け流そうとして、失敗した。
「が――ッ!」
頬が裂け、血が雪に落ちる。
遅れて、痛みが来た。
ノアは、止まらない。
一つ魔法を放つたびに、次が洗練されていく。
――成長、している。
戦いの最中で。
俺たちの動きを学び、魔力操作を最適化し、無駄を削ぎ落としていく。
経験の差で埋める――そのはずだった。
だが、ノアはその“経験”すら、今この瞬間に吸収している。
カリーナが前に出る。
「アイス・バースト!」
氷が爆ぜ、ノアを包む。
直撃――のはずだった。
だが、氷の中から、ノアは無傷で歩み出てきた。
「……カリーナちゃん」
その名を呼ばれて、カリーナの動きが一瞬止まる。
――それが、致命的だった。
ノアの拳が、空気を歪める。
「エア・ショット」
「――っ!」
カリーナの身体が、地面に叩きつけられる。
雪が舞い、鈍い音が響いた。
俺は駆け寄ろうとして、同時に視界が反転した。
腹部に、衝撃。
ノアの放った魔法だと理解したのは、吹き飛ばされた後だった。
身体が言うことを利かない。
魔力も、集中できない。
気がつけば、俺とカリーナは、ほとんど同時に地面へと手を着いていた。
膝が震え、立ち上がれない。
雪に落ちる血が、やけに赤い。
そのとき――。
「……何の意味があって、手加減しているんですか?」
無機質な声が、耳を貫いた。
顔を上げると、ノアが立っていた。
無表情のまま、首をかたむけている。
「あなたたちは」
一歩、近づく。
「この“依代”が、そこまで大事ですか?」
そう言って、ノアは自分の胸に触れた。
指先が、確かに“ノアの身体”を示している。
「この依代は、世界の”代弁者”が用意してくれたもの……」
問いかけるようで、ただの独白のようでもある声。
「もしかすると。
この身体は、あなたたちにとって――かけがえのない存在だったのですか?」
喉が、詰まった。
声が出ない。
カリーナも、何も言えずに歯を噛みしめている。
ノアは、続けた。
「もし、そうなのであれば……」
無表情のまま、口角が上がる。
だがそれは、温度のない、作られた笑顔だった。
「これ以上に素晴らしいことはありません」
淡々とした口調で、言葉が紡がれる。
「獣族は、“別世界”からやってきてから、何度も悲惨な経験をしてきました。
迫害、差別……時には、奴隷や、人の慰めものとして扱われてきた」
俺の胸に、重く沈む。
「ですが、少なくとも――あなたたちのような人もいることが分かりました。
それが、とても喜ばしい。素晴らしいことです」
一拍。
そして、決定的な言葉。
「ですが――“私の意思”は、止められない」
赤黒い炎が、強く揺らぐ。
「世界の意思は、止まらない。
それが――神に仇成す行為だとしても」
ノアの瞳が、俺たちを射抜く。
「私は、世界は、進み続ける」
そして、静かに告げた。
「この世界から、獣族以外が――居なくなるまで」
――絶望が、確かに、そこに立っていた。




