575話 世界との衝突
祠の中へ足を踏み入れた瞬間、外の吹雪が嘘のように音を失った。
重たい石扉が背後で閉じられると、世界そのものが切り離されたかのような静寂が訪れる。
湿った空気。
古い石の匂い。
そして、皮膚の奥をじわりと撫でるような、得体の知れない魔力の残滓。
「……カイルは、一度ここに来たことがあるのよね?」
カリーナの声は自然と小さくなっていた。
暗闇に溶けないよう、彼女の掌の上で揺れる火の魔法が、淡い橙色の光を放っている。
俺は一度、深く息を吸い込み、頷いた。
「はい。……ただ、あの時は正直、それどころじゃなかったです。
早くみんなのところに戻らなきゃって、それしか考えてなくて」
そう答えながら、ゆっくりと周囲を見渡す。
改めて見て分かる。
――この祠は、異常だ。
内部を形作る石レンガは、どれも年月に耐えきれず、亀裂や欠けが無数に走っている。
少し強く触れただけで、崩れ落ちてしまいそうなほど脆い。
それなのに、この場所は“まだ”形を保っている。
「……不気味な場所です」
思わず、そう呟いていた。
祠がいつ建てられたのか、見当もつかない。
人の手によるものなのか、それとも人ならざる存在が関わったのか。
壁に埋め込まれた石板には、見たこともない文字列が刻まれている。
どの国、どの種族の言語にも似ていない、だが秩序だけは感じられる文字。
「注意書き……なのかしらね」
カリーナが石板に視線を向けたまま言う。
「たぶん、この先に何があるのかを示してるんだと思います。
警告か……あるいは、誘いか」
自分の言葉に、背筋がわずかに粟立った。
明かりは乏しい。
壁の一部に埋め込まれた、小さく青白く光る鉱石と、カリーナの火の魔法だけが、進む道を照らしている。
影は歪み、俺たちの足元で不自然に伸び縮みしていた。
前方では、ライナスが大剣を肩に担ぎ、無言で歩いている。
足取りは重いが、警戒は一切緩めていない。
静寂の中で、彼の服が僅かに擦れる音だけが響いていた。
――しばらく進んだ、その時だった。
足裏に、鈍い衝撃が走る。
次の瞬間、それははっきりと“揺れ”として認識できるものになった。
床から伝わり、足、腰、背骨を通って全身へと広がっていく。
「……なんだァ……?」
ライナスが足を止め、低く唸るように呟く。
「地震……って感じじゃないわね」
カリーナも息を呑み、火の魔法を前方へとかざす。
揺れは断続的で、規則性がない。
まるで――何か巨大なものが、奥で“脈打っている”かのようだった。
俺は喉を鳴らし、奥を睨む。
「……何かが、動いてる」
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
ノアは無事なのか。
ルーナは、すでに最奥へ辿り着いているハズだ。
そして、この祠そのものが――何を内包しているのか。
答えは、まだ何一つ見えない。
ただ確かなのは、この先に待つのは、退路のない戦いだということだけだった。
俺は杖を握る手に力を込め、二人と視線を交わす。
「……行きましょう」
不安と覚悟を胸に押し込み、
俺たちは、揺れの源へと、さらに奥へと足を進めた。
祠の奥へ、さらに足を進めた先。
そこで俺たちは、ついに最奥――ビスマーの脳が眠る大広間へと辿り着いた。
天井は高く、円形に近い広間の中央には、異様な存在感を放つ装置が鎮座していた。
分厚いガラスの容器。その中に、淡く青白い光に照らされながら、剥き出しの人間の脳が浮かんでいる。
「……なに、あれ……?」
カリーナの声が震える。
嫌悪と困惑が混じった視線が、ガラス容器から離れない。
「気持ち悪ぃ……」
ライナスも顔をしかめ、低く吐き捨てた。
俺は喉の奥に張りつく違和感を飲み込み、答える。
「……あれが、ビスマーの脳です。
肉体はとうの昔に滅びていて……今は、ああして“脳”だけが生かされているみたいです」
言葉にした途端、背筋が冷えた。
それは生命というより、呪物に近い。
そのとき――。
硬い床を叩く、はっきりとした足音が、ガラス容器の“向こう側”から響き始めた。
全員が息を呑む。
「……誰かいンぞ」
ライナスが剣を構え、俺も反射的に杖を握り締める。
ルーナ――そう身構えた、その瞬間。
ガラス容器の陰から現れたのは、想像していた存在ではなかった。
「……ノア?」
思わず、名前が零れ落ちる。
そこに立っていたのは、確かにノアだった。
しっかりと開いた目。
自分の足で、地を踏みしめている姿。
本来なら――。
ルーナを倒さない限り、決して目を覚まさないはずの少女。
「無事だったんですね……!」
警戒よりも、安堵が先に来た。
気づけば、俺は一歩、前へ踏み出していた。
――その瞬間。
「待て」
低く、鋭い声。
ライナスが俺の胸の前に腕を伸ばし、強く制した。
「兄さん?」
戸惑って見上げると、ライナスはノアから視線を逸らさず、歯を噛み締めて呟く。
「騙されんな、カイル……。
アイツはノアじゃねぇ」
「……何を言って――」
言い返そうとした、その直後。
「……嘘」
今度は、カリーナだった。
青ざめた顔で、ノアを見つめている。
胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
改めて、ノアを見る。
栗色のショートカット。
穏やかなはずの瞳。
獣族の少女らしい、しなやかな立ち姿。
――どう見ても、ノアだ。
「ノア……?」
恐る恐る、名を呼ぶ。
だが、ノアは何も答えない。
近づくことも、瞬きすらせず、ただ俺たちを見つめている。
「ノア……冗談はやめてください。
今はそんなことをしている場合じゃ――早く、こっちに……」
そこまで言いかけた瞬間。
ノアが、動いた。
ゆっくりと、だが確実に。
俺たちへ向けて、手のひらを掲げる。
そして、淡々と、感情の欠片もない声で呟いた。
「――ヘル・ファイア」
次の瞬間。
黒と赤が混じり合った、禍々しい炎がノアの掌から噴き出した。
「――っ!」
反応が、遅れた。
直撃――そう悟った瞬間、横から強烈な衝撃。
ライナスが、剣で炎を弾き飛ばしたのだ。
逸れた炎は、ノアの背後――ガラス容器の脇へと着弾し、床一面を舐めるように燃え広がる。
轟々と、広間を満たす炎の音。
「……え」
ようやく、思考が追いついた。
「ノ……ア?」
もう一度呼ぶ。
だが、答えが返ってこないことは、最初から分かっていた。
「……嘘だろ」
呟きが、床に落ちる。
俺は、ノアの瞳を見た。
かつて、金色に輝いていたその瞳は――今まさに、渦を巻くように歪み、赤く染まっていく。
その変化が示す意味は、一つしかない。
「“世界の理”に代わって――」
ノアの口から放たれた声は、あまりにも冷たく、機械的だった。
「あなたたちを、此処で排除します」
絶望が、胸を締め付ける。
「……ノア」
呼びかけは、虚空に消えた。
だが、彼女――否、“それ”は待ってくれない。
炎に照らされた赤い瞳が、確実に俺たちを捉えていた。
ここから先、仲間を取り戻す戦いではなくなった。
――世界そのものと、敵対する戦いだ。




