574話 底知れぬ闇に
雪煙が、ゆっくりと地に落ちていく。
白と灰が混じり合う視界の中で、最初に輪郭を取り戻したのは――必死に立ち上がろうとするアルマの背中だった。
「……アルマさん!」
思わず名を呼ぶ。だが、彼女は振り返らない。
肩が小刻みに震え、膝が笑い、今にも崩れ落ちそうなのに、それでも前を向こうとしている。
その横顔は――あまりにも、絶望に塗り潰されていた。
(……ああ)
胸が、締め付けられる。
アルマは、知られたくなかったのだ。
自分が魔族であることを。
俺たちに――仲間に。
彼女は虚ろな瞳のまま、ふらりと上空を見上げる。
つられて俺も視線を上げた。
そこにいたのは、悠然と宙に浮かぶルーナだった。
白いワンピースが風に揺れ、長い金髪が赤い空を裂くように靡く。
まるでこの惨状すら舞台装置の一部だと言わんばかりの、余裕の佇まい。
「ルーナぁぁぁ!!」
背後から、ルミエラの叫びが響いた。
怒りと悲しみを混ぜたその声と同時に、無数の魔法が空を切り裂く。
火、水、土、風。
だが――。
「クソッ!!」
ルミエラの悔しげな声が、すぐに重なった。
どれも当たらない。
当たっても、傷一つ付かない。
「キシシ……」
ルーナが、口元を手で隠して笑う。
「もうこれじゃあ、連携もなにもないねえ?」
その仕草一つ一つが、神経を逆撫でする。
「ルーナ!!」
怒りを込めて叫んだ――その瞬間。
「ぎゃっ!!」
背後から、鋭い悲鳴が上がった。
反射的に振り返る。
そこには――腹部から血を流し、今まさに崩れ落ちようとするルミエラの姿があった。
「は?」
理解が、追いつかない。
――何が起きた?
思考が追いつく前に、さらに声が上がる。
「あ……ッ!!」
ルミエラの後方で、カリーナが腕を押さえてよろめいていた。
赤い血が滴り落ち、杖が音を立てて雪の上に転がる。
そして――。
「ぐ……ッ!?」
太ももに、灼けるような痛みが走った。
視線を落とすと、そこには――。
まるで“抉り取られた”かのような、瞳ほどの穴が空いていた。
「な……これ、は……」
膝から力が抜け、雪の上に崩れ落ちる。
「キシシ……」
上から、あの笑い声。
そうか。
これは、ルーナの“時止め”でも、“広範囲魔法”でもない、別の加護――。
「君たちにはね……本当は、もっと絶望の中で死んでもらおうと思ってたんだけど」
ルーナは、少し残念そうに肩を竦める。
「どうやら……時間がないみたいだ」
その言葉に、俺は歯を食いしばりながら顔を上げた。
空に浮かぶ赤月が――輝いていた。
いや、“輝いている”のではない。
渦巻いている。
赤月を中心に、何かが蠢き、絡みつき、脈打っている。
「……あれは……」
呟くと、ルーナが恍惚とした声で答えた。
「始まったんだよ」
そして、声を弾ませる。
「赤月と、特異点の――“共鳴”がっ!!」
次の瞬間、ルーナは俺たちに背を向け、祠の中へと飛び去った。
「何が……起きて……」
歯を食いしばり、立ち上がろうとした、その時。
アルマが、俺の横を駆け抜けていった。
「ルミエラ!!」
雪を蹴散らし、倒れたルミエラの元へと滑り込む。
震える手で腹部に触れ、叫ぶ。
「ごめんなさい……! 私のせいで……!
い、今治癒するから!!」
必死に治癒魔法を紡ぐアルマ。
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
その姿を、俺は直視できなかった。
―――。
アルマがルミエラを治療している間、俺は残った力を振り絞った。
カリーナの腕。
ライナスの浅い裂傷。
そして、自分の脚。
幸い、致命傷ではないし、俺でも治せる程度の傷だった。
だが――もし、あの不可視の攻撃が心臓や頭を貫いていたら。
背筋が、冷たくなる。
ルーナはすでに祠の中へ消えていた。
おそらく――ノアの元へ。
空を見上げると、赤月はさらに黒く染まり、
周囲の世界も、ゆっくりと闇に沈んでいく。
まるで、夜そのものが降りてくるように。
「カイル」
ライナスが、低い声で俺の名を呼んだ。
振り返ると、彼は血と雪に塗れながらも、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「行くんだろ? 祠の中に」
無言で、頷く。
だが、その前に――アルマとルミエラを見る。
怒りに呑まれ、理性を失いかけているルミエラ。
正体を暴かれ、心が砕けかけているアルマ。
……この二人は、もう戦えない。
少なくとも、今は。
(連れてはいけない)
それが、残酷でも――正しい判断だ。
俺は拳を握りしめ、祠の闇を見据えた。
赤月は、もう後戻りを許さないところまで来ている。
なら――行くしかない。
この先に待つものが何であれ、俺たちが止めなければ、世界は壊れる。
そう、確信しながら。
祠へと続く黒い入口を前に、俺は一度、深く息を吸った。
背後では、荒れ狂っていた吹雪が嘘のように弱まり、代わりに不気味な静けさが広がっている。
赤月はもはや赤と呼べる色ではなく、黒に近い濁った光を放ちながら、ゆっくりと脈打っている。
――時間が、ない。
俺は振り返り、膝をついたままのアルマと、その傍らで息を荒くしているルミエラを見た。
「……ここから先は、俺たちで行きます」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
その言葉に、最初に反応したのはルミエラだった。
腹部を押さえながら、歯を食いしばり、無理やり立ち上がろうとする。
「……ふざけんなっ! まだ、あたしは……」
「ルミエラさん」
俺は一歩踏み出し、はっきりと言葉を重ねた。
「二人に……これ以上、無理をさせられません」
「でも――!」
反論しかけたルミエラは、ふと途中で言葉を失った。
その視線の先にいたのは、俯いたまま、肩を小さく震わせるアルマの姿だった。
アルマは何も言わない。
ただ、必死に感情を押し殺すように、拳を握り締めている。
自分が魔族であることを暴かれ、結果、仲間を危険に晒した――そう思い込んでしまった心が、彼女を縛り付けていた。
「……っ」
ルミエラの表情が、はっとしたように曇る。
そして、ゆっくりと力が抜けていく。
「……分かった、よ」
かすれた声だった。
「今のあたしじゃ、足手まといってことだね……」
悔しさを押し殺すように、ルミエラは小さく息を吐き、視線を上げて俺を見る。
「……後は、頼むよ。カイル君」
その一言が、胸の奥に重く沈んだ。
アルマは顔を上げなかった。
けれど、ルミエラの手をそっと握り返すその指が、震えているのが見えた。
――連れていけない。
今の二人を、これ以上戦場に立たせるわけにはいかない。
俺はゆっくりと立ち上がり、隣にいる二人を見た。
「行きましょう」
ライナスが、血の滲んだ口元を拭いながら、短く笑う。
「最初から、そのつもりだ」
カリーナは落ちていた杖を拾い直し、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「……アルベリオを待ってる時間は、ないわね」
「ええ」
俺は祠の奥を見据えた。
ルーナは言っていた。
時間がないと。
それは、俺たちへの挑発だけじゃない。
赤月――この異常な天象が、終わりに近づいている証だ。
赤月は、周期も理屈も分からない、変質的な自然現象だ。
影響は明らかに不自然で、人為的な介入を疑いたくなるほどだが、それでも”発生”と”消滅”そのものは、世界の流れに従っている。
もし赤月が消えれば――。
ルーナの計画は、確実に止まる。
次に赤月が訪れるのは、いつになるか分からない。
十年か、数十年か、あるいはもっと先か。
だからこそ、ルーナは焦っている。
赤月が消える前に、すべてを終わらせるつもりなのだ。
――なら、俺たちも同じだ。
「三人で、止めるしかない」
俺の言葉に、ライナスが大剣を肩に担ぎ直し、カリーナが小さく頷く。
アルベリオの帰還を待つ暇はない。
今、この瞬間に動ける者が、動くしかない。
祠の奥から、冷たい魔力のうねりが漏れ出してくる。
ノアがいる。
ビスマーがいる。
そして――ルーナがいる。
俺は一度だけ、後ろを振り返った。
雪の中で寄り添う二人の姿を、決して忘れないために。
「……必ず、戻ります」
誰に言うでもなく呟き、俺たちは祠の闇の中へと踏み込んだ。




