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571話 神託の巫女

 ロルロ王国の地に降り立った瞬間、アルベリオの胸を満たしたのは安堵ではなく、底知れぬ不安だった。


 ――本当に、無事なのか。


 世界は赤月に侵され、各地で混乱が起きている。

 ノワラでは人族の獣族化が始まり、他国でも被害が広がっているというのに、ロルロだけが例外でいられるはずがない。

 祖国の安否を確かめねばならないという使命感と、一刻も早く神託の巫女から加護を授かり、仲間たちの待つ戦場へ戻らねばならないという焦燥。

 その二つが、胸の内でせめぎ合っていた。


 丘を駆け下り、巨壁の下に設けられた検問所へ近づいたとき、鎧姿の兵士がこちらに気づき、目を見開いた。


「アルベリオ様!? なぜここに……!? 今は“任務中”のはずでは!?」


 動揺を隠せない兵の声に、アルベリオは足を止める。

 胸の奥で荒れ狂う感情を必死に押し殺し、冷静な声を作った。


「少し事情があって、一度帰国した。

 それより――国は無事か?」


 その問いに、兵士はきょとんとした顔をする。


「無事……とは? ええ、いつも通りですよ。

 強いて言えば……空が赤くて、朝が来ないことくらいですかね!」


 冗談めかして笑う兵士。その表情に、嘘や怯えは見当たらない。

 アルベリオの背筋を、別種の冷えが走った。


(どういうことだ……?)


 国が無事であること自体は喜ばしい。だが、ノワラや他国で起きている惨状を思えば、この“何も起きていない”という事実こそが異常だった。

 獣族化の兆候も、暴動も、混乱もない。

 まるで、ルーナの影響だけが選択的に避けられているかのようだ。


 違和感が、胸の奥で重く渦巻く。


「……して、アルベリオ様。本日はどうして帰国なさったので?」


 兵の問いに、アルベリオは即座に顔を上げた。


「今すぐ巫女様のもとへ案内してくれ。緊急事態なんだ」


「で、ですが……現在、巫女様は“祈り”の最中でして。誰も通すなと――」


「それでもだ!」


 思わず声が荒ぶる。

 自分でも驚くほど、切迫した響きだった。


「時は一刻を争う!」


 その鬼気に、兵士は息を呑み、慌てて姿勢を正す。


「……わ、分かりました! おそらく大聖堂にいらっしゃいます。こちらへ!」


 兵が城門を開こうとした、その瞬間――。

 アルベリオは既に駆け出していた。


 凄まじい速度で門を抜け、石畳の街路を疾走する。

 行き交う人々は、普段通りの生活を送っていた。

 買い物をする者、談笑する者、子どもを叱る母親。どこにも恐怖や混乱の影はない。


(本当に……何も起きていない)


 それが、なおさら不気味だった。


 数秒後、街の中心にそびえる大聖堂が視界に入る。

 白と金の文様が織りなす荘厳な外壁。

 天へと伸びる尖塔。その頂に吊るされた大鐘が、低く、重く鳴り響いた。


 胸に響く鐘の音を背に、アルベリオは扉を押し開けるようにして大聖堂の中へ飛び込んだ。


 内部は静謐に満ちていた。

 淡い光がステンドグラスを通して床に落ち、香の匂いが空気を満たしている。

 その奥、祭壇の前に、一人の女性が膝をついていた。


 ――『神託の巫女』。

 アルテイア・フィン・ルクレール。


 純白の法衣に身を包み、目を閉じ、静かに祈りを捧げている。

 任務に出ているはずのアルベリオを前にしても、彼女は微動だにせず、まるで最初から来ることを知っていたかのようだった。


「……巫女様」


 一歩、前に出る。


「差し出がましいお願いであることは承知しています。

 ですが、今すぐ――僕に、ある加護を授けてほしいのです」


 声に、焦りが滲む。


 しかし巫女は、ゆっくりとアルベリオから視線を外し、再び祈りへと意識を戻した。

 沈黙が、重く流れる。


 困惑するアルベリオの耳に、やがて静かな声が届く。


「……今は“祈り”の最中なのです」


 淡々と、だが揺るぎなく。


「どれほど緊急であろうと、何が起ころうと――“祈り”を怠ってはなりません」


 それきり、巫女は何も語らなかった。


 胸の奥が、きしりと音を立てる。

 今すぐ戻らなければ、仲間たちは――。


 だが、ここで言葉を重ねても意味はない。

 アルベリオは巫女の言葉の重みを悟り、深く頭を下げた。


「……失礼しました」


 一度、退くしかない。

 その選択が、正しいのかどうかも分からぬまま――アルベリオは静かに身を引いた。


 ――長い沈黙ののち、祈りの詞がふっと途切れた。


 大聖堂に満ちていた澄んだ空気が、わずかに揺らぐ。

 『神託の巫女』アルテイアは、ゆっくりと膝を伸ばし、祈祷台の前から立ち上がった。


 その瞬間を、アルベリオは逃さなかった。


「巫女様、話を聞いてください!」


 思わず声が大きくなる。

 礼節も、形式も、今はどうでもよかった。

 戦場では、仲間たちが“止まった時間”の中で削られ続けている。

 その事実が、アルベリオの胸を締め付けていた。


 しかし――。


 巫女は振り向きもせず、ただ静かに答えた。


「……全て、言わなくても分かっていますよ」


 その声音は穏やかで、感情の波を一切含んでいない。

 だが次の言葉は、雷のように正確だった。


「来たる日の“前兆”。

 ――ルーナという名の少女。

 そして、彼女が扱う時を止める加護」


 アルベリオの息が、喉で詰まる。


「貴方は今、同じ力を欲している。

 仲間たちが蹂躙される未来を覆すために。

 私から『時流の加護』を授かろうとしているのでしょう」


 あまりにも的確な言葉だった。

 まるで、ここへ来る前から全てを見通していたかのように。


 アルベリオは一歩、踏み出した。


「……その通りです」


 拳を握りしめ、言葉を紡ぐ。


「今この瞬間も、仲間たちは命を賭けて時間を稼いでいます。

 僕が戻らなければ、きっと――」


 脳裏に浮かぶのは、雪原で傷だらけになりながらも立ち続ける仲間たちの姿。


「だから……どうか。

 どうか、巫女様のお力をお貸しください。

 僕に、ルーナと同じ“時”へ踏み込む資格を――!」


 懇願だった。

 勇者としてではなく、一人の人間としての叫びだった。


 しばしの沈黙。


 やがて巫女は、ゆっくりと振り返る。

 その表情には、憐れみも、驚きもない。

 ただ、深い慈愛だけがあった。


 そして、微笑みながら――静かに告げる。


「それは……私には、できません」


「――っ!」


 アルベリオの世界が、一瞬揺らいだ。


「な……ぜ……?」


 喉から絞り出すような声に、巫女は目を伏せる。


「『加護』は、願えば授けられる力ではありません。

 それは“選ばれる”もの。

 加護は本来、世界の”流れ”そのものに、魂を差し出す覚悟を持つ者だけが触れられる領域なのです」


 巫女はゆっくりと歩み寄り、アルベリオの前に立つ。


「そして――」


 その青い瞳が、まっすぐにアルベリオを射抜いた。


「今の貴方は、まだ“未来を背負う側”ではありません」


 拒絶ではない。

 だが、紛れもない否定だった。


 アルベリオは歯を食いしばる。

 焦燥と無力感が、胸の奥で渦を巻く。


 ――それでも。


 それでも、引き下がるわけにはいかなかった。


 戦場では、時が止まるたびに仲間の命が削られているのだから。


(まだ……何か、方法があるはずだ)


 アルベリオは、再び口を開こうとした。


 そのとき――。

 巫女は、意味深な言葉を続ける。


「ですが……“同じ力”が必要だとは、誰が決めたのですか?」


 その一言が、新たな可能性の扉を、静かに開いた。

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