570話 対抗手段
――時が、再び軋み始める。
「もう諦めなよ」
ルーナが指を立てた、その瞬間だった。
世界が、ほんのわずかに歪む。
空気が重くなり、音が遠ざかる。
あの嫌な予感――時流の加護が、再び発動されようとしている。
「――止める!!」
アルベリオの叫びが、雪原を切り裂いた。
その声に呼応するように、俺たちは一斉に動いた。
ルミエラの放った業火が爆ぜ、赤月の光すら塗り潰すような火の壁が立ち上がる。
同時に、アルマの水魔法が霧となって広がり、視界を奪う冷たい帳を作り出す。
「視界を塞ぐわ――今よ!」
カリーナの声とともに、地面が唸った。
土元素魔法が雪原を盛り上げ、一直線の隆起を生み出す。
それは“道”だった。
アルベリオとライナスのためだけに用意された、たった一瞬の突撃路。
「道は作ったわ! アルベリオ、今――!」
カリーナの叫びを背に、アルベリオとライナスが目を合わせる。
言葉はいらなかった。
ライナスが頷き、大剣を構える。
刃ではない。
面――剣身そのものを前に突き出し、雪原に深く踏み込んだ。
「これで一気に……踏み込めやア!!」
雄叫びと同時に、ライナスは全身の力を剣に叩き込む。
大剣がしなり、反発する。
アルベリオは、その剣に足を掛けた。
――踏みしめる。
次の瞬間。
弾けるように、アルベリオの身体が射出された。
走る、という表現では生ぬるい。
空を裂き、雪を蹴散らし、一直線に――飛ぶ。
「何を……しようとしているの?」
火と霧の向こうから、ルーナの声が響いた。
困惑ではない。
だが、ほんのわずかに、予測から外れた響き。
火と水のカーテンが霧散する。
そこに立っていたルーナは、赤月を背負い、再び指を立てていた。
「どれだけ抵抗しても無駄だよ。
私の力の前では、すべて――」
言葉が、途切れた。
「……?」
ルーナの視線が、ふと下へと落ちる。
雪の中で、青い光が脈打っていた。
それは、小さく、しかし確かに存在を主張する光。
転移石。
その光を、掴み取る影があった。
「――なに?」
ルーナが呟いた、その刹那。
雪煙の中から、アルベリオが姿を現した。
片膝をつき、片手で転移石を強く握りしめている。
「それは……なぜ、君が?」
ルーナの声に混じる、少しの動揺。
アルベリオはゆっくりと立ち上がり、転移石を掲げた。
「君に対抗する手段は――もう、これしかない」
静かな声だった。
だが、その言葉には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
アルベリオは転移石に魔力を注ぎ始める。
青い光が脈動し、石の中で“記憶”が目を覚ます。
「巫女様には……あまり負担を掛けさせたくないんだけどね」
苦笑するように、アルベリオは呟く。
「それでも――きっと、理解してもらえるだろう」
その瞬間。
ルーナの表情から、完全に笑みが消えた。
赤月が、さらに強く輝く。
空気が震え、時間そのものが悲鳴を上げる。
――間に合うか。
――間に合え。
俺は歯を食いしばり、祠の奥を睨んだ。
ノア。
今、必ず――取り戻す。
世界が再び止まるか、それとも――。
この一瞬に、すべてが懸かっていた。
――そして、青白い光が弾け、アルベリオの姿が掻き消えた。
一瞬の静寂が、雪原に落ちる。
風の唸りと、赤月の鼓動だけが耳に残った。
「……今のは」
ルーナが、首を傾げる。
その表情に、焦りはない。ただ純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「どこへ行ったの?」
淡々とした問い。
まるで盤上から消えた駒の行方を確かめるかのような声音だった。
誰も答えない。
答えられるはずもなかった。
ライナスは歯を食いしばり、大剣を地面に突き立てる。
ルミエラは口元を歪め、アルマは必死に魔力を練り直していた。
「……何を企んでいようと、無駄だよ」
ルーナは小さく息を吐き、指先を持ち上げる。
「結果は変わらない」
その瞬間、世界が――沈黙した。
雪が空中で止まり、風が凍りつく。
赤月の光すら、瞬きを忘れたかのように静止する。
まただ。
また、この悪夢の時間。
(アルベリオ……早く戻ってきれくれ……!)
動かぬ身体の中で、俺はただ祈ることしかできなかった。
彼が帰ってくる、その瞬間まで――俺たちが、生きていられることを。
※※※
世界が溶けた。
足元も、空も、色彩も。
すべてが青い奔流となり、身体を包み込む。
転移――。
雪景色が遠ざかり、次の瞬間には、柔らかな緑が視界を満たした。
草原。
だが、それも長くは続かない。
視界は再び歪み、今度は赤く乾いた大地へと変わる。
熱と砂の匂いが、喉を刺した。
(……繋がっている)
アルベリオは確信していた。
この転移石は、ロルロ王国へ通じている。
だが、胸を撫で下ろす暇はなかった。
(ということは……)
ルーナが、かつてロルロを訪れていたという事実。
それが意味するのは、ひとつしかない。
――獣族化の薬。
もし、あの薬がこの国にも流れていたとしたら。
もし、ルーナの影響が、すでに国民に及んでいたとしたら。
背筋が、凍りついた。
(……僕は)
ロルロ王国の勇者として。
『神託の巫女』に”仕える者”として。
守るべきものが、あまりにも多すぎる。
胸の奥に湧き上がる恐怖と焦燥を、必死に押し殺した、その時。
青い流動の向こうに、光が見えた。
転移の終点――。
閃光が収まり、足裏に確かな感触が戻る。
「……着いた、のか」
アルベリオは、思わず息を呑んだ。
眼下に広がるのは、ロルロ王国の首都――ガリオン。
白い城壁と、整然と並ぶ建物群。
穏やかな煙が空へと昇り、街は一見、平穏そのものだった。
だが、見た目だけでは判断できない。
アルベリオは即座に魔力感知を発動する。
(……争いは、ない)
少なくとも、今この瞬間。
街中で大規模な戦闘や暴動は起きていない。
それでも、不安は消えなかった。
「……確認しないと」
アルベリオは丘を駆け下りる。
街を囲む巨大な城壁。
その麓に設けられた検問所が見えてきた。
そこに立っていたのは、一人の兵士。
ロルロの紋章が刻まれた鎧を纏い、槍を携えている。
兵士が、こちらに気づいた。
「――!?」
一瞬、警戒の色を浮かべた兵は、次の瞬間、目を見開いた。
「あ、あなた様は……!」
兵士の声が、震える。
アルベリオは足を止め、深く息を吸った。
ここからが、本当の賭けだ。
仲間たちが時止めの世界で耐えている、その間に――彼は、”手段”を持ち帰らなければならない。
たとえ、この国に、自分の身に”最悪の結果”が待っていたとしても……。




