569話 同じ土俵に立つ
ルーナの力を理解してしまったがゆえに、なおさら絶望は深かった。
ルーナは、俺たちが"動いた世界"と"動かなかった世界"を同時に作り出し、その衝突点で時間を止めている。
攻めれば、攻めた事実そのものが“なかったこと”にされる。
待てば、待った世界が選ばれ、やはり時間は止められる。
どちらを選んでも、結果は同じだ。
「……クソ……」
歯を食いしばる音だけが、自分の頭の中でやけに大きく響いた。
再び、世界が歪む感覚。
空気が張りつき、雪が宙で静止する。
心臓の鼓動だけが、やけに鮮明に感じられた。
――まただ。
時間が、止まった。
身体は一切動かない。
指一本、瞬き一つ、許されない。
それなのに、意識だけが異常なほど冴えている。
視界の端で、アルベリオが剣を振り抜こうとした姿勢のまま固まっているのが見えた。
ライナスは前に踏み出した脚を上げたまま、歯を剥き出しにしている。
ルミエラも、カリーナも、アルマも――皆、抗う途中で“止められて”いた。
その中心を、ルーナは悠々と歩く。
雪の上を踏みしめても、音はない。
衣擦れ一つ、世界は許さない。
「ほんとうに、無力だね」
囁くような声だけが、なぜか耳に届く。
「理解しても対処できない。
それが“格の違い”ってやつだよ」
ルーナは両手を広げた。
その瞬間、彼女の背後に、幾何学模様のような魔法陣が幾重にも展開される。
炎、雷、氷、風、土――属性の区別すら意味を失った、純粋な破壊の塊。
――来る。
分かっているのに、何もできない。
逃げられない。
防げない。
叫ぶことすらできない。
意識がある分、恐怖だけが際限なく膨らんでいく。
ルーナは、俺の正面で立ち止まった。
「君は特に厄介だからね。
まずは――心を折ろうか」
その言葉と同時に、魔力が解き放たれる。
――。
「……死ね」
淡々とした宣告。
次の瞬間、世界が再び動き出した。
轟音。
爆発。
吹き荒れる魔力の奔流。
「――ぐっ!!」
身体が宙を舞い、背中から雪原に叩きつけられる。
肺の空気が一気に吐き出され、視界が白く弾けた。
あちこちで、仲間たちの悲鳴と衝突音が重なる。
雪は爆風で舞い上がり、視界を覆い尽くした。
「く、そ……!」
俺は杖を突き立て、どうにか上体を起こす。
全身が焼けるように痛む。
魔力も、ごっそり持っていかれた感覚があった。
それでも、ルーナは――。
無傷。
いや、正確には、さっきまで確かに見えた細い肩の傷すら、もう存在していなかった。
「……なるほど」
息を整えながら、俺はようやく答えに辿り着く。
なぜ、ルーナだけが時止めの中で動けたのか。
――止まっているのは、世界の時間だけだ。
世界線の“外側”にいる彼女自身は、その影響を受けない。
だから、俺たちは一方的に殴られる。
「気づいた顔だね」
ルーナが微笑む。
「でも、気づいただけじゃ意味がない。
動いても、動かなくても、私は“都合のいい世界”を選ぶだけ」
彼女の足元で、再び魔力が渦を巻く。
「ほら。
次はどうする?」
挑発するようなその問いに、誰も答えられなかった。
攻めれば、時を巻き戻される。
待てば、時を止められる。
傷は増え、魔力は削られ、確実に追い詰められていく。
――このままじゃ、全滅だ。
分かっている。
分かっているのに、打つ手がない。
俺は血の味を噛みしめながら、必死に思考を回した。
何かあるはずだ。
時を止める“前”でも、“後”でもない。
ルーナの加護、その隙間――。
世界線と世界線が衝突する、その“瞬間”に。
――そこに、ほんの一瞬でも、踏み込める余地はないのか。
雪煙の向こうで、ルーナが再び指を鳴らす。
世界が、また歪み始めていた。
―時間が、再び動き出した刹那。
「みんな、見てくれ……」
アルベリオの声は、風に紛れるほど小さく、しかし不思議なほどはっきりと俺の耳に届いた。
俺は反射的に視線を走らせる。彼の目配せの先――吹き荒れる雪の絨毯に、不自然な青い光が埋もれていた。
「……あれは……」
ルミエラが目を細め、息を呑む。
「転移石だ」
アルベリオが即座に断じた。
青白く脈打つ魔力。見間違えようがない。
だが、なぜ――?
「どうして、あんなところに……?」
カリーナが戸惑いを隠さず呟く。
その疑問に、アルベリオは視線だけをルーナに向けたまま、唇をほとんど動かさずに答えた。
「さっき、ルーナは僕たちの攻撃を避けるとき……意識が完全にこちらへ向いていた。
その瞬間、気づかずに落としたんだろう」
俺は喉が鳴るのを感じた。
転移石――ルーナが持っていたものだ。
つまりそれは、彼女が自由に世界を渡るための切り札。
「……これがあれば」
アルベリオの声が、わずかに震えた。
「形勢を、ひっくり返せるかもしれない」
全員の視線が、一斉に彼へ集まる。
「どういうこと?」
アルマが低く問いかける。
アルベリオは一瞬だけ目を伏せ、そして覚悟を決めたように言った。
「僕が、あの転移石を使う。
一度ロルロ王国へ戻るんだ」
「ロルロへ……?」
「そこで、“巫女”に会う。
そして――ルーナと同じ、『時流の加護』を授かる」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。
「正気……?」
ルミエラが思わず声を荒げる。
「そんなこと、簡単にできるわけないだろ?
ルーナはきっとまた、時をとめてくる!」
「分かってる」
アルベリオは静かに頷いた。
「これは賭けだ」
彼は視線を転移石へ戻す。
「その石が、ロルロ王国につながっていなければ、この作戦自体が成立しない」
「……つまり」
カリーナが息を呑む。
「成功率は、限りなく低い……?」
「それでも」
アルベリオは、はっきりと言い切った。
「今のままじゃ、僕たちは確実に削り殺される。
動いても、動かなくても、時は止められる。
攻撃は不可避で、消耗するのはこっちだけだ」
俺は歯を食いしばった。
その通りだった。
ルーナは、俺たちが攻撃する世界線と、
攻撃しない世界線を自在に選び、衝突させ、
そのたびに時間を止める。
選択肢そのものが、すでに罠。
考えることすら、彼女の掌の上だ。
「でも……」
俺は震える声で言った。
「アルベリオさんが抜けたら、前線は――」
「承知の上だよ」
彼は、俺を見て微笑んだ。
「だからこそ、賭ける意味がある。
もし僕が“同じ土俵”に立てたなら――。
少なくとも、あの理不尽な時止めは相殺できる」
沈黙が落ちる。
雪が、静かに舞い続ける。
「……加護を得て、戻って来られる保証は?」
アルマが問いかけた。
「ない」
アルベリオは即答した。
「でも、必ず戻って来る。
戻らなきゃ、この世界は終わってしまう」
その言葉に、胸の奥が締めつけられた。
賭けだ。
だが――賭けなければ、詰み。
俺は転移石を見つめ、そして拳を握った。
「……やりましょう」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「アルベリオさん。
あなたが戻るまで――」
俺は視線を上げ、赤月を背負うルーナを睨み据える。
「俺たちが、ここで踏ん張ります」
アルベリオは一瞬だけ目を細め、深く頷いた。
「頼んだよ、カイル君」
次の瞬間――。
再び、世界が軋む気配が走る。
ルーナが、こちらを見ていた。
「……なにか、企んでる?」
その微笑は、すべてを見透かす者のそれだった。
時間は、また止まろうとしている。




