568話 ザ・ワールド!
――その傷は、確かに入ったはずだった。
ルミエラの魔法が、意識の死角を突き、ルーナの肩を裂いた瞬間――俺たちは確かな手応えを感じていた。
――だが。
ルーナは、血の滲む肩に一瞥をくれると、まるで“失敗作を見る”ように小さく息を吐いた。
「……この程度、か」
次の瞬間。
彼女の肩の傷が、逆再生されるように消えた。
裂けていたはずの皮膚が、時間を巻き戻すように元に戻り、傷が存在していた事実そのものが、世界から消え失せる。
「……なっ!?」
誰かが息を呑む。
俺は思わず、杖を握る手に力を込めた。
「今のは……治癒じゃないわ」
アルマが、信じられないものを見る目で呟く。
ルーナは、その反応を楽しむように微笑んだ。
「そう。”回復”でも”再生”でもない」
彼女はゆっくりと空中に足を伸ばし、赤月を背に語る。
「これは――『時流の加護』」
その言葉と同時に、空気が“歪んだ”。
「数秒だけ、時間を巻き戻すことができる。
今の傷も、ほんの少し前の“私”に戻しただけだよ」
余裕のある口調。
だが、ルーナの瞳は、さっきまでとは違っていた。
――完全に、こちらを脅威と認識している。
「……だが」
ルーナは顎に指を添え、楽しそうに続けた。
「この加護の本質は、そんな単純なものじゃない」
その瞬間。
世界が、二重に揺れた。
視界がぶれる。
いや――“重なった”。
(……何だ? 今の……)
同じ景色が、微妙にズレて重なって見える。
祠、雪原、赤月、そしてルーナ。
(――今一瞬……ルーナが二人、いた?)
「時流の加護によって生まれるのは、二つの“世界線”」
ルーナの声が、二重に響いた。
「私がダメージを負った世界。
そして――負わなかった世界」
彼女は両手を、ゆっくりと左右に広げる。
「存在し得た、二つの“可能性”」
空間が軋む。
耳鳴りが走り、視界の端が白く焼ける。
「その二つを――」
ルーナの瞳が、獲物を射抜く捕食者のそれへと変わった。
「衝突させたら、どうなると思う?」
――瞬間。
音が消えた。
風が止まる。
舞っていた雪が、空中で静止する。
アルベリオの剣が、振り下ろされる途中で止まり、ライナスの踏み込んだ脚が、宙で固まる。
俺が詠唱しかけた魔法も、喉の奥で“未完成のまま”凍り付いた。
(なんだ……!? 身体が……動かない……!?)
思考だけが、異様に冴えている。
体が、動かない。
「――これが、起こる現象」
静止した世界の中で、
ルーナだけが、自由に動いていた。
「世界同士がぶつかることで、”時間が混乱”する」
彼女は、止まった雪の中を歩く。
「結果――世界の時間は、一瞬、停止する」
俺の目の前に立ち、動けない俺を、覗き込むようにして微笑む。
「つまり」
囁く声が、やけに近かった。
「時流の加護は――。
“時止め”の力を秘めている」
背筋が、凍る。
(……クソ……こんな力……反則だ……!)
ルーナは、俺の頬に手を伸ばしかけ――。
「さあ」
楽しげに告げた。
「ここからが、本番だよ。
英雄たち」
停止した世界の中で、絶対者だけが、笑っていた。
雪が空中で止まり、吹き荒れていたはずの風が、音もなく静止する。
俺の視界にあるすべてが、硝子細工のように固定されていた。
それでも――意識だけは、異様なほど冴え渡っていた。
指先の感覚。肺に残る冷気。心臓の鼓動。
動かない身体とは裏腹に、恐怖と理解だけが加速していく。
(……やばい! これは……やばい!)
分かっているのに、分かっているからこそ、逃げ場のない恐怖が胸を締め付けた。
目の前で、ルーナだけが歩いていた。
白いワンピースの裾を揺らし、凍結した世界を当然のように踏みしめる。
彼女の足元で止まった雪片が、宝石のように光を反射していた。
「綺麗でしょう?」
ルーナは、まるで散歩の途中のような声音で言った。
「世界が、私のために息を止めている」
彼女が指を鳴らす。
その瞬間――。
空間そのものが、歪んだ。
止まった世界の中に、膨大な魔力の奔流が解き放たれる。
光と闇が混ざり合ったような奔流が、放射状に広がっていくのが、嫌というほど“見えた”。
(……避けられない!)
理解した瞬間、恐怖が限界を超えた。
身体は動かない。叫ぶことすらできない。
ただ、迫りくる破滅を、意識だけで受け止めるしかなかった。
ルミエラの表情が、凍りついたまま視界の端にある。
前衛に立つアルベリオとライナスも、剣を振り抜く寸前の姿勢で固定されている。
アルマも、カリーナも――誰一人、動けない。
「安心して」
ルーナが、こちらを見て微笑む。
「すぐ終わるから」
彼女が、静かに告げた。
「――時間だ」
次の瞬間。
世界が、再び動き出した。
轟音が、遅れて叩きつけてくる。
凍結していた魔力の奔流が、一斉に解放され、俺たち全員を飲み込んだ。
「――ッ!!」
衝撃。
骨が軋み、内臓が揺さぶられ、視界が白く弾ける。
雪が爆発したように舞い上がり、祠の前は一瞬で視界を失った。
地面を転がり、俺はようやく身体の感覚を取り戻す。
喉から、掠れた息が漏れた。
「……ぐ、は……」
全身が、焼け付くように痛い。
それでも、生きている。
周囲を見ると、仲間たちもそれぞれ吹き飛ばされ、必死に体勢を立て直していた。
誰一人、無傷ではない。
(……時止めの中で、あれだけの範囲攻撃を……)
俺は歯を食いしばり、立ち上がりながら思考を回す。
なぜ、ルーナだけが動けたのか。
答えは、さっき奴自身が口にしていた。
――二つの世界線の衝突。
ダメージを負った世界と、負わなかった世界。
その“可能性”を重ね合わせ、世界そのものの時間を混乱させる。
つまり、あの時間停止は――。
”止まっている”のではなく、
“どちらの世界線が正しいのか、世界が判断できなくなっている状態”だった。
だからこそ、加護の中心にいるルーナだけが、例外として動ける。
(……化け物かよ!)
視線を上げると、ルーナはすでに次の一手を考えているようだった。
傷一つない身体。
赤月を背負い、悠然と佇む姿は、まるでこの世界の支配者のようだ。
だが――。
「……最悪の力なのは分かった」
俺は、新しい杖を強く握りしめる。
天輝石が、微かに脈打つように光った。
「だったら……」
仲間たちの気配を感じる。
誰一人、折れていない。
「それを超える手を、俺たちで作るだけだ!」
恐怖は、まだ消えない。
だが、それ以上に――負けられない理由が、ここにある。
ルーナとの戦いは、ここからが本当の地獄だった。




