563話 目覚めと実感
『カイル』の掌が俺の胸を弾いた瞬間――世界が、裏返るように急回転した。
上下も、前後も、距離の感覚すらぐしゃりと潰れる。
視界にはぐるぐると円を描いて回転する『カイル』の姿が映り、それは蜃気楼のように薄れ、遠ざかっていった。
――落ちる。
意識が、また深いところへ沈んでいく。
輪郭が溶けて消えそうになったとき、薄れゆく向こう側で『カイル』は最後に言った。
「君が僕に宿ってよかった――」
どういう意味なのか。
感謝なのか。後悔なのか。祈りなのか。
答えを考える間すら与えられず、俺の意識は闇に断ち切られた。
―――。
――そして。
次に目を開いたとき、そこは戦場だった。
空の遠くで白い煙が上がり、地面には焼け焦げた跡がまだ熱を帯びている。
焦げた土と血の鉄の匂いが、鼻の奥を刺激した。
俺は――戻ってきた。
その事実を理解した途端、両手に“温かさ”を感じた。
柔らかくて、包み込むような、人の温度。
安堵を覚えるほどのその温かさに導かれるように、俺は目だけを動かして手元を見る。
――そこには。
俺の手を、震える指で必死に握りしめるカリーナとルミエラがいた。
土と泥にまみれ、全身に傷を刻みながら、二人は俺の両手を抱くようにして、目を閉じて祈っていた。
目元には乾いた涙の跡が走り、その痛々しさに胸が締め付けられる。
「――ぁ」
名を呼ぼうとしたが、喉は枯れ、かすれた唸りのような声しか出なかった。
だが、その小さな声に、二人は同時に目を開いた。
視線が合う。
ルミエラの紫の瞳が大きく揺れ、その内側に――光る涙が広がった。
驚いた。
強く笑って、軽口を叩いて、いつも余裕ぶっていた彼女が……俺の前で泣いている。
時間が止まったような数秒。
しかし次の瞬間。
「カイル君!!」
「カイル!!」
二人の体が勢いよく俺に倒れ込んだ。
「――ッぐ……!」
まだ回復しきらない腹部を圧迫され、思わず肺の空気が押し出される。
起き上がろうとすると、今度はルミエラとカリーナの腕が、絡みつくように俺の首にしがみついた。
「本当に……生きてた……!
よかった……っ……!」
カリーナが涙で声を崩し、ルミエラは嗚咽を噛み締めながら、俺の肩に額を押しつけて何度もうなずく。
喉が乾いて声も出ないのに――胸がじんわりと熱くなった。
俺は思った。
こんなにも俺の生を願って、涙を流してくれる人たちがいる――その事実が、ただただ嬉しかった。
―――。
落ち着きを取り戻し、二人がようやく俺の身体から離れたとき――。
ようやく、自分の“内部”の違和感に気付いた。
……いや、違和感じゃない。
これは変化だ。
胸の奥――心臓の周りに、かつてあった“結界”の気配が跡形もなく消えていた。
代わりに、身体の中で魔力が渦を巻き、膨張しながら暴れようとしているのが分かる。
腹の奥がじわりと満たされるような圧迫感。
血の流れよりも濃い“魔力の流れ”が、身体の隅々を押し広げるように巡っている。
嫌悪感がない。
あの忌まわしい封印特有の“冷たさ”も、“痺れ”も、“縛られる感じ”も全部……消えていた。
ただ膨れ上がる魔力だけが、今の俺の身体を支配している。
「……なんだか変な感じです……」
俺が胸を押さえると、ルミエラがすっと顔を寄せ、俺の表情と魔力の揺らぎを見取った。
「たぶん、封印が完全に解けてるんだろうね。
魔力総量が上がる途中の“膨張期”って感じ。
身体がついていけなくて、そういう圧迫感になる」
彼女は優しく微笑む。
「でも、一年前のあの不安定さはもうないよ。
カイル君が――それだけ強くなったってこと」
強く……なった。
自覚はなかったが、ルミエラがそう言うなら、俺は確かに強くなっているのだろう。
「身体の調子は?」
カリーナが涙の名残を拭いながら問う。
「……少し痛みはありますけど、もう大丈夫です」
本当に、嘘じゃなくそう思えた。
そこで、ふと疑問が浮かぶ。
「それにしても……あれだけの傷、誰が治してくれたんですか?」
俺の問いに、一瞬だけ空気が固まる。
気まずそうに目を逸らしたのは、ルミエラだった。
「……ルーナだよ。
あいつが治したの」
「――ルーナが?」
敵であるはずの奴が、どうして俺を?
疑問を口にすると、カリーナが答える。
「私たちにも分からない。
でもルーナ……“何かの礼”だって言ってたわ」
「礼……?」
思い当たる節が、どこにもない。
俺がルーナに感謝されるようなことをした覚えなんて――。
居所を尋ねると、ルミエラが続けた。
「カイル君が目を覚ます前に、転移石を使ってどこかへ消えた。
それと……“自分の邪魔をするな”って」
そうか。
あいつは――まだ戦いを続けるつもりなんだ。
人族の滅亡。
世界の作り替え。
ルーナのその野望は、何一つ終わっていない。
彼女にとって俺を助けたのは、ただの通過点。
邪魔になるなら切り捨てるという意思表示だ。
だが――追わなければならない。
絶対に。
その決意を固めたとき、遠くから声が響いた。
「カイルっ!?」
アルマが走ってくる。
その後ろには、ライガ、ジャンガ、そしてフィーニャも見える。
「目を覚ましたの!? え、嘘……!!」
三人とも驚いた顔で駆け寄ってくる。
「……みんな、無事だったんですね!」
そう言うと、全員が安堵の笑みを浮かべた。
アルマは俺の体に手を当てながら、信じられないという顔で言う。
「数日は絶対に起きないはずなのに……どうして?」
精神世界のことは言えない。
今は説明できる余裕ははない。
だから、俺は言った。
「……夢の中で、強い衝撃を受けたんです。
それで……目が覚めました」
「夢で衝撃を……? どういうこと……?」
ルミエラもカリーナも、眉を寄せ不思議そうに首を傾げる。
「カイルは勇者だから起きたんじゃねぇの?」
ライガが言うと、アルマが呟く。
「勇者は“称号”であって、身体に変化が出るものじゃないわよ」
それでも――。
俺が目覚めたことに、ようやく皆が心から安心した表情を浮かべた。
戦場を見渡すと、敵はすべて倒し、残っているのは倒れた獣族たちと、負傷した俺たちの仲間だけ。
空気は重い。
先の見えない、不気味な静けさが広がっていた。
「今は……負傷者たちの治癒を優先しましょう」
アルマが静かに言った。
「命が危ない人もいるかもしれない。
ルーナを追うのは、そのあとでも遅くないわ」
確かに――。
今すぐ追える状態ではない。
俺自身もまだ完全ではない。
だけど。
この戦いは、まだ終わっていない。
ルーナが世界を変えようとする限り、俺は――絶対に止める。




