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562話 意思の世界

 ――次に目を覚ましたとき、俺はまた、真っ白な世界に居た。


 いや……“また”なんて言葉は正確じゃない。

 ここは魂の回廊じゃない。

 そんな確信だけが、なぜか最初から胸の奥に張り付いていた。


 理由は分からない。

 けれど、あの場所で感じる“流れ”のようなもの――生と死の境目を歩くような冷たい気配が、この世界にはまるでない。


 白い。

 ただそれだけだ。

 冷たくもなく温かくもなく、音もなく風もない。

 上下も距離感も曖昧で、歩いているのか立ち止まっているのかすら曖昧になる。


(……なんだ、ここ)


 喉から漏れた声は、空気に溶けも響きもしなかった。

 まるで“世界そのもの”が、俺の存在を認識していないかのようだった。


 俺は眉をひそめた。


 さっきまで俺は魂の回廊にいた。

 あの灰色の道の上で、壮年の男と話していた。


 そして、あの回廊が崩れかけているのを感じた。

 あれはたぶん、目覚めが近いってことだと……思っていた。


 なのに。


(……意識が戻るどころか、別の場所に落ちたってわけか)


 足元を見ても影はない。

 手を握っても、触覚がふわふわしている。

 本当に、自分の存在すら白く溶けていきそうな感じだ。


 魂の回廊から落ちたのか?

 それとも……誰かが引きずり込んだ?


 思考の先がかすむ。

 白い世界は、まるで“考えること”さえ拒むように静かだった。


(……ここはどこだ。俺は何を……)


 その瞬間、背後も前もない虚無の中心から、“何かの気配”がふっと生まれた。


 空気ではない。

 音でも光でもない。


 言うなれば――“視線”。


 この世界には存在しないはずの、他者の意識が、確かに俺を見ていた。


 ぞくり、と背筋が粟立つ。


(……誰だ)


 息を呑むと、白い空間にゆっくりと“揺らぎ”が走った。

 そこに黒い裂け目が生まれる。


 ”白”の世界に、夜のように深く、底のない“黒”が走る。


 まるで――俺に語りかけるように。


 その“気配”に気づいて俺は振り向いた。


 そこに立っていたのは――俺だった。


 いや、違う。

 俺ではない。

 姿形は俺とまったく同じなのに、雰囲気も眼差しも、根本から異なる。


 少年は柔らかく微笑み、まるで昔から知っていた旧友にでも会ったかのように言った。


「やっと会えましたね……もう一人の僕」


 その声音を聞いた瞬間、背筋がひやりとした。

 俺の理解よりも先に、本能が答えにたどり着く。


 本来のこの身体の持ち主――。

 『カイル・ブラックウッド』。


「お前は……」


 声が震えた。


 だって、彼は死んだはずだ。

 あの壮年の男が言っていた。


 じゃあ――あれは嘘だった?


 そんな俺の混乱を見透かすように、『カイル』はふっと柔らかく笑った。


「驚くのも無理はないよね……だって僕は、“死んだはずの魂”なんだから」


 優しく、どこか寂しげなその笑みに、胸が締め付けられた。

 言葉が勝手に漏れていた。


「……悪い。本当はお前の身体なのに。

 俺はお前の人生を奪ってしまった」


 『カイル』は静かに首を振った。


「ちがうんです。そういう意味で言ったわけじゃない。

 ……そもそも僕は、生まれる前から“死産の予定”だったみたいですから。

 人生に対する未練は、あまりないんですよ」


 その一言に、俺は息を呑んだ。


 死ぬために生まれる子供。

 そんな残酷な前提が、この少年の出発点なのか。


「まぁ……“生きてみたかった”という未練は、少しだけありますけどね」


 照れくさそうに頭を掻く彼を見ると、申し訳なさと痛みが胸に広がった。


「……悪い」


「だから、謝らないでくださいってば!」


 おどけるように笑う彼につられ、俺も少し笑ってしまった。


 だが、疑問はすぐに口からこぼれる。


「……ここはどこなんだ?

 魂の回廊とは、また全然違う場所に思えるが」


 俺が周囲を見渡すと、『カイル』は淡々と答えた。


「ここは“精神世界”。

 魂の回廊が“魂が座する場所”なら……

 ここは魂の記憶――“意思が座する世界”です」


「意思……?」


「魂に刻まれた記憶や歴史、過去の欠片たちが漂う場所……と僕は解釈しています。

 魂の回廊みたいに外界の様子を見ることも、干渉することもできない。

 でも……ここでは“歴史を振り返る”ことができるんです」


 その言葉が終わると同時に、白い空間がふっと揺らぎ始めた。


 紙の白を破るように、色と形がにじみ出していく。

 足元には大地が芽吹き、風が生まれ、空が塗られていく。


 目を見開きつつ、俺は当たり前のように受け止めている『カイル』に問いかけた。


「……“歴史”っていうのは、”魂の前世”が経験した世界の記録ってことか?」


『カイル』は静かに頷いた。


「はい。

 僕の魂が僕になる以前に見た景色。

 世界。

 記憶。

 それらは消えずに、永遠にここで再生され続けているんです」


 その瞬間、世界は完全に姿を変えた。


 緑色の空。

 青く光る草原。

 紫色の太陽が、ゆっくりと昇り沈む。


 地球でも、今の世界でもない。

 俺が知るどの景色にも当てはまらない、異質で美しい世界。


 俺が息をのむと、『カイル』がぽつりと言った。


「これを見るたびに思うんです。

 “僕たちの知らない世界が、まだいくつもある”って」


 その言葉が胸に刺さった。

 彼が俺を見る。

 優しい微笑みが向けられた。


「……君も、そうなんでしょう?

 この世界とは違う……別の世界から来た魂なんですよね?」


 俺は静かに頷いた。


「ああ。

 俺は前世で死んで、お前の身体に宿った……“転生者”だ」


 『カイル』は一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに穏やかな目に戻った。


「君の記憶も見ましたよ。

 火に覆われた空。

 見たこともない兵器で戦う人たち。

 そして……君が、最後に見た親友の景色も」


 拳に力が入った。

 前世の痛みは、もう癒えたと思っていたのに。


「……なんで。

 なんでお前は俺に“これ”を見せる?」


 問いに、『カイル』は首を振った。


「記憶を見せているのは僕じゃありません。

 これは“この精神世界そのものが行っている現象”なんです」


「……現象?」


「ええ。この世界では、魂が死んでも生きていても、“この身体に宿った魂”なら必ずここにたどり着く。

 僕は死んだことで魂の回廊から追い出されました。

 でも……精神世界には境界がないから、こうして残っているんです」


 続けて、少し寂しそうな目で俺を見た。


「君が会ったあの壮年の男……彼は、まだここへは来れません」


「それはなぜだ?」


「資格がないんです。

 あの人は“邪悪な思想”を持つ魂だから。

 生き返ることだけが目的じゃない。

 もっと悪意に満ちた……何かを抱えている」


 俺は、喉まで出かかった嫌な予感を飲み込んだ。


「じゃあ……お前は、なぜ俺の前に?」


 『カイル』は、一歩だけ近づいた。

 その目は真剣で――優しい。


「君に伝えなくちゃいけないことが、二つあります」


『カイル』はまっすぐ俺を見て言った。

 その表情には、先ほどまでの穏やかさとは違う、確かな緊張があった。


「まず一つ目。

 ……この精神世界が、今ものすごく不安定なんです」


 言われるまでもなかった。

 白く整っていた世界の“地面”は、まるで息をするみたいに脈を打ち、遠くの空は不規則なノイズのように揺れ続けている。


「この不安定さは、外の君の身体が……何か、良くない状態にあるって意味なんです」


 『カイル』がそう言った瞬間、胸の奥で嫌な予感が形になった。


「……死にかけてる、んだろうな。たぶん」


 俺は静かに言った。

 あんな戦い方をした。

 ゼロに胸を貫かれたまま、拳を叩き込んだ。

 当然だ。身体が無事なはずがない。


 『カイル』は驚いたように目を広げた。


「その……自覚があるんですね」


「ああ。無茶した自覚は、ある」


 彼はわずかに眉を下げ、しかしすぐに表情を和らげた。


「でも……その不安定さ、さっきから少しずつ収まってきています。

 おそらく外界で、誰かが君の身体を治癒しているんじゃないかと」


 その言葉に、胸の奥で何かがゆっくり熱を持った。

 ルミエラ、カリーナ、アルマ――。


 俺はまた、助けられている。


 『カイル』は続ける。


「そして二つ目。

 ……あの壮年の男には、気をつけてください」


 空気が凍りついたように感じた。


「彼が持つ“邪悪な思想”は……同じ身体に宿る君の魂にも作用します。

 魂同士、共鳴してしまうんです。

 最悪、君の魂が彼に呑まれてしまうかもしれない」


 俺は拳を握った。

 あの、底冷えするような悪意――あれは、本能で理解できた。


「それだけじゃありません」


『カイル』の声が低くなる。


「彼に身体の主導権を渡してはいけません。

 彼が何をするのか……まったく想像がつかないんです。

 悪意の方向があまりにも濃すぎて」


 俺は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


「……わかってる。俺も、奴の邪悪さには気づいていた。

 一度、身体を乗っ取られたことがある」


 言うと、『カイル』は衝撃を受けたように目を見開いた。


「……主導権を、一度奪われたんですか……?」


「ああ。でも、奪い返した。

 あいつの中身がどれだけ腐っていようと、この身体は……あいつの物にはならない」


 『カイル』はしばらく俺を見つめ、やがてふっと微笑んだ。


「……やっぱり君は強いんですね。

 なら、大丈夫だと思います。

 あの人の魂に呑まれたりなんて、君ならしない」


 その言葉は、なぜだか不思議と胸に沁みた。


 だが、『カイル』は最後にもうひとつ、静かに告げるように言った。


「これは……僕からではなく、僕の魂の“以前の記憶”から伝えられたものです」


 そう前置きしてから、彼はゆっくりと手を差し出すように語る。


「もしものとき――。

 絶対に負けられないとき。

 どうしても誰かを救いたいとき。

 もう一歩足りないと感じたとき……」


 紫色の太陽の光が、彼の横顔をゆっくり照らす。


「“黒魔法”と“光魔法”を融合させてみてください」


 その言葉は、まるでこの精神世界そのものに刻まれた“鍵”のようだった。


「黒と光を……融合させる?」


 思わず聞き返した。

 自分の口から出たはずの声が、この白無垢の世界では少しだけ遅れて響く。

 空気が薄いせいなのか、あるいはここが本来の精神世界とは違う何かだからなのか……判断がつかなかった。


 『カイル』は静かに首を横に振った。


「僕にも、その意味は分からないんです。

 どうしてそんな結論に至ったのか、どこで覚えた知識なのか……曖昧で。ただ――」


 そこで一拍置き、まるで深く息を吸い込むように胸を上下させてから続けた。


「ただ、絶対に意味はあります。それだけは確信できます。

 きっと――君がこれから乗り越えるべき何かに、必要になる力です」


 そう言うと、『カイル』はそっと俺の胸へ手を添えた。

 触れられた場所が淡く温かくなり、胸骨の奥で脈打つ魂が、ほんの少し震えた気がした。


「君は、ここに居るべきじゃない」


 穏やかな声音なのに、不思議と拒めない強さがあった。


「外で戦わなければいけないんでしょう?」


「……あぁ。俺には、まだやらなきゃいけないことがある」


 『カイル』は小さく頷いた。


「君は今、外界では深い昏睡状態にあります。

 本来なら……数日は目を覚まさないほどに」


 その言葉に胸の奥が冷たくなる。

 やっぱり、俺は死にかけていたのだ。

 今はもう意識の残滓だけでここに立っているようなものなのだろう。


「でも――」


 『カイル』の瞳が白に染まる。

 透明で、静かで、どこか哀しみを湛えた光。


「この精神世界で、君に“強い刺激”を与えれば……君の意識を無理矢理にでも覚醒させることができます」


「強い刺激、って……」


「大丈夫。痛くはしません。――ちょっとだけ、驚くだけです」


 言った瞬間、『カイル』の手から光が溢れた。

 淡い紫が世界じゅうに広がり、白い空間の輪郭が揺らいだ。


「さぁ、行ってください!

 君は、戻らなきゃいけない!」


 光が弾け、世界が反転した。

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