559話 お前の目的は――?
――魂の回廊。
目を開けたとき、俺は真っ白な空間に立っていた。
何度も見てきた、空も地もない、ただ"白"だけが続く場所。
ここが何なのか、今の俺はもう理解している。
『カイル・ブラックウッド』という身体に宿る魂たちが集う空間――。
これまで幾度も死線に触れた瞬間、俺はここへ“呼ばれてきた”。
だが、”今回”だけは違う。
呼ばれたのではない。
――落ちたのだ。
背後で、重い靴音が静寂を裂いた。
振り返ると、この身体に宿るもう一つの魂――。
あの壮年の男が、冷ややかな目で俺を射抜いていた。
顎から伸びた無精ひげ、薄く吊り上がった眉、荒れた眼光。
いつもの、余裕じみた薄笑いは欠片もない。
目が合った瞬間、男は舌打ちし、床に唾を吐き捨てるような仕草をした。
「お前……ッ!
なぜ”あんなこと”をしやがった!!?」
怒りで声が震えていた。
俺は肩をすくめるだけだった。
「仕方なかっただろ……。
ああでもしなきゃ、ゼロは俺から逃げていた」
その言葉が終わるや否や、男の全身がわなわなと震え始める。
これまでこの空間で会うたび、妙に飄々とした笑いを浮かべていた男はどこにもいなかった。
そこにいるのは――俺を殺す寸前の目をした男。
「違ぇ!!」
怒号が白い空間に響いた。
「俺はそんな話をしてんじゃねぇ!!
……なぜお前は、わざと”心臓を差し出す”ようにゼロを煽った!?」
その言葉で、俺の脳裏に先ほどの戦いが鮮烈に蘇る。
光魔法に焼かれ崩れていくゼロ。
だが奴には、まだ“意志”が残っていた。
俺の肩を抉った一撃よりも、さらに重く鋭い拳。
あれを受ければ普通は即死だ。
だが――俺には、ひとつだけ“勝算”があった。
心臓を覆う、結界魔法。
一年前、壮年の男が俺の潜在魔力を封じるために張り、その副次として心臓を守る盾となったあの魔法。
賭けだった。
生き残る保証なんてなかった。
けれど逃げればゼロは再生し、次の一撃は二度と入らない。
だから俺は胸を開き、ゼロに“心臓を狙わせた”。
結果――。
結界は俺の命を守り、ゼロは崩れ落ちた。
意識が途切れ、気づけばここにいる。
だが、死んだわけじゃない。
微かに感じる。
俺は生きている。
ただし、瀕死だ。
身体は限界に近い。
『カイル』が死ねば、同じ身体に宿る自分の魂も消える。
その恐怖で男は荒れ狂っている……ように見える。
だが――違う。
もっと暗い、もっと醜い感情が、その奥に渦巻いている。
「何を焦ってんだよ。少し落ち着け」
俺がそう言った瞬間、男の目がカッと見開かれた。
「……は?」
「落ち着けだと……?
お前が雑魚なばっかりに、俺まで巻き込まれて死ぬんだぞ!!」
男は怒気を膨らませ、一歩で距離を詰めてくる。
「お前と同じ身体に宿った”ばっかりに”……俺の存在が消えちまうんだぞ!!?」
胸倉を掴まれ、そのまま地面に押し倒される。
男の手は震え、焦燥と怒りが混ざった声が俺の顔に降りかかった。
「死ぬことが怖いのか……?」
俺が静かに問い返すと、男の肩がぴくりと震えた。
「お前が俺と同じなら……。
お前もどこかで死んで、この身体に流れ着いたんだろ?」
沈黙。
ややあって、男はぼそりと言った。
「……あぁ。
怖ぇよ。死ぬのは」
声は落ち着きを取り戻しているように見えた。
が――。
俺は騙されない。
「嘘つけ」
怒気を滲ませて言い放つと、男は眉間に深いしわを刻み、低い声で返した。
「……なんだと」
白い空間の空気が一気に重くなる。
俺は男を睨み返しながら言った。
「もう気づいてる。
お前のことなんざ、とっくに分かってんだよ。
……何度お前とここで話してきたと思ってる?」
男の目が細められる。
「俺の何が分かるって?」
そして俺は言った。
「……お前が、この身体を”乗っ取ろう”としてるってことだ」
白い空間の温度が一瞬で氷点下まで落ち込んだ気がした。
男の瞳から、偽りの被膜が剥がれ落ちる。
そこには――初めて見る、本物の“悪意”があった。
「俺が……この身体を乗っ取ろうとしてるってぇ?」
壮年の男は笑った。
乾いた、どこか軋むような笑いだった。
だがその目だけは笑っていなかった。
むしろ――凍りつくほど冷たい光を宿していた。
「乗っ取ろうとする訳ねぇだろ。そんな手間、俺ぁ嫌いだ」
男は足音を響かせながら、ゆっくりと俺に歩み寄った。
魂の回廊に広がる白い床に、男の黒い影だけが妙にくっきりと落ちている。
「乗っ取る必要なんざねぇんだよ。
お前の魂が死ねば、自然とこの身体は“俺のもん”になる。
ただそれだけの話だ」
ついに、男は俺の目の前へと立った。
その顔は怒りとも悲しみともつかない、複雑な色をしていた。
「だから言ったろ……?
お前が雑魚だと、俺まで巻き添えで消えちまうってよ」
男は俺の胸ぐらを掴み上げた。
魂の回廊のはずなのに、布を引きちぎられそうなほどの力が伝わる。
俺は歯を食いしばりながら男を睨み返した。
「お前、本当に“それだけ”の理由で俺に噛みついてきてたのか?」
「……は?」
「違うだろ」
男の手が一瞬止まる。
「あんだけ俺に絡んできて……俺がやられそうになるたびに呼び出されて、ニヤつきながら意味の分からないことを言って……。
その癖、お前は一度だって俺の死を望むような顔じゃなかった」
「……黙れ」
「怖いんだろ。
俺の死より――“自分がまた死ぬ”ことの方が」
男の目が揺れた。
魂の回廊の空気が震えたようにも感じた。
「お前も……どこかの世界で死んだ魂だ。
理不尽な死か……あるいは望まない終わり方か。
だから別の身体に縋ってでも“生き延びたかった”。
それが『カイル』に宿った理由だろ」
「……」
「俺に干渉してきたのも……乗っ取りたいからじゃない。
二度目は御免だって、必死だっただけなんだよな。
違うか?」
壮年の男は、しばらく黙り込んだ。
やがて掴んでいた手をゆっくりと離した。
そして、ぽつりと呟いた。
「……俺は、“死にたくなかった”んだよ」
その声は、今までで一番人間らしかった。
「死ぬ瞬間なんざ覚えてねぇ。
でもよ……“終わる”って感覚だけは、忘れられねぇんだ。
あれが……怖ぇんだよ」
男は小さく笑った。
過去を自嘲するような笑いだった。
「気がつきゃ、見ず知らずのガキの身体にガキと一緒に閉じ込められてる。
そしたらそのガキは、毎回毎回、死にかけてばっかり……。
落ち着けって言われて落ち着ける訳ねぇだろ」
「……そうかよ」
俺は深く息を吸った。
そして言った。
「――それでも、お前はこの身体を完全には奪わなかった」
男は目を細める。
「奪えなかっただけだ。
この身体の支配権は“最初”からお前だった。
俺は……ただ居候してただけの話だ」
「それでもだよ。
やろうと思えば、できたはずだ。
隙を見て意識を奪うくらいのこと……お前のような魔法使いにならできた」
「……」
「なのにやらなかったのは――。
“俺が死ねば自分も死ぬ”って嘘だけじゃ説明つかなかった。
だから俺は、お前に問いている」
壮年の男の眉がわずかに動いた。
俺は続けた。
「お前……俺を助けてたよな」
「……は?」
「わざわざ呼び出して忠告したり、力を貸してきたり……。
そんな“乗っ取り屋”がいるかよ」
男の表情が固まった。
図星だ。
俺は一歩近づき、まっすぐに男を見る。
「なぁ……。
お前、本当は――俺を生かしたいんじゃないのか?」
その瞬間、男の拳が震え――。
次の瞬間、俺の頬に拳がめり込んだ。
魂の回廊が砕けるほどの衝撃。
だが、痛みはほとんどなく、ただ重い衝撃だけが俺を押し倒した。
「黙れ……ッ!」
男は俺の上に膝をつきながら叫んだ。
「そんな訳ねぇだろ!
俺は……俺はなぁ……!!
この世界に未練があるわけじゃねぇ!
お前に情が湧くようなタマでもねぇ……!!
ただ、消えたくねぇだけだ……それだけだ……!」
男は拳を握りしめたまま、肩を震わせている。
その震えは――怒りではなかった。
恐怖でもなかった。
もっと別の……。
“見たくない真実”に触れられた時、人間が必ず見せる震えだった。
そのとき、回廊の風景が崩れ始めた。
俺の意識が回復しようとしているのだ。
「……なぁ、最後に一つ聞く」
俺はゆっくりと身体を起こし、正面から男を見る。
「お前……名前はなんて言うんだ?」
男は顔を上げた。
その目には、これまで見せたことのない色――。
迷いと、焦りと、そして、怯えが混ざっていた。
「俺の……名前……?」
その瞬間、魂の回廊が揺れた。
白い空間に黒い亀裂が走り、音もなく広がっていく。
男はその亀裂を見つめながら、吐息のように言った。
「……名乗る訳ねぇだろ。
“俺”なんて……とっくに終わった存在なんだからよ……」
そして男は、俺に視線を戻し――。
「だがひとつだけ覚えとけ。
俺はまだ消えねぇ。
てめぇが生きてる限り――俺はここに居る。
俺は”目的”を絶対に果たす……」
男は最後に笑った。
「乗っ取るつもりなんざねぇが……死なれちゃ困るのは本当だ。
だから――勝手に死ぬなよ、黒木京」
そう言った瞬間、魂の回廊が白い光に包まれた。
俺の意識は、現実へと引き戻されていく。




