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閑話 もしも……

 この物語は――あったかもしれない物語である。


 黎明暦3787年。

 ノワラ王国の片隅にある、小さな森に抱かれた村。

 そのひとつの質素な木造の家で、ひ弱な産声が上がった。


 か細く、今にも掻き消えてしまいそうな声。

 その声の主こそ、のちにカイル・ブラックウッドと名付けられる男児であった。


 しかし、その瞬間を迎えるまで、誰もが絶望していた。


 出産に立ち会った医者は、赤子を取り上げた直後、静かに首を振った。

 心臓は動かず、呼吸もない。冷えた小さな身体を前に、医者は”死産だ”と告げた。


 母マリアンは声を失い、父ダーイッシュは拳を握りしめて涙を流した。

 望まれ、愛されていた命は、この世界に根を下ろすことなく終わった――はずだった。


 だが、医者が赤子をゆりかごにそっと横たえたときだった。


 かすかな震えとともに、喉の奥から細い息が漏れ、か弱い泣き声が響いた。


 それは本当に儚い声だった。

 砂に吸われる涙のような命の叫び。

 だが確かに、生きようとする意志がそこにあった。


 医者は凍りつき、次いで心の底から震えるような驚きに包まれた。

 先ほどまで確かに止まっていた心臓が動き、息をしている。説明がつかない。

 それでも、その奇跡の前に、誰もがただ喜び、泣き、抱きしめた。


 こうしてカイルは、この世界にしがみつくようにして生まれ落ちた。


 ――本来の歴史では、この瞬間、別世界の男、黒木京の魂がカイルの身体へと宿り、彼の意志がカイルの人生を歩み出す。


 だが、この世界では違う。


 もしあの日、黒木の魂が降りてこなかったなら。

 本来のカイル自身が、その身体と心で人生を歩んでいたなら。


 その”もしも”の物語が今、始まる――。


 月日は流れ、死産と告げられた命は、”はいはい”を卒業し、ふらつく足取りで家の中を歩き回るようになった。

 両親は医者の言葉などとうに忘れ、ただ息子の成長を喜び、愛情を惜しみなく注いだ。


 そして七年が経った頃、ある転機が訪れる。


「父さん、僕、首都の学校に行きたい!」


 大きな瞳を輝かせ、カイルは父に訴えた。

 だが、返ってきたのは首を横に振る冷たい現実だった。


「駄目だ。金がない。それにお前はまだ七つだ。学園でやっていける歳じゃない」


 さらに決定的な理由があった。


 ノワラでは十二歳を超えた者しか魔法を使ってはならない。

 十二歳前に魔法を扱えば“悪魔が宿る”という古い言い伝えがあったのだ。


 しかしカイルは食い下がる。


「近くに住んでるカリーナって子が、村の護衛に魔法を教えてもらってたんだ! 僕だって……!」


 その言葉に、ダーイッシュの表情が険しくなった。


「あの子はフォークナー家の跡取りだ。お前とは違う。身分も、立場も」


 突き放すような言葉に、カイルは唇を噛んだ。


 カリーナ・フォークナー。

 この小さな村を統治する貴族の娘であり、村にとっては絶対的な存在だ。

 彼女が魔法を習うのは特別で当然――それが父の言い分だった。


 それでも失意に沈む息子に、母マリアンは優しく寄り添った。


「魔法は教えられないけれど、体術や槍術なら私が教えてあげられるわ」


 かつて王国騎士団に所属していた母は、誇り高い戦士でもあった。


 さらに父ダーイッシュが肩を竦めて言った。


「剣なら俺が教えてやる。元冒険者の腕前、見せてやるさ」


 乗り気ではなかったカイルだったが、次第に武術の楽しさに目覚めていく。

 できなかった動きができるようになる喜び。

 身体が強くなっていく実感。

 そして、いつか魔法を使う日のために、自分を鍛えるという希望。


 そうして少年は成長していった。



 ―――。



 十二年目の春。

 カイルはとうとう父から学園へ行く許しを得た。


 十二歳になり、正式に魔法を扱える年齢となったこと。

 魔法に対する一途な憧れが揺るがないこと。

 そして何より、息子の未来を拓いてやりたいという親の願いが、わずかな貯金を崩す決断へと導いた。


 数日後、荷物をまとめたカイルは、小さな背に大きな希望を背負い、首都へ向けて旅立つ。


 両親は家の前でその背を見送りながら祈った。


 どうか、この子に幸せな未来が訪れますように。

 あの日、奇跡のように息を吹き返したこの命が、再び光を失うことがありませんように――と。



 ―――。



 それから長い旅を終え、ようやく首都カーヴァインの城門が視界に入ったとき、カイルは思わず息を止めた。


 ――大きい。


 その一言では到底足りなかった。


 村で見たどんな建物よりも巨大な城壁が空へとそびえ立ち、灰色の石材が夕陽を受けて黄金色に輝いている。

 城門には鋼鉄の装飾が施され、槍を構えた衛兵たちが厳しい視線で行き交う人々を監視していた。


 だが、カイルの胸を最も強く震わせたのは、人の流れだった。


 荷馬車、商人、旅人、兵士、修道服の者、異国の衣装を纏った商隊――。

 村では見ることすらできなかった、人と物と文化が渦巻き、沸き立つ喧騒が空気を震わせていた。


「ここが首都……」


 胸の奥が熱くなる。

 憧れが現実となって目の前に広がっている。


 検問を終え、門を抜けた瞬間、鼻腔をくすぐる香りが押し寄せた。


 焼きたてのパンの香り。

 香辛料の刺激。

 屋台から漂う肉の匂い。


 活気ある声が飛び交い、行商人が商品を掲げて叫び、子供たちが走り回り、馬車が石畳を鳴らして進んでいく。


 全てが眩しく、新鮮だった。


 カイルは期待に胸を膨らませながら、街の中心部へと向かう。

 遠くに見える塔――それこそが、彼がこれから通う魔法学園の象徴だった。



 ―――。



 学園へ近づくほど、景色は凛とした空気に変わっていった。


 整然と並ぶ街路樹。

 白い大理石で造られた建築群。

 制服姿の生徒たちが行き交い、魔法陣らしき光が遠くに瞬く。


 カイルの歩みは自然と早まり、やがて視界が開けた。


 そこには、巨大な門が立っていた。


 高く弧を描いたアーチに銀の装飾。

 中央には、魔導書と杖をかたどった紋章。

 門の向こうに広がるのは、広大な中庭と学舎群。


「――これが、学園……!」


 カイルは思わず息を飲んだ。


 夢にまで見た場所。

 魔法を学び、強くなり、自分の未来を切り拓ける場所。


 ついにその門をくぐった瞬間、胸の奥が震えるような感覚に包まれた。


 ついに、ここから自分の人生が始まるのだと。


 しかし、その興奮は長く続かなかった。

 校舎へ向かう途中、カイルはふと足を止めた。


 中庭の端、木陰を一人で歩く少女が目に入ったのだ。


 長い耳。

 ふさふさとした尻尾。

 頭には獣のような柔らかな毛並み。


 獣族――この世界で忌み嫌われ、差別の対象とされる種族。


 少女は制服の袖をぎゅっと握りしめ、胸に抱えた分厚い本を落とさないように抱きしめながら、俯いて歩いていた。

 表情は暗く、今にも泣き出しそうなほど悲しげだった。


 周囲の生徒たちは彼女から目を逸らしたり、嘲るように笑ったり、露骨に距離を取っていた。


 カイルは思わず一歩踏み出し――。


 ――いや。


 足が止まった。


 喉の奥がきゅっと締め付けられる。


 ――本来の歴史では、ここでカイル――いや、彼の身体に宿った黒木京が、迷いなく声をかけ、少女と友を結んでいた。


 だが、この世界のカイルは違う。


 彼は知っていた。


 獣族がこの国でどれほど軽蔑され、いじめられ、迫害されているか。

 彼らと関われば、自分も同じように標的になるかもしれないことを。


 胸の奥に微かな声が生まれる。


 ――声をかけてあげたい。

 ――あんな顔をしているのに。

 ――助けてあげたい。


 だが、その優しさは次の瞬間、恐怖と打算に押し潰された。


(巻き込まれたくない……)


 ここまで来るのに両親が払った犠牲を思い出す。

 貧しい生活。

 少ない貯金を崩し、自分の未来に託した願い。


 ここで自分が孤立し、いじめられ、学園生活を壊してしまうなど――絶対に避けたい。


 魔法を学びたい。

 強くなりたい。

 楽しい学園生活を送りたい。


 そんな“わがままな保身”が、カイルの背中を押した。


 目をそらし、歩き出す。


 少女の足音が遠ざかる。


 カイルは唇を噛みしめながら、心の中で必死に言い訳を繰り返した。


(仕方ない……僕だって……)


 それでも耳の奥に、少女の押し殺したような嗚咽が残った気がして、カイルの胸は重く沈んだ。


 この瞬間、世界は”明確に”分岐した。


 誰にも気づかれない、小さな選択。

 だが、この分岐が、やがて大きな影となってカイルの未来に降りかかることを――。


 このときの彼は、まだ知らない。



 ―――。



 翌朝、カイルは胸の高鳴りと不安を抱えたまま、学園の校舎へと足を踏み入れた。


 白い大理石の廊下は朝の光を反射し、眩しいほどに輝いている。

 天井には魔法によって浮かぶ光球がいくつも灯り、炎でも油でもない、澄んだ光が校舎全体を満たしていた。


 村では見たことのない光景だ。


 教室に入ると、すでに多くの生徒が席についていた。

 ざわめき、笑い声、机を擦る音――すべてが新鮮でありながら、どこか息苦しさを伴っていた。


(緊張する……)


 村の学校では、数えるほどの子供しかいなかった。

 全員が顔見知りで、家族のような関係だった。


 だがここは違う。


 見知らぬ人間ばかり。

 裕福そうな服装。

 背筋の伸びた立ち振る舞い。

 既に出来上がっている小さなグループ。


 カイルは席につき、ひっそりと呼吸を整えた。


 やがて担任が入室し、自己紹介が始まった。


「ノワラ王国東部、名家セリオット家の長男、ラルフ・セリオットです」


「商会の跡取り、ミーナ・シュトルムと申します」


「父は地方騎士団長、母は魔法研究員です」


 次々と続く肩書きに、カイルは胃の奥が重くなる感覚を覚えた。


 村には存在しなかった壁。

 生まれと家柄で測られる空気。


 順番が回ってきた。


「……ノワラ王国の北の方にある小さな村から来ました。

 カイル・ブラックウッドと言います。

 魔法を勉強したくて……入学しました。その……頑張ります」


 短い挨拶。

 拍手はまばら。

 一部の生徒は興味を失ったように視線を逸らした。


 その冷たい反応に、カイルの胸がちくりと痛んだ。


(こんなに怖いところだったんだ……)



 ―――。



 授業は想像以上に難しかった。


 魔力制御、基礎魔法理論、魔導史――。

 どれも村では触れたことのない内容ばかりだった。


 だが同時に、心が震えるような感動を覚えていた。


 魔法陣の構造を理解できた瞬間。

 魔力操作がわずかに成功した瞬間。

 胸が熱くなり、思わず笑みが漏れる。


 勉強は大変だが、やりがいがあった。

 魔法への憧れが、確かな手応えに変わっていく。


 しかし――休み時間になると、教室の空気はがらりと変わった。


 人の輪。

 笑い声。

 交流。


 その中で、誰も近づかない空間があった。


 教室の隅。

 窓際の一角。


 そこには数人の獣族の生徒が集まっていた。


 その中心に、昨日見かけた少女――”ノア・グレンリーフ”がいた。


 耳が垂れ、尻尾も元気がなく、胸に教科書を抱えたまま俯いている。

 彼女たちの周囲には、目に見えない壁があった。


 誰も近寄らない。

 誰も声をかけない。

 まるで存在していないかのように扱われていた。


 カイルは思わずその様子を見つめてしまう。


 胸がざわつく。


(昨日、声をかけられていたら……)


 罪悪感がじわりと広がり、居心地の悪さとなって背中を押しつけた。


 だが同時に、別の感情が顔を出す。


(関わったら……僕も……)


 自分もその隅に追いやられる未来。

 嘲笑、差別、孤立。


 想像しただけで、喉がひりつくほど恐ろしくなった。


 カイルは視線をそらし、机の上の教科書に目を落とした。


 ―――。



 その日の放課後。


 廊下を歩いていると、不意に声をかけられた。


「ねえ、新入生くん?」


 振り返ると、栗色の髪を揺らした上級生の女子生徒が立っていた。

 整った顔立ちに、どこか底の読めない笑み。


「一年生のカイル・ブラックウッドくん、で合ってる?」


「……はい」


「私はエイミー。”七年生”よ。よろしくね」


「七年……?」


 エイミーの言葉に疑問を抱いたカイル。それも無理はなかった。

 ここ、カーヴァイン魔法学園は六年制の学園。七年生など存在するハズがなかった。


 エイミーはカイルの呟きを聞いてギロリと彼を睨んだ。

 萎縮するカイル。

 そんな彼の様子を見たエイミーはふっと表情を戻し、教室の隅をちらりと見て、薄く笑った。


「あなた、さっき獣族のこと見てたでしょ?

 覚えておいたほうがいいわよ。この学園では”アレ”に関わったら終わりよ」


 その口調は優しげなのに、言葉の裏に棘が潜んでいる。


「そういえば――前に獣族なんかと仲良くして退学した子がいたの。

 カリーナっていうんだけど、知ってる?」


「カリーナ……?」


 その名前を聞いた瞬間、カイルは村で見た金髪の少女の姿を思い出した。

 何度か村で見かけた貴族の娘。

 凛として、優しく、そして誇り高い瞳をしていた。


「退学……したんですか?」


「ええ。自分がちょっと優秀だからって、私たちとは違う”次元”の人間だと思っていたのよ。

 獣族と仲良くしていたのもそうだけど、あの態度が本当に気に食わなかったの」


 エイミーは笑いながら言ったが、その声には露骨な嫉妬が滲んでいた。


「だから、みんなで教えてあげたの。自分の立場ってものをね」


 その言葉が何を意味するか、考えるまでもない。


 胸がぎゅっと締めつけられた。


(いじめられて……退学に追いやられたってことか)


 エイミーは髪をかき上げ、甘く囁くように続ける。


「あなたも気をつけたほうがいいわよ? 

 変な子と仲良くしてると、同じように見られるから」


 そして、上品な笑みを浮かべたまま去っていった。


 残されたカイルは、廊下の冷たい空気の中で動けなくなった。


 エイミーの言葉には、蔑みと確信が混じっていた。


 カイルの胸が再び重くなる。

 カリーナの名前を聞いた瞬間、カイルの心臓が跳ねた。


 村で見た少女。

 領主の娘。

 魔法を教わっていた、あのカリーナ。


 カイルは、この学園に漂う何かを感じ取った。


 圧。

 支配。


 この学園には、村にはなかった上下関係が存在する。


(逆らえば……僕も……)


 喉が乾き、返事が出ない。

 胸の中に渦巻くのは、恐怖と後悔。


 ――あのとき声をかけていれば。


 だが、それでも足は動かない。

 この学園で孤立することへの恐怖が、カイルを縛りつけていた。


 こうしてカイルは、ゆっくりと、しかし確実に――本来とは異なる道へと踏み出していく。



 ―――。



 いつの間にか、カイルの胸に巣食っていた不安は、日々の生活に馴染んでいった。


 獣族が隅に押し込められ、人族が優越を振りかざす教室の空気。

 弱い者が笑われ、強い者に媚を売る者が出る廊下の風景。

 誰かが理不尽に叱責されても、周囲が目を逸らす沈黙。


 最初は違和感でいっぱいだったそれらも、時間が経つにつれ――。


(……まぁ、こんなものなのかもしれない)


 と、受け入れられるようになってしまった。


 慣れが恐怖を鈍らせる。

 後悔が薄れるわけではないのに、日常がそれを覆い隠していく。


 そんな折――学園に重大な知らせが届いた。


「これから新入生は、国王陛下への謁見の機会が与えられる」


 ざわめきが走る。

 王城へ赴き、国王自らが言葉を授けるという。

 表向きは祝福の儀式。

 だがその実、卒業後ノワラ騎士団へ入隊できる素質を持つ者を見極める場でもあった。


 王城は壮麗だった。


 白亜の壁に赤い絨毯がまっすぐ伸び、両脇には無表情な騎士たちが整列する。

 天井には巨大なシャンデリアが吊られ、そこから降り注ぐ光が磨かれた石床に反射して眩い。


 国王は玉座に座り、重々しい声で新入生へ言葉を述べた。


「ここに集いし若き魔法使いの卵たちよ。己が才能を磨き、ノワラの未来を担う者となれ」


 荘厳な響きに、生徒たちの胸が高鳴る。

 カイルもまた、誇らしさと緊張が入り混じった感覚に包まれていた。


 謁見はつつがなく終わり、王城で豪勢な昼食が振る舞われた。


 だが――本番はその後だった。


 大広間に戻った新入生たちの前に、異様な存在感を放つものが運び込まれた。


 ――深紅に染まった巨大な石板。


 不自然なほど鮮やかな赤。

 宝石とも岩とも違う、どこか脈動を感じさせる色彩。


 ざわめく生徒たちの前に、金色の鎧をまとった男が進み出る。

 胸には王国騎士団の紋章。

 高位騎士であることは一目で分かった。


「これは適正魔法を調べる石板だ」


 堂々と響く声が大広間に満ちる。


「今から各々この石に手を添えてもらい、君たちの適正魔法を調べさせてもらう。

 火元素魔法の適正があれば勇敢なる魔法戦士に、風元素の適正があれば柔軟な魔法使いになれるだろうね」


 そこで男は口元を緩めた。


「光魔法の適正者……はまぁいないだろうけど、もしその適正があれば我が国で数十年ぶりの”勇者”誕生となる! 

 皆、緊張感を持つように!」


 冗談めいた調子に、生徒たちから笑いが漏れ、張り詰めた空気が少し和らぐ。


 そして、適正検査が始まった。


 次々と生徒たちが石板に手を置く。


 炎の赤、風の緑、水の青、土の黄――石板の色が淡く変化し、その者の適性が示されていく。


 人族の生徒たちは平均的な四大元素ばかりで、大きな驚きはない。

 記録係の兵士も淡々とメモを取るだけだった。


 そんな中――静かに列に並んでいた獣族の少女が前に出た。


 ノア・グレンリーフ。


 あの日、声をかけられなかった少女。


 彼女は緊張した面持ちで石板に手を添えた。


 瞬間、


「――っ!?」


 記録係の兵士が声を上げた。


 石板が淡い白緑色の光を放った。

 見慣れない色。

 大広間の空気が一瞬止まる。


「空気元素……だと?」


「珍しい……」


 兵士たちがざわつく。

 火・水・土・風の四大元素以外の適正は極めて稀。

 その中でも空気元素魔法は特異で、歴史に名を残す魔法学者や探索者の多くがこの適正を持っていた。


 ノアは驚き、そして少しだけ笑った。


 自分にも可能性がある――そう思えたのだろう。


 だが周囲の反応は冷たかった。


 人族の生徒たちは視線を逸らし、無言で次の検査へと進む。

 喜びを共にする者は誰もいない。


 ただ獣族という理由だけで。


 カイルは胸の奥が苦しくなるのを感じた。


(本当なら……祝ってあげられたのに)


 それでも列を乱すことなく、人族の生徒たちに合わせて進んだ。


 そして――ついにカイルの番が来た。


 石板に手を置く。


 冷たい感触。

 鼓動が耳の中で大きく響く。


(火かな……水かも……村でも少しは使えたし)


 そう思った瞬間――石板が、眩い白銀の光を放った。


 大広間中が光に照らされる。


「……な……っ!?」


 記録係の兵士が立ち上がり、騎士たちがざわめいた。


 金鎧の男の表情が一変する。


「光魔法……だと……?」


 大広間が騒然とする。


「まさか、本当に……」


「勇者か……?」


「数十年ぶりの……!」


 視線が一斉にカイルに突き刺さる。


 ノアとは正反対。

 称賛と興奮と期待に満ちた目。


 カイルは息を呑んだ。

 何が起こったのか理解できない。


(僕が……勇者……!?)


 胸が高鳴り、全身が震える。


 だが――その黄金の光の奥に、誰も気づかなかった微かな黒い影が揺らめいていた。


 それは、この瞬間を境に、『カイル・ブラックウッド』の人生が本来の歴史から大きく逸れ始めたことを告げる兆しだった。


 そしてその先に待ち受ける運命は、本来よりもはるかに残酷で――救いのないものとなる。



 ―――。



 光魔法の適性が示されたその日を境に、カイル・ブラックウッドの人生は唐突に、そして劇的に変貌した。


 昨日まで彼が眠っていた、学園近くの狭く湿った借家は――その日の夕暮れにはもう、空になっていた。


 代わりに与えられたのは、王城内部の豪奢な私室。


 柔らかな羽毛布団、磨き上げられた床、窓から差し込む温かな陽光。

 身の丈に合わないほど豪華な調度品に囲まれた部屋で、カイルは信じられない気持ちでベッドに寝転んだ。


(……本当に僕が、勇者の素質を持っているの……?)


 その事実は、夢のような甘い麻酔だった。


 翌日から、周囲の態度は一変した。


 今までカイルに興味を示すことすらなかった教師たちは、口々に彼を称賛した。


「光魔法適正者……歴史に残るぞ!」


「君はノワラの希望だ!」


「いやぁ、以前から才能があると思っていたんだ」


 同級生たちも寄ってきた。


「カイル、一緒に食堂行こうぜ!」


「訓練見ていい!?」


「握手してくれ!」


 ほんの数日前まで村出身の平凡な新入生でしかなかった彼に、称賛と羨望が降り注ぐ。


 カイルは有頂天だった。


 勉強も魔法も平均的。

 特別なものなど何一つ持っていないと思っていた自分が――突然”勇者の素質を持つ”と告げられたのだ。


 誇らしさと高揚感が、胸を満たしていく。


(……僕は、すごかったんだ!)


 そう思うのに、理由はいらなかった。


 やがて、学園での授業は免除された。


「カイル君は特別訓練に回す。学園で学ぶ内容は、もう彼には不要だ」


 そう言われ、他の生徒たちとは別格の扱いを受けるようになった。


 彼は毎日、王城の訓練場で高位騎士や宮廷魔法使いから直接指導を受けた。


 剣技、体術、魔力操作、精神集中――。

 血を吐くほどの苛烈な訓練。

 骨が軋み、魔力が枯渇し、倒れ込むこともあった。


 だが、それすら快感だった。


(強くなる。もっと強く。誰よりも)


 その純粋な願望は、称賛によって肥大し、身の内で膨れ上がっていく。


 気づけば――カイルは学園で最強の存在となっていた。


 齢十三にして、四大元素すべてを上級魔法まで扱いこなす。

 王国随一の魔法使いですら舌を巻く才能。


 彼は疑わなかった。


 自分の実力も、未来も、期待も。


 そして――世界も。


 そんなある日。


 ノワラ王国全土を震え上がらせる報せが届いた。


 この世界に存在する、最も強大で恐ろしい存在――六星魔王。


 その一角、修羅道のヴァルグ・アシュヴァルが、魔獣の大軍を率いてノワラへ迫っているというのだ。


 六星魔王は数十年もの間、何の動きも見せなかった。

 それが突然侵攻を開始した理由を、誰も知らない。


 恐怖と混乱が国中に広がり、王都は一夜にして戦時体制へと変貌した。


 しかし――絶望がすべてを飲み込むことはなかった。


 なぜなら、ノワラにはごく最近誕生した勇者がいるからだ。


「勇者が魔王を倒す。古くから伝わる真実だ」


「光は闇を打ち払う」


「今回はきっと大丈夫だ。あの少年がいる」


 国民たちは信じていた。


 世界を救う存在が現れたのだと。


 王城へ召喚されたカイルは、王の前に跪いた。


「カイル・ブラックウッド。余は命ずる」


 王は厳かな声で告げた。


「魔王を討て」


 それが、勇者として下された初めての任務だった。


 カイルは胸を張り、迷いなく答えた。


「はっ。必ずや、この命に代えても」


 疑いなどなかった。


 自分の力に。

 訓練の成果に。

 勇者という称号に。


(魔王の一人くらい……倒せる)


 それは、確信だった。


 だが――現実は、あまりにも残酷だった。


 カイルは、その日のうちに理解することになる。


 自分が信じていた力が、どれほど幼く、どれほど脆弱で、どれほど無意味だったのかを。


 そして、自分が”希望”ではなく――国によって作られた、ただの”生け贄”であったことを。



 ―――。



 ――そして、歴史は静かに狂い始めた。


 ノワラ王国南端。


 王城を出立したカイルは、胸を高鳴らせながら馬に跨っていた。

 周囲には王国精鋭の騎士団、魔法師団。

 誰もが緊張した面持ちであるにもかかわらず、カイルだけは違っていた。


(ついに……僕が世界を救う時が来たんだ)


 一年間、王城で積み重ねてきた過酷な訓練。

 血反吐を吐きながら磨き上げた魔法と体術。

 そして、自分が勇者だと信じて疑わぬ周囲の期待。


 それらすべてが、十三歳の少年の胸を大きく膨らませていた。


 だが、その昂揚は――敵影が視界に入った瞬間、氷のように固まった。


 黒い霧が大地を這い、空を覆い、視界が暗転していく。

 地平線の向こうから、無数の影が蠢きながら迫ってくる。

 それがただの魔獣の群れではないと、誰もが一目で悟った。


 全身が鉄と骨のような外殻に覆われた巨狼。

 影から影へと跳躍する、形すら定まらない幻獣。

 空から降り注ぐ黒翼の魔鳥群。


 そして、その中央を歩く――ひときわ巨大な存在。


 黒炎を纏い、地面を踏みしめるたびに大地が裂ける。


 六本の太い腕。三つの獰猛な獣の頭。背から生えた二対の角。

 巨大な体躯にもかかわらず、その歩みに一切の揺らぎはない。


 修羅道の魔王――ヴァルグ・アシュヴァル。


 その存在を真正面から目にした瞬間、カイルの体は震えた。


 頭では理解できていない。

 だが、本能が叫ぶ。


 ――逃げろ。


「お、恐れるな! 勇者様がおられるのだ!」


 誰かが叫ぶ。騎士たちが声を振り絞り士気を高めようとする。


 その言葉に、カイルは再び胸を張った。


(そうだ……僕は勇者だ。倒せる。倒してみせる)


 自身を奮い立たせ、光魔法の詠唱に入ろうとしたその瞬間だった。


「――――」


 空気が震えた。


 次の瞬間、光景が弾け飛ぶ。


 騎士団の先頭列が、一瞬で赤黒い霧になった。

 声も悲鳴もなく、肉も骨も甲冑もろとも、そこに存在した者すべてが――消えた。


「……え?」


 理解が追いつかない。


 魔法師団が慌てて防御陣を展開しようとするが、その動きすら完了しないうちに二列目、三列目が同じように霧散した。


 視界の端で、頭が宙を舞う。

 馬が断末魔を上げながら折り畳まれるように潰れる。


 たった一呼吸の間に、百を超える兵が消滅した。


「な、なに……が……?」


 カイルは震える唇で呟いた。


 その答えは――目の前に降り立った。


 ヴァルグが六本の腕のうち一本をゆっくりと引いた姿勢で停止していた。

 まるで今の破壊が、ただの軽い一振りであったかのように。


 三つの頭が同時にカイルを見下ろす。


「……勇者、か」


 低く、地を震わせる声。


 それは嘲笑ですらなかった。

 ただの確認。


 その無関心さが、何よりも恐ろしかった。


「ひ、光――」


 詠唱を始めようとした瞬間、それすら許されなかった。


 視界が反転する。

 体が宙を舞い、大地に叩きつけられる。


 何が起きたのかすら認識できなかった。


 魔王の拳が、カイルを地面ごと抉り飛ばしたのだと理解したのは――胸から大量の血が噴き出してからだった。


「……っ、あ……?」


 痛みも感じない。

 ただ冷たい。


 耳鳴りがする。


 視界がぼやけていく中、魔王の足音だけが鮮明に響いた。


 大地が揺れる。


 逃げたい。

 助けてほしい。


 魔法を放とうとしても、指一本動かない。


(なんで……僕が……?)


 一年間積み上げた努力。

 勇者と持て囃された日々。

 自分は選ばれた存在だという確信。


 その全てが、一撃で砕け散った。


 ヴァルグがカイルに興味を失ったように視線を逸らし、ただ前へ進んだ。


 カイルの意識が途切れたその瞬間――ノワラ王国は終わった。



 ―――。



 王都は燃え上がり、悲鳴と炎と黒煙に包まれた。

 立ちはだかった騎士や兵士、魔法使いたちは全員、塵と化した。


 王城に逃げ込んだ王族も同じ運命を辿った。


 しかし奇妙なことに――魔王は抵抗しない者、逃げ惑う市民、泣き叫ぶ子どもたちには指一本触れなかった。


 瓦礫を跨ぎ、焼け落ちる城門を踏み砕き、ただ歩み続ける。


 まるで目的地が別にあるかのように。


 そして、王都の片隅――学園近くの避難所。


 震える少女の前で、魔王は初めて歩みを止めた。


 茶色い髪。

 頬までのショートカット。

 背中には獣の耳と尻尾。


 ノア・グレンリーフ。


「貴様が、ノア・グレンリーフだな?」


 震える声でノアは頷いた。


 次の瞬間、魔王の巨大な手がそっとノアを掬い上げ――肩に乗せた。


 その優しさは、あまりにも異質だった。


「……な、なに?」


 ノアの問いかけに、魔王は低く答える。


「貴様を欲する者がいる」


「獣族の……私を? 誰が?」


「貴様ら獣族を須らく愛する者だ」


 その言葉に、ノアの瞳が大きく揺れた。


 これまでの人生で、獣族であるという理由だけで避けられ、蔑まれ、嘲られ続けた。


 愛されたことなど――一度もない。


(ほんとうに……そんな人が……?)


 迷いのあと、ノアは小さく頷いた。


 魔王は問いかける。


「もうここには戻れん。親にも友にも、一生会えんぞ」


 ノアは唇を噛み、そして答えた。


「……別にいい」


 涙は流れなかった。


「こんな国、戻りたくない。

 愛してくれる人がいるなら……そっちに行きたい」


 魔王は何も言わず歩き出した。


 肩に乗る少女を連れ――ノワラ王国を去っていく。



 ―――。



 この日、ノワラ王国は魔王の手によって壊滅的な打撃を受けた。


 だがその死者数は、魔王が人の国を襲った歴史上――最も少なかったと言われている。


 魔王の興味があったのは、ただ一人の獣族の少女だけだったから。


 そしてその犠牲者の中には、誕生したばかりの勇者、カイル・ブラックウッドも含まれていた。


 誰にも看取られず、恐怖と絶望の中で、自分の小ささを理解することすらできぬまま。


 ――”己が力に溺れ、謙遜と勇気を忘れた愚かな勇者”。

 後世の歴史書は、そう彼を記した。


 これにて、この歴史のカイル・ブラックウッドの物語は幕を下ろす。


 ただ静かに、誰にも惜しまれずに。

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