550話 動機
カリーナの宣告を受けた瞬間――ルーナの肩が震えた。
それは怒りか、恐怖か、あるいは絶望か判別できない震え。
だが次の瞬間、彼女の口から迸ったのは、悲鳴にも似た叫びだった。
「なぜ……! なぜ理解しないの!?」
声が割れ、焦げた地面に爪を立てる。
「争いのない世界を創るには、腐りきったこの世界を一度壊すしかない!
既得権益にしがみついた人族を――根こそぎ滅ぼすしかないの!!」
瞳が血走り、狂気の光が宿る。
「それなのに、なぜ邪魔をする!?
何も知らないくせに! 世界の淀みも痛みも知らない子供たちが!」
ルーナは地を殴りつけ、声を荒げた。
「世界を守る? 人族を滅ぼさせない?
滑稽だよ……それはただの人族のエゴだ!」
その言葉には憎悪ではなく――どこか哀願にも似た必死さが滲んでいた。
「結局のところ、君たちは死にたくないから抗っているだけ!
自分たちの存在を守りたいだけ!
醜く、見苦しく、足掻いているだけなのよ!!」
静まり返る空気。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
その沈黙を破ったのは、ルミエラだった。
彼女は唇に指を当て、小首をかしげながらぼそりと呟く。
「……あれ? それだとおかしいな」
ルーナが睨み上げる。
「この戦いが“人族のエゴ”ってんならさ」
ルミエラは肩をすくめ、にやりと笑った。
「なんでアンタと戦ってる側に――獣族も混ざってんのよ?」
その瞬間、ルーナの顔が歪んだ。
喉の奥で何かがひきつれる音がした。
そして、堪えきれずに叫ぶ。
「もしかして――その子たちのことを言っているの!?」
ルーナは震える指でライガたちを指さした。
「笑わせないで!!」
怒気に満ちた声が響く。
「あんな年端もいかない子供が世界の淀みに気付けるはずがない!
何も知らないくせに、理解したふりをする!
それが子供というものなの!!」
ルーナの視線がライガたちを刺し貫く。
嘲り、蔑み、否定する目。
「友情だとか仲間だとか……!
そんな弱く崩れやすい幻想に踊らされて戦っているだけ!!
世界の理も歴史も知らない、愚かな子供が!!」
声は震えていた。
怒りではない。
――恐怖だ。
自分の理想が否定されることへの。
自分が信じ続けた答えが揺らぐことへの。
ルーナが吐き捨てるように叫んだその瞬間――。
土煙の影に潜んでいた一つの気配が、静かに姿を現した。
「……それは違います、ルーナさん」
煙の揺らめきの向こうから歩み出たのはフェンリだった。
灰色の毛並みは焦げ、呼吸も荒い。それでもその瞳だけは澄んでいた。
ルーナが驚愕に目を見開く。
「フェンリ君……」
フェンリは弱々しく微笑んだ。
そして、ルーナの先ほどの叫びに静かに応える。
「世界の淀みを知らない僕たち子供だからこそ……」
フェンリの声は震えていなかった。
まっすぐで、透き通っていた。
「純粋に人族と接することができたんだと思います」
ルーナが僅かに眉を動かす。
「大人たちは、僕たち獣族を奇怪なものとして見ます。
恐れたり、避けたり、利用したり……」
フェンリは俯かず続けた。
「でも――カイルは違った」
視線が俺へ向く。
「人族の子供であるカイルは、僕たちに気さくに話しかけてくれた。
怖がらず、偏見もなく、ただ一人の友達として」
その言葉にルーナの瞳がわずかに揺れた。
「僕は”それだけでいい”と思います」
フェンリは小さく微笑んだ。
どこか誇らしげに、そして優しく。
「そういう人族が居てくれる……その事実があるだけで、僕は嬉しいんです」
ルーナの表情から血の気が引いた。
理解できない。認められない。そんな顔。
フェンリはそこで言葉を切り、ふとルーナを見据えた。
「ルーナさん」
その声は先ほどよりも低く、真剣だった。
「……あなたは何故、そんなにも人族を滅ぼそうとしているんですか?」
ルーナは即座に噛みつくように答えた。
「さっきも言っただろう!? 世界の平和のためだよ!
争いや差別のない世界を創る! そのために獣族以外の種族を絶滅させ――」
しかし、その先は言わせなかった。
「そうじゃありません」
フェンリが遮る。
いつもの柔らかい声ではない。刃のように鋭い声だった。
「あなたがそう思うようになった――キッカケを聞いているんです」
その瞬間、ルーナの表情が固まった。
喉が詰まったように声が出ない。
息が乱れ、肩が震える。
まるで胸の奥を突かれたかのように。
フェンリは一歩踏み出した。
「誰かに傷つけられたんじゃないんですか?
奪われたんじゃないんですか?
大切なものを――人族に」
ルーナの瞳が大きく見開かれた。
まるで心の奥深くに隠していた何かを、突然引きずり出されたかのように。
唇が震え、声にならない息が漏れる。
「やめ……」
その声は、これまでで一番弱々しかった。
ルーナの身体がびくりと跳ねた。
次の瞬間――
「っあ、あああああ……!」
彼女は頭を抱え、地面に崩れ落ち、灰色の石畳の上をのたうち回り始めた。
喉の奥から搾り出される悲鳴は、痛みというよりも、もっと深い何か……心の底に突き刺さるような苦鳴だった。
その表情は苦悶に歪み、まるで記憶の底で封じられていた何かが強制的に引きずり出されているようだった。
ルーナの肩が震え、歯を噛み締め、指が血が滲むほど頭皮を掴む。
フェンリは迷わなかった。
一歩踏み込み、揺れるルーナに向かって声を投げつける。
「あなたの過去に一体何があったんですか!」
その声音は、震えていた。
怒りでも恐怖でもない。
理解したいと願う必死さが滲んでいる。
「あなたの”動機”はただ世界平和を願っているだけのものじゃない……それは僕にだって分かります!」
フェンリの瞳が揺れる。
「だって、あなたのその瞳には――あまりにも悲しみに満ち溢れていた!」
最後の言葉は叫びとなり、空気を震わせた。
ルーナはその声に反応するように顔を上げた。
その瞳は――先ほどまで様々な加護を操り、世界を凍りつかせるほどの冷酷さを宿していた目とはまったく違って見えた。
光が一切なく、深い深い闇だけが広がる漆黒の瞳。
そこには怒りも憎しみもなく、ただ底なしの虚無と痛みだけが渦巻いていた。
ルーナはフェンリを睨むように見据えたかと思うと、再び身体を折り曲げ、苦しげに身をよじらせた。
「教えてください! あなたに何が起きたのか――!」
フェンリの叫びは祈りにも似ていた。
誰も息を飲むことすら忘れ、ただルーナの口から零れる言葉を待つ。
そして――。
ルーナは震える唇をわずかに開き、かすれ、掠れ、今にも消えてしまいそうな声で呟いた。
「お……かあ……さん……」
その瞬間――。
俺たちは全員、息を呑み、目を見開いた。
恐怖と脅威の象徴だったルーナが、世界を焼き尽くそうとしている彼女が今、一瞬だけ……ただ、母を求めるひとりのか弱い少女に見えた。
胸が締めつけられる。
ルーナの過去に、この戦いを終わらせる鍵があるのかもしれない。
そう、誰もが直感した。




