542話 望む世界
ルーナの紫光の刃が、アルベリオの首筋にぴたりと押し当てられた。
肌に触れた瞬間、血の一筋が温かく流れ落ちる。
――動けば死ぬ。
その確信が、鋭い痛みよりも先に脳を貫いた。
ルーナは笑っていないはずなのに、笑っているように見えた。
その無表情の奥から滲む“殺す気”が、アルベリオの筋肉を硬直させる。
周囲で見守る七英雄たちでさえ――あの七英雄でさえ、誰一人として飛び込めなかった。
彼らは力を封じられ、ただ立ち尽くすしかない。
息が触れあう距離で、アルベリオは低く唸るように言った。
「……今まで力を隠して……こんなにも強いなんて、実力を偽っていたのか……」
ルーナがほんの一瞬、眉尻を下げた。
その表情は“困惑”にも見えた。
「違うよ、アルベリオ・セリオン。私は……戦うのが好きじゃないだけ。
ただそれだけだよ」
押し当てられた刃が、さらに深く刺さり皮膚が裂ける。
「それに――」
ルーナは横目で七英雄たちを見やる。
「今あそこで呆けた顔をしている七英雄のみんなも、本来なら私よりずっと強い。
ただ“制約”のせいで、本来の力を発揮できていないだけなんだよ」
アルベリオの喉に触れる刃が、じわりと引かれるように動いた。
さらに血が垂れ落ちる。
だが、ルーナの口元にはゆらりとした笑みがあった。
「私が君たちより強いのは……そうだね。
“偶然”ってことにしておこうか?」
「偶然……?」
「うん。七英雄が弱体化していたのも偶然。
アルベリオ、君の加護がすべて私に奪われたのも偶然。
ただの偶然の積み重ねだよ」
その声音は愉快さを纏っているのに――目は笑っていない。
底が見えない無感情の光が揺らめく。
そしてルーナは、ふっと視線を逸らして囁くように言った。
「……始まりは――“彼”との出会いからだった」
「……一体何の話だ?」
アルベリオの問いに、ルーナは不満げに目を細めた。
「話の腰を折らないでよ。
折角、私の素晴らしい計画の一部を話してあげようと思ったのに」
そう言うと、彼女は刃を押し付けたまま無機質な声で語り出した。
「最初、私は彼をただの死体だと思ったんだ。
だって、”脳だけ”が残されて、数えきれないほどの管に繋がれてて……本当に悲惨な姿だった」
ルーナはゆっくり目を閉じ、記憶を辿るように続ける。
「だけどね、彼は話したんだよ。
彼の夢を……理想の世界を。
差別も争いもない、優しい人たちだけの世界を」
その声音は、一瞬だけ少女のように柔らかかった。
「私は思ったよ。
――“この人はなんて優しいんだろう”って」
アルベリオは無意識に周囲を見渡す。
七英雄は誰も動けない。
ルーナに話させるしかないのだ。
「だから私は、彼を手伝うことにした」
「……何を、だ?」
「世界平和のためにやるべきことを、だよ」
ルーナの瞳が愉悦に濡れる。
「彼は私に、色んな“敵”を教えてくれた。
あの国がどうとか、あの一族が問題だとか、粛清すべき対象だとか……」
「……!」
「でも彼は“昔の人間”でねぇ……」
ルーナは肩をすくめ、ふふっと笑った。
「彼が危険視していた国も一族も、今は全部滅んでいたんだよ。
数千年の間にね。
彼が眠ってる間に、全部いなくなってたの」
その語り口は楽しそうなのに、どこか寂しさが滲んでいた。
「――それが悲しかった」
静かに、しかし確かに吐き出された言葉だった。
「でもね。
調べていくうちに、もっと悲しいことに気づいたんだ」
ルーナは首を傾け、微笑む。
「彼が“悪”と呼んで排除しようとしていた行い――。
今では全部“普通”になってた」
その表情は、慈愛にも絶望にも似ていた。
「戦争。迫害。差別。暗殺。搾取。汚職。
それらは今や当たり前。
むしろ“良いこと”とさえされてる」
アルベリオの背筋に、冷たいものが走る。
「そしてね?」
ルーナは刃をさらに押し込みながら囁いた。
「そのほとんどを行っていたのが――“人族”だったんだよ」
その瞬間、空気が凍りついた。
「だから私は彼の指示を少し無視した。
――まずは、他の種族を調べたの」
ルーナは指を一本、ゆらりと動かす。
「純獣族、亜人、混血、希少種……。
あらゆる種族の文明や文化、”心の在り方”を見て回った結果ね――」
ゆっくりと、狂気を帯びた笑みを浮かべた。
「獣族以外、全部人族と同じだった」
アルベリオの呼吸が止まる。
「欲、怒り、憎しみ、争い。
形は違えど、根は全部人族と一緒。
――面白いと思わない?」
ルーナは自嘲するように笑い、吐息のような声で続けた。
「やっぱり人族の血が混じるとダメなのかなぁ?
本当に面白いくらい“常識”が壊れてるんだよ」
紫刃が喉に食い込む。
この女は――世界そのものを観察した上で、”人族という存在の欠陥”を語っている。
ただの狂気ではない。
観察者としての冷徹。
そして、どこか本気で“世界を救いたい”と信じている眼差しだった。
ルーナは微笑んだ。
それは優しさにも見えるのに、底に沈むものは冷たい狂気そのものだった。
「……そして、私が最後に辿り着いた結論はね――」
薄く開いたルーナの口元から放たれた言葉は、静かに、淡々としているのに、アルベリオの背筋へ氷刃のように突き刺さった。
「獣族以外の全種族を、一度“絶滅”させること。
そして、獣族だけの世界を創り上げること。
――それこそが、世界をもう争わせない唯一の方法だと気づいたんだ」
淡々と告げる声が、今この場でいちばん恐ろしい。
七英雄ですら息を呑み、誰ひとり言葉を挟めなかった。
ルーナは指先で刃をなぞりながら続けた。
「もちろん、全部殺す必要はないよ?
科学者、ゼロ・アークライトの力を借りて、他種族を“獣族に変える薬”を作ったんだ。
痛くしないように、催眠魔法も薬品に焼き付けておいたよ。
飲んだ瞬間、心の奥で“眠る”ようにね」
アルベリオの顔色が変わる。
「まさか……各国の水源に――」
「正解! 川や井戸の水に混ぜた。
あとはその国の人たちが勝手に飲んでくれたから、すっごく簡単だったよ」
ルーナは小さく舌を出し、まるで悪戯の成功を自慢する少女のように笑った。
「時が来れば、催眠が発動し、薬品が身体を書き換え、彼らは皆、獣族になる予定だった。
世界は“清らかで、穏やかで、均一なもの”に変わるはずだった。
ビスマー様の夢を、もっと素敵な形で叶えるつもりだったんだけどね」
だが――その声に影が落ちた。
「……でも全部、君たちが壊した。
私は新人類を“兵器”にするしかなくなった。
本当に、君たちは厄介だよね」
その瞬間、ルーナの瞳から温度が完全に消えた。
刃の切っ先が、アルベリオの首筋へぐっと押し付けられる。
――皮膚が裂け、温い血が流れる。
「さぁ。この無意味な争い、早く終わらせよっか――アルベリオ・セリオン」
ルーナが刃に力を籠めた、その瞬間だった。
乾いた音が響いた。
アルベリオの足元に落ちていた一つの石が、跳ね上がり、
ルーナの刃を持つ手の甲を正確に打ち据える。
ルーナの細い指が一瞬だけ緩んだ。
「……っ!」
「――今だ!」
アルベリオの身体が、はじけた。
掴まれていた首をひねり、肩を落とし、刃の線から外れる。
動きの全てを最小限に抑えた、訓練の極地のような身のこなし。
首筋にあった刃が、空を切った。
空間をねじ曲げ、刃を戻そうとするルーナの前で、
アルベリオは低く、深く、構えた。
逃れた者の動きではない。
反撃の姿勢だった。
拘束を解かれたアルベリオが荒い息を整えながら立ち上がる。
彼の視線は、なおも静かにこちらへ刃を向けてくるルーナを真正面から射抜いていた。
「……ひとつ、聞かせてくれ」
その声は怒りでも、悲嘆でもない。
ただ、戦士として、世界を守ろうとする者としての純粋な問いだった。
「獣族だけの世界を作る。それが“世界平和”に繋がると言うなら──その根拠は、どこにある?」
沈黙が落ちる。
数秒の間を置いて、ルーナの唇がゆっくりと開いた。
「獣族の“心の在り方”だよ」
その声音には確かな信念が宿っていた。
「彼らは歴史の中で、何度も差別され、搾取され、迫害されてきた。
この世界に存在するどの種族よりも“悪意”を身近に感じてきた、最も弱い主体……だからこそ、最も優しい。
だからこそ、平和を願う心を誰よりも強く持っている。
過去に学び、争いを避け、共に生きる未来を築けるのは獣族だけ。
私はそう判断した」
ルーナは胸元を押さえ、自分の内側から溢れる確信をそのまま言葉にしていく。
「だから他種族を消し、新しい世界を創る。それで終わりなの。
争いの種を、根元から抜き取ればいい」
アルベリオの表情に、深い怒りが静かに立ち昇る。
「……違う」
短く、しかし揺るぎなく。
「人族にも、獣族にも……“悪い奴”もいれば“良い奴”もいる。
どの種族にも、殺すべき人間なんていないし、救うべき命が必ずある。
その判断を──君一人の主観でねじ曲げられてたまるか」
その一言一言が、ルーナの胸を鋭く突き刺した。
ルーナの眉が静かに寄り、まるで失望するように目を伏せる。
「……やっぱり、君とは一生理解し合えないようだね」
刹那、空気が変わる。
ルーナの周囲の空間がわずかに歪み、風景が揺らめき、彼女の背後にいくつもの“矛盾した影”が生成される。
奪った加護と、元から持っていた加護が同時に輝きを帯び、空気の粒子すら軋み出した。
「いいよ。なら──力で終わらせるしかないね、アルベリオ・セリオン」
細い指が虚空を掴むと、そこから闇と光の刃が生まれ、周囲の空間を抉る。
アルベリオも再び剣を握り直し、魔力を刃先へ集中させた。
視線はぶれない。
彼の背にあるのは大地、世界、そして守るべき仲間の存在。
世界の理を二つに割るような、張り詰めた空気の中──。
二人は一歩、互いへ踏み出す。
「来い、ルーナ──!」
「壊すよ、“君の望む世界”ごと……!」
空間が破裂し、二つの影がぶつかった。




