540話 恐怖の克服
地面が焦げ、空気が震える。
レオンは、ただ静かに――だが底の見えない怒りを胸に燃やしていた。
(ロガンの腕が……俺のせいで……)
光が微かに脈打つ。
呼吸が一点に絞られ、視界の端のすべてが消え失せる。
そこに残るのは、ビッシュただ一人。
「……許さねぇぞ」
レオンの声は驚くほど低く、静かだった。
だがその静寂の奥で、光速の殺意が爆ぜていた。
――光が跳ねた。
「なっ……!?」
ビッシュは崩界の波を乱射し、後退しながら叫ぶ。
「ロック氏!! あの男を粉々にしなさいッ!!」
しかし。
ロックは――動かなかった。
ビッシュの指示を受けても、巨人の腕はただ垂れ下がり、地面を抉るだけ。
「ロック氏!? 何をしてるんですか!!」
ビッシュが振り返り怒鳴る。
だがロックは返事すらしない。
その巨体は、ただ一人の男――倒れ伏すロガンを見つめていた。
レオンは目を細める。
(……なんで動かねぇ? チャンスだが……妙だな)
疑念がよぎるが、今は迷っている暇はない。
レオンは一瞬だけ地を蹴り――次の瞬間にはビッシュの眼前にいた。
「ぐ……っ!?」
ビッシュは咄嗟に“崩界の境”へと身を滑らせる。
掌が空間を切り裂き、黒い裂け目がレオンとの間に生まれる。
レオンの光速の斬撃はその境を割り裂くが、ビッシュはさらに深い層へ逃げ込むように歪みに身体を押し込み、紙一重で躱し続けた。
「はっ……はっ……!
く、狂いましたか!? あなた!!
そんなスピード、常人が扱えるものじゃ……!」
「黙れ」
レオンの声は凍てついていた。
「お前の声聞くだけで胸糞悪い」
地面に光の軌跡が焼き付く。
ビッシュは冷や汗を滲ませながら、必死に崩界の波を分裂させる。
だが――。
(……このままじゃ埒があかない……!
どこかで……どこかで一撃入れさえすれば……!!)
焦りが、ビッシュの呼吸を荒らす。
その様子を見つめながら、ロックはただ黙っていた。
巨大な影。
揺れる瞳。
その視線の先には――ロガン。
片腕を失い、血だまりに倒れ込む”巨人族”。
ロックの喉が、かすかに震えた。
(……まただ。
また“オレたち”は……こうして倒れていくのか……)
崩界の一族。
ビッシュの家系は、かつて巨人族を絶滅寸前まで追い込んだ最悪の存在。
ロックのかつての友も、仲間も、皆その手に殺された。
にもかかわらず――彼は今、ビッシュの仲間として戦っていた。
理由はただ一つ。
恐怖。
ロックがまだ幼かった頃、村を消したのは”崩界の加護”だった。
逃げ惑う巨人たち。
触れた瞬間に腕や脚を失い、悲鳴を残して消えていった仲間。
ビッシュと同じ“色の波”だった。
(……逆らえば……殺される……
あの波に勝てる巨人なんて……いなかった……)
膝が震える。
拳が強張る。
ロックはずっと、ビッシュの“奴隷”だった。
「ロック氏!! 早くッ!!」
ビッシュの怒声が響くが――ロックは動かない。
ただ、ロガンが血を流す姿が脳裏に刺さる。
(……また、オレは……何もできず見ているだけ、なのか……?)
その問いが、ロックの巨大な胸の奥で、地鳴りのように響き始めた。
一方、レオンはビッシュを追い続ける。
光速の斬撃が空間を裂き、ビッシュの躱し方はますます荒くなっていく。
「逃がすと思うなよ……!」
静かな怒りが、ついに“殺意”の形を為し始めていた。
地面に血が広がる。
その中心で――ロガンは、まだ動こうとしていた。
左腕を失い、右腕も砕けかけている。
肺は潰れ、呼吸は濁った泡の音しか出ていない。
それでも、彼は這った。
足を引きずり、腹を擦り、地面に顔を伏せながら――。
それでも、レオンのもとへ向かって前へ進んだ。
(……やめろ……もう動くな……)
ロックの巨体が震える。
レオンとビッシュが光と闇を撒き散らしながら激突している。
そのすぐそばへ、ロガンは這って向かっているのだ。
「な……なぜだ……」
ロックは思わず声を漏らした。
その声は巨体に似合わず、掠れ、怯えていた。
「なぜ……行ける……?
奴が……ビッシュが怖くないのか……?」
ロックは喉を鳴らすように続ける。
「奴は……オレたち巨人族を滅ぼしかけた崩界の一族の……末裔だぞ……!
あの手が……あの波が……どれだけの巨人を……!」
言葉を吐き出すたび、ロックの目は恐怖で揺れる。
だがロガンは――振り返らなかった。
答える余裕なんてあるはずもない。
彼の視界はもうほとんど白く濁り、意識も朧げだ。
だがロックには見えた。
ロガンが歯を食いしばって地を掴む指先。
痛みで震えながらも、前へ進む脚。
光を追うように、ただレオンの背中だけを見ているその姿。
(……怖いに決まっている。
苦しいに決まっている。
死ぬかもしれないのに……)
ロックの胸がずきりと痛んだ。
(なのに……なぜだ……。
なぜ……その先へ行ける……?)
ロガンの答えは――沈黙だった。
だが、その沈黙がロックに全てを語っていた。
――恐怖よりも、守りたいものがあるから。
――殺されても、仲間を置いて逃げるよりはマシだと、そう思っているから。
ロックは震える唇で、ひとり呟いた。
「……そうか……
お前は……“恐怖”より大きなものを……持ってるんだな……」
その瞬間、ロガンがよろめきながらも立ち上がろうとした。
両足が折れてもなお、背を伸ばそうとするその姿は――ロックの胸に、忘れていた何かを叩きつけた。
(……これが……オレが”求めるもの”……なのか……?)
ロックは気づいた。
自分はずっと逃げていた。
崩界の一族の恐怖に縛られ、ビッシュの言いなりになり、仲間を守る力がありながら何もせず……。
ただ、死ぬ順番を先延ばしにしていただけだったと。
目の前の、人族の男ですら――。
命を懸けて誰かを守ろうとしているというのに。
ロックの巨腕が、かすかに震え始める。
その震えは、恐怖ではなく――胸の奥で燃えはじめた、別の感情だった。
ロガンの命は、いまにも消えそうな蝋燭の火のように揺れていた。
荒い息は途切れ途切れで、左肩の断面からは血が泥と混じって流れ続けている。
その姿を、ロックはただ黙って見つめていた。
――巨人族でも、ここまで体を張れる者がいたのか。
胸の奥深くで、何かが静かに震えた。
ロガンは立ち上がろうとしていた。
骨も砕け、片腕を失ってなお、地面を爪でかき、泥を掴み、歯を食いしばって。
「……お前は……奴が……怖くないのか……?」
ロックは、知らず震える声で問いかけていた。
“奴”――ビッシュ。
巨人族を絶滅寸前まで追いやった、崩界の一族の末裔。
ロガンは答えなかった。
答える余裕など、もうどこにも残っていなかった。
しかしロックは、その沈黙の中に”答え”を見た。
――怖いに決まっている。
――それでも進む。
――誰かを救うために。
ロガンの指が、ロックの足首を掴んだ。
もう力はこもらず、ただ触れただけのような弱い掴みだった。
ロックはそっと足を振りほどいた。
そして、その一瞬だけ――敵であるはずのロガンに、敬意を込めて微笑んだ。
自分に欠けていたものが何か、いまははっきりとわかる。
「……勇気、か……」
恐怖を克服する勇気。
それだけの話だったのだ。
ロックはレオンとビッシュの方へ歩き出した。
歩を進めるたびに、大地が震える。
そして、体内の魔力をすべて解き放つように、雄叫びを上げた。
「オオオォォォォォ――!!」
瞬間、ロックの体が膨張を始めた。
皮膚が軋み、筋肉が裂け、血が霧のように散る。
否――それは膨張ではなく、”巨人族本来の姿への回帰”。
全身の巨大化。
本来あり得ない。
腕と脚だけしか巨大化できないはずが、全身を巨大化できてしまう条件は、ひとつ。
それは――自らの命を代価にすること。
心臓は巨体に耐えられず、時間の問題で破裂する。
一度使えば死に至る禁忌の力。
ロックはその力を迷いなく解放した。
巨人族の仇を討つため。
そして、恐怖に支配され続けた己の魂を解き放つため。
世界の平和のために。
己の命を賭けて――。
レオンは、背後から訪れた影に気づくと、全身を強張らせた。
「まじかよ……」
振り返れば、そこにいたのは山――いや、山よりも大きく変貌したロック。
その皮膚の亀裂からは蒸気と血が吹き、視線はすでに覚悟を宿した戦士のそれだった。
一方のビッシュは狂ったように笑い、レオンに叫ぶ。
「ハハッ!! もうあなたはおしまいですよ!! ハハハハッ!!」
だが――次の瞬間だった。
ぬるりと伸びた巨大な影。
ロックの腕が、レオンではなく ビッシュ を掴み上げた。
「は?」
ビッシュの声は情けないほど素っ頓狂だった。
「ロック氏? 何をしているのです?」
答えはない。
かわりに、握る手の力だけが語った。
「ぐ……ッ!? ま、待て……! なにを考えて――」
そして。
ロックの握り締めた手の中で、ビッシュの下半身が“ひらぺったい肉片”へと変わった。
「ぎぃぃああああああああ!!!!」
ビッシュは絶叫し、血と胃液を撒き散らした。
「ロックゥゥウウウウウ!!!!
何をしている!!
私にこんなこと……お前も消去されたいのかァァアア!!?」
崩界の指がロックの手に触れる。
瞬間――ロックの指がひとつ、跡形もなく消えた。
だが、ロックは眉一つ動かさない。
「今さら……こんなもの、怖いと思わん。
オレは……もうじき死ぬからな」
その言葉に、ビッシュの顔が蒼白になる。
崩界の末裔。死を恐れぬ相手など、今まで一度も見たことがなかった。
「ロ……ロック!!
分かった、わかった!!
崩界の力は封じます!!
あなたに怖い思いはさせません!!
だから手を離してください!!」
ロックの瞳は動かない。
「な、ならゼロ氏の技術で巨人族を作ります!!
あなたたちを滅ぼすどころか、何倍にも増やします!!
どうか、どうか――」
懇願。
命乞い。
しかし、そのすべてはロックの胸には届かない。
ロックは静かに告げた。
「……何を言おうと無駄だ。
お前がしてきた罪を数えればな」
ビッシュの頬が引きつる。
そして、ロックは続けた。
「それに……これはオレの個人的な恨みだ。
巨人族の敵は――オレが討つ」
握力がさらに増し、骨の砕ける音が響く。
「ぎゃあああああ!!
やめろ!! やめろロックッッ!!
こんな死に方いやだ!!
助け――」
最後の悲鳴は、握り潰される音にかき消された。
ビッシュの上半身は地に落ち、肉片は泥と血に溶けた。
レオンは呆然と呟いた。
「……何が起きてんだ?」
仲間割れでも裏切りでもない。
もっと深く、重く、痛い何かが起きたのだ。
ロックはその巨体を支えられなくなり、ゆっくり膝をついた。
「……ハァ……ハァ……」
世界が静まり返る。
巨大化の代償――心臓の負荷が限界に達した証だ。
ロックは最後の力で、倒れたままのロガンを探した。
そして、大きく右手を伸ばし、彼のそばにそっと落とすように手を置いた。
ロックの声は、遠く掠れた。
「……ロガン……」
ロガンがかすかに顔を上げる。
「お前が……勇気を……思い出させてくれた……
恐怖を……克服する心を……」
ロックはゆっくりと笑った。
大きな体では考えられないほど、柔らかく優しい笑みだった。
「ありがとな……
お前が……オレに……力を……くれた」
ロガンの目に涙が浮かぶ。
片腕で地面を支え、必死にロックへ手を伸ばす。
「……ロック……」
ロックの視界が揺れ、霞んでいく。
最後に、絞り出すように言った。
「巨人族の……誇りを……忘れるな……。
勇気を……持ち続けろ……」
ごうん、と大きな鼓動が一つ。
そして――止まった。
ロックの巨体が、ゆっくりと前のめりに倒れ、地震のような振動が大地を揺らした。
彼の顔は、安らぎすら感じられるほど穏やかだった。
巨人族の戦士、ロック。
恐怖を克服し、最後に誇りを取り戻し――その命を終えた




