538話 光速の加護
轟音が響き、地面が裂けた。
焦げた岩の破片が宙を舞い、熱風が吹き荒れる。
レオンは瓦礫を蹴り飛ばしながら、剣を構えた。
その眼前――黒い靄のような加護をまとった男、ビッシュ・エレメトがゆらりと立っていた。
崩界の加護――それは”捉えたもの”を存在ごと消し去る力。
ビッシュが手のひらに収めたものは、物質も魔力も魂さえも跡形もなく消滅する。
しかも、今のビッシュの加護は掌から波紋のように拡散し、空間ごと飲み込む性質を帯びていた。
レオンは息を荒げながら、右太ももに視線を落とす。
そこには、肉も血もなく、削り取られたような空白がぽっかりと開いていた。
痛みはもうない。ただ、そこに“何もない”という寒気が残るだけだった。
「……これ以上は食らえねぇな……!」
ビッシュが静かに笑う。
「逃げても無駄ですよ、白雷の勇者。あなたの速さなど、この手の一振りで終わる」
その瞬間、男の掌がわずかに動く。
空間が歪み、黒い波が地面を這うように迫った。
「――チィッ!」
レオンは地を蹴った。閃光のように、身体が消える。
波の縁をかすめながら滑り込むように横へ飛び、距離を取った。
だが、足元の岩が波に飲まれ、次の瞬間――消滅。
まるでそこには初めから何もなかったかのように。
(……完全に“消して”やがる……!)
息を荒げながら、レオンは頭を回転させた。
崩界の波、その発生源、広がる速度、消去の範囲――。
ビッシュの動きは小さい。掌を開き、閉じる。それだけで、周囲が崩れる。
(奴の発動の起点は、“手のひら”だ)
一瞬、ビッシュの腕が動く。レオンは直感で後退。
だが、遅れた。
左腕の袖が波に触れ、瞬く間に消失する。
「くっ……!」
ビッシュは楽しげに微笑む。
「避けるだけでは勝てませんよ。あなたの刃など、私には届きません」
レオンは睨みつけた。
「……ああ、届かねぇ。”今のまま”じゃな」
彼の瞳に、閃光のような思考が走る。
(“消す”――それは捉えたものを存在ごと奪う力。だが、逆に言えば、捉えるまでは“存在を認識している”ってことだ)
崩界の加護は、対象を捕捉しなければ成立しない。
ならば――“捕捉されない速度”で動くか、“存在を偽る”しかない。
(……久しぶりにやるか、”アレ”を)
レオンは深く息を吸い、地面を蹴った。
次の瞬間、残光が数条、放射状に広がる。
まるで何十人ものレオンが同時に走っているように見えた。
「無駄ですよ!」
ビッシュが掌を広げ、崩界の波を放つ。
空間が黒く波打ち、残光を片端から飲み込んでいく。
しかし――その最後の一閃、波の外。
風が鳴り、音が裂けた。
「なっ――!?」
背後。
ビッシュの首筋に、冷たい刃の感触が走った。
レオンが低く呟く。
「お前、見えてねぇだろ。”崩界の波”が広がるより、俺の方が早い」
風が止まる。
ビッシュは目を見開き、掌を見た。
そこには崩界の波の残滓がわずかに揺らめいている――が、もう遅い。
レオンは剣を握る手に力を込め、低く息を吐いた。
「“消せない速さ”ってのも、世の中にはあるんだよ」
次の瞬間、閃光が弾けた。
ビッシュの身体が後方へ吹き飛び、崩界の波が一瞬にして霧散する。
レオンは膝をつき、荒く息を吐いた。
右太ももの“空白”が脈打つように痛む。
だが、その痛みを噛み締めながら、彼は静かに笑った。
「……見えたぜ。お前の加護の“穴”がよ」
祠の外、風が再び流れ込む。
崩界の気配が薄れ、遠くで光が瞬いた。
――戦いは、まだ終わっていない。
風が、爆ぜた。
レオンの姿が弾丸のように地を蹴り、閃光が走る。
足が地面に触れるたびに、岩が砕け、砂煙が舞い上がる。
視界の端で、光が幾条にも分かれ、まるで無数の雷が乱れ走るようだった。
「ッ……! 速い……!」
ビッシュが思わず息を呑む。
レオンは歯を食いしばり、全身の筋肉を限界まで酷使していた。
視界が滲み、心臓の鼓動が頭蓋を叩く。
(もう少し……もう少しだけ上げろ! 限界はまだ先だッ!!)
光がさらに膨れ上がり、空間が歪む。
刹那――レオンの姿が、複数に分かれた。
前方、背後、斜め上、横、足元――。
無数のレオンがビッシュを取り囲む。
残像がまるで命を宿したように動き、すべてが剣を構えていた。
「どれが”俺”か分かんねえだろ?」
どこからか、レオンの声が木霊する。
低く、挑発的に。
ビッシュは息を詰め、目を左右に走らせる。
掌に黒い靄が集まり、崩界の波がうねる。
だが、どれが本体か判別できない。
右を向けば左に、左を見れば背後に――光が走る。
「クッ……どこだ……どこにいる!?」
焦りを押し殺し、ビッシュは両掌を広げた。
空間全体に圧がかかる。
黒い靄が渦を巻き、波打つように広がっていく。
ドンッ、と空気が弾けた。
その瞬間、ビッシュを中心に波紋のような闇が走り、残像のひとつが呑み込まれた。
そして、またひとつ。
またひとつ。
レオンの姿が次々と、空間ごと消滅していく。
まるで光そのものが、この世から“抹消”されるように。
「な……ッ!?」
どこかでレオンの声が掠れた。
ビッシュは掌を見つめる。
その表面には、これまでよりも濃密な黒の紋様が浮かび上がっている。
それは、崩界の波の“分裂”。
一つの波が、数百にも枝分かれして四方に散り、空間そのものを削り取っていた。
「……追い詰められて、私の加護がさらに進化したようですね……ッ!!」
ビッシュは自嘲気味に笑い、冷や汗を一筋垂らした。
目の前では、光が次々と掻き消えていく。
残像が全滅し、静寂が訪れる。
「これで――終わりです」
彼の掌にさらなる靄が集まる。
黒い闇が蠢き、空気が重く淀む。
だが――その瞬間、風が鳴いた。
音のない風。
その刹那、ビッシュの背筋に、得体の知れない悪寒が走る。
どこかで、剣の音がした。
風を切り裂く、かすかな響き。
「……まだだ」
かすれた声。
ビッシュが振り向いたとき、闇の向こうに光が瞬いた。
――レオンの瞳だった。
「俺の速さはこんなもんじゃねぇぞ?」
ビッシュの口角が引き攣る。
次の瞬間、再び閃光が走った。
黒と白の衝突――崩界と閃光。
その中心で、世界がひときわ強く鳴動した。
大気が震えていた。
空気が裂け、光が閃き、空間そのものが悲鳴を上げている。
崩界の波――すべてを“無”に還す力が、ビッシュの掌から幾重にも放たれ、世界を蝕んでいた。
それはもはや攻撃というより、存在そのものの崩壊。
触れたものを消すという単純な現象が、今や空気そのものを喰い、地を砕き、空を引き裂いていた。
「戯言を……終わりです、レオン・アルヴェリス!」
ビッシュの叫びと同時に、無数の黒い波が奔る。
それは空間を切り裂く音すら奪い、ただ“静寂の絶望”を残した。
――だが。
その静寂の中で、一瞬だけチリッと、火花のような音が鳴った。
「……ッ!?」
ビッシュの眉が跳ねる。
目の前に――確かに、“光”があった。
消滅の波に呑まれたはずの空間の中心で、
まるで雷が瞬くように光が蠢いている。
いや、違う。
それは“雷”ではなかった。
それは、“光”そのものだった。
「……なんですか……これは……」
ビッシュの目が大きく見開かれる。
光の中から、ゆっくりと人影が歩み出る。
焦げた外套の端をひるがえし、煙を纏う――白雷の勇者。
その瞳には、かつての雷光をも超える、白の輝きが宿っていた。
「……やっと攻略できたぜ。お前の“崩界”が」
声は静かに、しかし確かな熱を帯びていた。
「……バカな……あなたのその右脚では……そこまで速さはだせないハズ……」
「関係ねぇ。俺の加護は、“速さ”で全てを断つ」
レオンの体から光が滲み出す。
それは雷ではない。
もはや電の粒子すら視認できない。
彼の周囲の空間が歪み、地面の影が引き延ばされ、その輪郭が“光速”の振動に砕けていく。
――『光速の加護』。
その名が響いた瞬間、空間が爆ぜた。
光の尾が瞬く間に伸び、残像すら置き去りにする。
いや――もはや“残像”などという現象は存在しなかった。
光を越えた速度は、観測そのものを許さない。
ビッシュの視界が、世界が、認識が――遅れる。
「な、なに……!? 動きが……完全に見え――!」
恐怖が喉を震わせた。
その瞬間、レオンの剣が閃く。
「――切れろ」
次の瞬間、世界が白に染まった。
空間を蝕んでいた“崩界の波”が、
一本の光の軌跡によって――真っ二つに裂かれた。
「……あ、ありえない……!」
ビッシュの口がわなないた。
「崩界の……“力そのもの”を……切るなんて……!」
光の中で、レオンは静かに剣を振り下ろした姿勢のまま、息を吐いた。
肩がわずかに揺れる。
その姿はもはや人の域を超えていた。
「お前の“崩界”が届くより……俺の“光”の方が、速かっただけだ」
白光がゆっくりと消え、崩壊の波が霧散する。
沈黙の中で、焦げた地面に立つレオンの瞳だけが、なおも光を放っていた。




