535話 願う平和と異界の子
焦げた風が吹き抜ける。
砕けた岩の隙間から、まだ燻るように熱を帯びた煙が立ち上っていた。
ロガンは、静かにロックを見下ろしていた。
足を折られ、膝を地につけ、もう立つこともできないはずの男――ロック・デヴァン・ハート。
その巨体はかすかに呼吸していたが、もはや反撃の気配すらない。
「貴様は……何者なんだ」
ロガンは掠れた声で問うた。
「俺と同じ姓を持つということは――」
その続きを、ロックが静かに引き取った。
「――お前の思っている通り……オレたちはおそらく、血縁関係にあるんだろうな」
ロックは地面に肘をつき、崩れ落ちた姿勢のまま、わずかに顔を上げてロガンを見た。
その瞳には、敗者の色はなかった。
むしろ、長い旅路の果てに辿り着いたような、妙な安堵が漂っていた。
「どこで繋がりを得た血なのかは分からんが……」
ロックは淡々と続けた。
「おそらく――人巨戦争を生き延びた、お前の曾祖父母の代……その辺りに、オレの父か、血縁の誰かがいたのだろう」
その言葉が途切れたとき、風の音だけが響いた。
ロガンは黙り込んだ。
戦場の真ん中で、胸の奥が妙に冷たくなっていく。
敵だ――ロックは確かに、敵だ。
世界を獣族だけのものにしようとするビスマーの手下。
きっと、これまで多くの無辜の命を奪ってきた張本人のひとり。
だが、それでも――。
ロガンは気づいてしまった。
この男は、ただの狂信者ではない。
彼もまた、戦争という悲劇に人生を呑まれた“被害者”なのだと。
それを理解してしまった瞬間、ロガンの中の何かが音を立てて軋んだ。
(俺は……何をしている……?)
戦いの最中だというのに、胸の奥に生まれたのは怒りでも闘志でもなかった。
それは――哀れみだった。
無意識のうちに、ロガンはロックを”許せる道”を探していた。
遠い血縁者だからか。
それとも、ロックという存在にどこか惹かれてしまっているからか。
自分でもわからない。
ただ、心が痛んだ。
そのとき――。
「どうした、ロガン?」
低く、掠れた声が地面の方から響いた。
「とどめを刺さないのか?」
ロガンははっとして顔を上げた。
這いつくばったままのロックが、口の端をわずかに吊り上げていた。
「オレを倒してお前の正義を証明するんじゃなかったのか?
お前はここまで来て、敵を殺すことを迷う愚か者なのか?」
煽るような口調。だが、その声はどこか楽しげですらあった。
ロガンは拳を握りしめた。
怒りではなく――焦燥。
自分が何かを見誤っている気がして、息が詰まる。
ロックは、微笑を深めた。
「それとも……まだ”楽しみたい”のか? この戦いを……」
その一言が、ロガンの思考を一瞬で凍らせた。
なぜだ。
なぜ、俺は……この男の言葉に反応してしまう?
ロガンは目を凝らした。
ロックの瞳が、闇の底で静かに輝いている。
それを見た瞬間、全身の毛穴が総立ちになった。
おかしい――。
ロガンは直感した。
なぜ俺は、こんなにも容易く勝てている?
あのロックが……ただ足を折られただけで、終わるはずがない。
(何かが……おかしい……)
次の瞬間、視界の端が揺らいだ。
まるで蜃気楼のように、戦場の景色が歪む。
頭の奥に、鈍い痛みが走った。
耳鳴りが広がり、地鳴りのような鼓動が響く。
ロガンの膝ががくりと折れ――。
視界が、暗転した。
――ロガンは、夢を見ていたのだ。
自分が勝ったという夢を。
正義を貫き、宿敵を打ち倒したという幻想を。
だが、それは――ロックが放った“最後の一撃”の中で見せられた走馬灯だった。
ロガンが目を覚ましたとき、
冷たい石の感触が背にあった。
空は暗く、星も見えない。息をするたびに、喉の奥で血の味がした。
動かない。
両腕は不自然な角度で折れ、指先の感覚はない。
脚は形こそ保っていたが、神経が死んでいるようにまったく動かない。
息を吸おうとしても、胸が焼けるように痛い。
肺が潰れかけている。
目を動かすと――そこにいた。
黒い影。
ロック・デヴァン・ハート。
彼は立っていた。
折れたはずの足を引きずりながらも、確かに立っていた。
その姿は、もはや人のそれではなかった。
巨脚――神の四肢が、完全に発動していた。
ロックの足裏には、赤黒い血がこびりついている。
それが何の血か、ロガンには言葉にするまでもなかった。
「……悪くなかった」
ロックの声が、遠くから響く。
彼は薄く笑いながら、かすかに肩を震わせた。
「”夢の中”でも……お前は最後まで戦っていたな、ロガン・ハート。
巨人族として、誇るべきことだ」
ロガンの瞳が揺れる。
血が喉を塞ぎ、声にならない。
ロックは背を向けた。
そして静かに言った。
「――やはりオレたち巨人族こそが、”神の代行者”だ。
世界を平和に導くのは、単なる力ではない。
“神の四肢”を継ぐオレたちこそが……平和を築く」
その言葉が最後に、闇の中で鈍く響いた。
ロガンの意識は、そこで途切れた。
※※※
――刃が空を裂く音が、七重に重なった。
アルトリーナ・ペンドラゴンは、白銀の剣を振り抜きながら、低く身を沈めた。
直後、七本の剣が彼女の首筋をかすめるように通過する。
風が髪を散らし、金の房が宙を舞った。
「……強ぇガキどもだな」
それが最初の感想だった。
目の前に並ぶのは、まだ十代と見える少年少女たち。
だが、彼らの表情には一切の幼さがなかった。
白く、作り物のような顔。感情の欠片すらない瞳。
まるで“人”という器に何か別のものが入っているかのようだった。
子供たちは全員、白い鎧に身を包み、無音のまま剣を構える。
その鎧は異様に滑らかで、金属というよりも陶磁器のような光沢を放っている。
動くたびに関節がきしむような音がした。
アルトリーナの背筋に、冷たいものが走った。
(七人……全員、同じ動き……)
次の瞬間、七つの白刃が同時に閃いた。
彼女の首、心臓、背中、膝、喉――。
その全てを寸分の狂いもなく狙う太刀筋。
殺意の配置が、まるで設計図のように正確だった。
アルトリーナは一瞬で身体をひねり、回転とともに一人の剣を弾き飛ばす。
金属音が散り、子供の手から剣が離れる。
だが、子供は声を上げなかった。
痛みを訴えることもなく、淡々と手を伸ばし、落ちた剣を拾い上げる。
「……なんなんだ、こいつら……」
息を整えながら、アルトリーナは距離を取った。
戦いの中で、彼女はふと、違和感に気づく。
顔だ。
――全員、同じ顔をしている。
いや、厳密には”似た顔”だ。
だがその均一さは不自然すぎた。
目は細く、切れ長で、少し上向き。
顔の輪郭は丸く、口と顎が小さい。
全体的に平らで、どこか柔らかい印象を与える造形。
まるで同じ“型”から造られたような均質さ。
髪はほとんどが黒。
そして、瞳は珍しい漆黒。
深い闇のようなその黒は、光を一切反射しない。
覗き込めば、吸い込まれるような感覚さえあった。
アルトリーナは眉をひそめた。
「……この顔、どこの国の人間でもねぇな」
彼女は幾多の国を渡り歩いた。
東方の砂の民も、南の剣士の国も知っている。
だが――この特徴を持つ民など、一度たりとも見たことがなかった。
(まるで……”別の世界”の人間みたいじゃねぇか)
アルトリーナは剣を構え直す。
冷気のような緊張が周囲を包み込む。
子供たちは表情ひとつ変えず、まるでプログラムされた存在のように再び一斉に動き出した。
足音もなく、無音の斬撃が彼女を襲う。
火花が散る。
白と銀の刃が交錯し、耳鳴りが起こる。
アルトリーナは一人の剣をいなし、すれ違いざまに蹴り飛ばす。
が、倒れたはずのその子供は、骨が砕ける音を立てながらも再び立ち上がった。
「……嘘だろ」
折れた腕をぶら下げたまま、子供は再び剣を構える。
痛みを、感じていない――。
アルトリーナの胸中に、ぞわりとした恐怖が広がる。
その動き。
その無表情。
そして何より――その「人の形をしていながら、人ではない」気配。
「お前たち……一体、ナニモンなんだ……?」
呟いたその声は、戦場の冷たい風に吸い込まれていった。
その瞬間。
七人の子供たちが、同時に首を傾げた。
――完璧に、同じ角度で。
ぞくり、とアルトリーナの背が凍った。
まるで“ひとつの意志”が、七つの体を動かしているようだった。




