534話 神に代わり……
大地がうねり、巨岩が砕け散る。
ロガンの拳が閃光のようにロックの胸を貫き、鈍い音を響かせた。
「っ……!?」
確かに手応えはあった。皮膚の奥に、肉を抉る感触がある。
だがロックは、痛みを感じていない。
その眼は氷のように静まり返り、口端から一筋の血を流しながらも、眉ひとつ動かさない。
「効いて……ないのか……?」
ロガンが息を荒げ、拳を構え直す。
殴る。殴る。殴る――。
重い衝撃が何度もロックの身体を打ち抜くたび、地面が爆ぜ、砂塵が天を覆った。
しかし、ロックは微動だにせず、ただロガンを見据えていた。
そして――口を開いた。
「先程、“神の四肢”をただの噂だと言ったが……」
その声は、地の底から這い上がるように低く重かった。
ロックの拳が、ゆっくりと持ち上がる。
「だが実際のところ、それは単なる伝承ではない」
拳に魔力が集まり始めた。
紫紺の魔力が螺旋を描いて纏わりつき、やがて烈風を巻き起こす。
魔力の奔流が空気を震わせ、ロガンでさえ息を呑むほどの圧がその場を支配した。
「“魔纏”――人々が言う、身体に魔力を纏う技法らしい。
だが、巨人族がそれを行うと……異なる“反応”が起こる」
「異なる……反応?」
ロガンが眉をひそめた瞬間、目の前の光景に息を呑む。
――ロックの拳が、膨張した。
瞬く間に倍、三倍、十倍へと肥大化していく。
魔力が血脈のように皮膚を這い、光の筋が腕全体を走る。
筋肉が爆ぜる音。骨が軋む音。
その全てが、まるで“神話の再現”だった。
「な……ッ!? これは……!」
ロックは拳を見つめ、愉悦を含んだ笑みを浮かべる。
「これこそが……神の血を引く証。“神の四肢”の片鱗だ」
大気が裂ける。
地面が波打つ。
ロックはその巨腕をゆっくりと後方に引き、ロガンを正面に捉える。
「――“神の拳”」
振り下ろされた瞬間、風が爆ぜた。
轟音とともに、巨拳が地を抉り、山を割る。
その風圧だけで、ロガンの巨体が持ち上がり、空を舞った。
「ぐはッ――!!!」
背中を岩盤に叩きつけられ、衝撃が全身を駆け抜ける。
体中の骨が悲鳴を上げ、視界が白く染まる。
ロックはゆっくりと歩み寄りながら、拳を再び構える。
巨大な腕が、血と光を滲ませて蠢く。
「“神の拳”――オレはそう名付けた。
神に造られた巨人族が、神の力を行使するための姿だ」
次の瞬間、拳が振り下ろされる。
その影に包まれながら、ロガンは奥歯を噛みしめ、体の奥で燃える光を呼び覚ました。
(負けるわけには……いかないッ!)
地面を割って、ロガンが再び立ち上がる。
光が彼の拳に宿り、肉体を貫く痛みとともに輝きを増す。
神の血を継ぐ者――二人の腕が、ついにぶつかり合う。
衝突――二人の巨体を覆うほどの土煙が舞い、大地が隠れる。
――大地が、静まった。
爆裂した岩片が煙を上げ、焦げた風が吹き抜ける。
ロガンは、地面に叩き付けられ、立ち上がれずにいた。
片膝をつき、荒く息を吐く。腕は軋み、全身が悲鳴を上げている。
視界の先、土煙の向こうに、ロックがゆっくりと歩み出てきた。
その巨腕――いや、“神の腕”はまだ膨張したままだ。
淡い光が拳から滲み、まるで鼓動する心臓のように脈打っていた。
「見たか、ロガン。これが“神の四肢”の力だ」
ロックの声は、穏やかにさえ聞こえた。
勝者の余裕というよりも、何かを“悟った者”の声音。
ロガンは歯を食いしばりながら顔を上げる。
「……神の……四肢……だと……」
ロックは頷き、拳を見下ろした。
「神はこの世界に干渉できない。
だが、神は己の意志を地上に残した――“四肢”としてな」
その声は徐々に熱を帯びていく。
「それは力の象徴であり、秩序の証。
神の力を継ぐ者こそが、この世界を動かす。
巨人族は、その“神の代行者”として生まれた存在だ。
だが……それを欲した人族は、オレたちを“獲物”と呼んで刃を向けた」
ロガンの拳が震える。
その言葉の裏に、憎しみと悲哀が滲んでいるのを感じた。
ロックは続ける。
「オレはそのとき知った。
力は恐怖を生み、恐怖は争いを生む。
だが……同時に悟った。
“力を制御できる者”こそが、真に世界を導く資格を持つのだと」
「世界を……導く?」
かすれた声でロガンが問い返す。
ロックはゆっくりと首を傾げ、薄く笑う。
「そうだ。神がいないこの地で、神の意志を継ぐ者が必要だ。
人族も、獣族も、亜人族も――皆、力に怯え、争い合う。
ならば、その争いを終わらせる者が必要だろう?」
ロガンは無言のまま睨みつける。
ロックの言葉の奥に潜む、冷たい狂信の光を感じ取っていた。
ロックは、拳を地面に叩きつけた。
地が裂け、雷鳴のような衝撃音が空を揺るがす。
「神の四肢とは、力そのもの。だが同時に、“裁き”の象徴でもある。
この力を継ぐ者は、神の代行者として世界を正す義務を負う。
――つまり、オレたち巨人族が“神の意思”なのだ」
立ち上がろうとするロガンの体を、圧が押し潰す。
ロックの全身から迸る魔力が、空間そのものを歪めていた。
もはや、周囲の景色すら揺らめいて見える。
「ロガン。お前のように“正義”を語る者は、どの時代にもいた。
だが、正義を掲げる者ほど、最も多くの血を流す。
人族の歴史がそれを証明しているだろう?」
ロックは拳を掲げ、微笑む。
「だからこそ、オレは違う方法を選ぶ。
この“神の四肢”で、強者をすべて打ち砕き、弱者が怯えずに生きられる世界を作る。
力のない者も、命の軽い者も、平等に息をする世界だ」
ロガンの胸が波打つ。
「……そんなものは……平等じゃない。恐怖と……支配だ……」
ロックの瞳が細まり、静かに答えた。
「支配ではない。”導き”だ」
その声音には、狂気ではなく――確信があった。
「神の代行者であるオレたち巨人族が、この世界を平和へと導く。
それが、オレが“生き残った”理由なんだ」
風が吹く。
砂塵の中、ロックの拳が再び光を帯びる。
その光はまるで神の審判のように、ロガンの影を覆い尽くしていった。
地鳴りが、戦場全体を震わせた。
ロックの足元から迸る魔力が、大地を割り、空気を唸らせる。
その身体を包む光は濃密な闇色を帯び、見る者の理性を削るようだった。
「まだ立つか、ロガン・ハート……」
低く唸るような声。
答えるロガンの声は荒く、血に濡れていた。
「立つさ、俺は勇者だ……貴様を倒すまで倒れるわけにはいかん!!」
ロックが無表情のまま、右脚に魔力を集中させる。
瞬間、骨が軋み、筋肉が盛り上がり、脚が肥大化していく。
「“神の脚”」
その一言とともに、ロックは脚を振り上げた。
月光が遮られ、戦場が闇に包まれる。
振り下ろされる巨脚は、大地を沈ませるほどの威圧を放っていた。
――地が、悲鳴を上げる。
ロガンは咄嗟に跳び退った。だが、衝撃波が追うように襲いかかり、地面が波打った。
全身を打ち据える爆風に、耳鳴りが走る。
(……なんて威力だ……! だが……見えたぞ!)
ロガンは荒い息の中で、確信を得ていた。
――奴は、一度に一つの部位しか巨大化できない。
右脚を巨大化している間、両腕のサイズはそのままだ。
ならば、狙うべきは……。
ロガンは歯を食いしばり、右側面――ロックの巨大化していない側へと一気に駆け込んだ。
拳に光を纏い、肘を引き絞る。
勝負は一瞬。ここで決める――そう思った瞬間。
「……読めているぞ」
ロックが口角を吊り上げた。
その瞬間、右脚の巨大化が霧のように消え、今度は左腕が爆ぜるように膨張した。
音が遅れて届く。
視界を埋め尽くすほどの巨大な肉の壁が、ロガンの正面に出現した。
「なっ……!」
避ける間もなかった。
巨大な左腕が地を薙ぎ、空気を押し潰す。
ロガンの体は轟音とともに地面へ叩きつけられ、岩のような腕と大地の間に挟まれた。
骨が軋み、血が噴き出す。
視界が暗転し、呼吸が止まる。
どこから血が流れているのかもわからない。圧力で意識が遠のく。
やがて、ロックが腕を持ち上げた。
土煙の中、倒れ伏すロガンを見下ろす。
「オレの弱点に気づいたのは褒めてやる」
その声は、まるで教師が生徒を諭すように冷静だった。
「だが、巨大化にかかる時間までは見ていなかったな。
二秒だ。オレは二秒もあれば巨大化の限界まで辿り着ける。
お前の敗因は、怒りにとらわれたことだ。
“戦場”で我を忘れた者は、死ぬ。……今後、思い出すこともないだろうがな」
そう言うとロックはゆっくりと右足を巨大化させた。
脚が山のように肥大化し、赤月を隠す。
「さらばだ、兄弟」
巨脚が振り下ろされる。
空が割れ、風が引き裂かれる。
――その瞬間。
白目を剥いていたはずのロガンの瞳が、カッと見開かれた。
獣のような咆哮が響き、巨脚が地に届く前に、ロガンが跳ね起きた。
「うおおおおおおおおおッ!!!」
ロガンは自らの肉体を限界まで酷使し、ロックの体へと突進した。
あばら、背中、脚、腰――鈍い音が次々と鳴り響く。
拳の一撃ごとに、ロックの骨が軋み、筋肉が歪む。
「ぬぅ……!?」
ロックが呻いた。痛みではなく、“驚き”による声だった。
まさか、動けるはずのない肉体で、ここまでの力を出すとは――。
ロガンはもう止まらない。
拳を連打し、脚を蹴り上げる。狙いは明確だった――ロックの下半身。
(狙いは脚か!? ま、まずい――!)
ロックがそう考えた瞬間、鈍く湿った音が響く。
ロックの足が崩れ、バランスを失って地に膝をついた。
「ぐぅ……!」
ロックは片膝を地につけ、血走った目でロガンを睨む。
その額に血管が浮かび、怒りが沸騰していた。
ロガンは息を荒げながらも、拳を握り直した。
「……貴様の弱点は、一つだけじゃない」
ロックが眉を吊り上げる。
「……何ぃ?」
ロガンは静かに言った。
「貴様は語るとき、必ず少し俺に近づいてくる癖がある。
不用意に距離を詰め、そしてついには俺の目の前まで来てしまった。
それが一つ目の弱点だ」
ロックの目がわずかに見開かれる。
「そして……もう一つ。
貴様は”距離”の変化に対応できていない。
巨大化すれば確かに攻撃範囲は広がるが、その分、反応が遅くなる。
貴様は“力”を手にして満足し、鍛錬を怠った。
――神の四肢に、振り回されているのは貴様の方だ」
ロックの歯が軋む音が響く。
「……ハッ。随分と口が達者になったな?」
その声は、怒りというよりも――久しく忘れていた“楽しさ”を含んでいた。




