516話 発芽
風が、焦げた大地をなでるように吹き抜けた。
血と煙の匂いが入り混じる戦場で、金の髪がその風に揺れる。
焦げついた空の下、少女──代弁者は静かにその唇を開いた。
「……やり直す。この世界を」
その声音は冷たくも穏やかで、まるで祈りのようだった。
だが、その瞳に宿るのは慈悲ではなく、決意。
彼女の眼前に広がる世界の断片が、光の粒となって震え始める。
──世界を“造り変え得る種”。
それが彼女の視界に、確かに映っていた。
ビスマーがゆるやかに指を持ち上げ、そして――一度だけ、軽やかに弾いた。
その瞬間、地上に広がる戦場がざわめいた。
魔獣と人とが入り乱れる戦線で、兵士たちが突然、苦悶の声を上げる。
筋肉が硬直し、血管が青黒く浮き出し、叫びが連鎖するように広がった。
誰かが仲間の名を呼び、駆け寄ろうとしたが──前方から押し寄せる魔獣の群れが、それを許さない。
混乱が、音を立てて広がっていく。
遠くからその惨状を見つめていたアルベリオは、眉をひそめ、低く呟いた。
「……この異変、今ビスマーが指を弾いた瞬間に始まった」
彼の視線が空を貫き、黒煙の向こう、宙に浮かぶ金の少女を捉える。
その視線に気づいたビスマーは、ほんの一瞬だけ、唇の端を上げた。
「“世界中”で、混乱が始まったはずだ……」
風に消えるほどの声で、彼女は呟く。
「もう──後戻りはできないよ」
金の髪が光を弾き、焦げた空の下で舞う。
そして、世界は静かに、確実に、崩れ始めた。
魔獣と兵士が争う戦場に、絶叫が木霊した。
それは痛みにも似て、だがもっと根源的な“異常”への悲鳴だった。
苦しみに身をよじる兵士たちの身体が、次第に常識を裏切る形へと変貌していく。
耳が、まず黒ずみ始めた。
血の色が引き、腐敗するように色を失い、やがて“ぽとり”と音を立てて地に落ちる。
「う、うぁああ……っ!」
叫びが、嗚咽に変わる。
次の瞬間、彼らの頭髪が急速に伸び、毛並みのように変質していく。
そして――頭頂付近が裂け、そこから、柔らかくも鋭い“獣の耳”が突き出した。
耳の形は人それぞれ、狼、狐、猫……中には形容しがたい未知のものまで。
ある者の背中には尻尾が生え、ある者の肌には硬質な鱗が浮かび上がった。
筋肉が膨張し、骨格が軋み、血の匂いと変化の音が入り混じる。
だが、すべてが“変化”ではなかった。
ある者は変化の途中で命を失い、ある者は鏡もないまま己の姿に恐怖し、発狂して崩れ落ちた。
「おいっ……! どうした! お前ら、何が──」
“正常”な兵士や勇者たちは、その異様な光景に声を失う。
仲間が、友が、まるで別の生き物へと変わっていく。
誰も、何もできなかった。
ただ息を呑み、震える指先でその惨状を見つめるしかなかった。
やがて、苦しみの呻きが止んだ。
戦場に、静寂が訪れる。
立ち上がった彼ら――さきほどまで人間だった兵士たちは、今や“獣族”へと成り果てていた。
鋭い爪、耳、尾を持ちながらも、その瞳にはまだ人の迷いが残っている。
「……どうなってんだ、これ……?」
「俺たち……まさか……」
獣の耳を震わせ、互いに見合う彼ら。
困惑と恐怖、そして微かな本能のうねりが交錯する。
彼らの上空で、ビスマーは静かに見下ろしていた。
その表情は――悲しげでありながら、どこか満足げでもあった。
眼下では、兵士たちが苦しみに身をよじり、変化を遂げていく。
耳を失い、獣耳を得て、鱗や尾をまとい、人としての形を保てぬまま、立ち尽くしている。
そんな地上を見下ろしながら、ビスマーは淡々と語り出した。
「今、ここで起きた変化は――いずれ、世界中で発生する」
その声は風に溶け、だが確かな響きをもって空を震わせた。
「これが……私の……彼の計画。
世界の均衡を壊さずに、新しく“造り替える”ための手段」
黄金の瞳が静かに光を帯びる。
「全人類の“獣化”――意思も思考も、姿さえも……すべてを獣族に変える。
”運悪く”獣族へ成れなかった者たちは死に……さらに、適合しなかった者は殺す」
指先で光の粒を弄びながら、彼女は微笑む。
「ゼロ・アークライトが創り出した、最高傑作の“種”……それが、今動き出した」
その言葉とともに、空がひび割れたように赤く染まり、月が、血のような紅を湛えて輝き出す。
――そして、世界は動き始めた。
※※※
――ダール王国。
数年前、“死者の暴走”を乗り越えた国。
希望を取り戻した民たちの上に、再び異変が訪れた。
夜が明けない。
空に浮かぶ赤い月が、何日も沈まない。
そして――街のあちこちで、人々の身体が異形に変わっていく。
「ぎゃあああああっ!」
「助けてくれぇっ! 耳が、耳がぁ!」
次々と獣耳を生やし、尻尾を持ち、ある者は理性を失って咆哮を上げた。
国中が混乱に包まれる。
王城の謁見の間で、国王シェリウス・ダール・アーノルドは眉をひそめ、重く問いを放った。
「ヴァルティエル……今この国で起きている事態、一体どういうことだ?
先日から出現している“赤い月”と、“夜が明けない”現象が関係しているのか?」
呼び出された”骸骨の男”――ダール国軍団長、ロレンツォ・ヴァルティエルは片膝をつき、深く頭蓋骨を垂れる。
「はっ……殿下。僕……私にも詳しいことは分かりませんが……獣族へと変わってしまった彼らからは、邪悪な魔力を感じました。
……まるで、数年前の“レグナ”のような……」
その名を聞いた瞬間、謁見の間の空気が凍りつく。
王は重く頷き、低く呟いた。
「また……どこかで“彼”が戦っているのかもしれん。
私たちにできることは少ない。……まずはこの混乱を鎮めよ!」
「はっ!」
ヴァルティエルは敬礼し、すぐさま駆け出した。
※※※
――アルガド王国・鍛冶の街ヒルデア。
夜明けを忘れた世界。
赤月の下、鉄槌の音がいつまでも響いている。
住人たちは異常な空にも慣れ、ただいつもの仕事に没頭していた。
だが――突如、咆哮が街を貫いた。
「魔獣だっ! 魔獣が出たぞ!」
通りが火のように騒然となる。
街の酒場から、ひとりの男が酒瓶を片手に出てきた。
赤毛の豪剣士――ガルス・ヴォルガン。
「チッ……せっかくの酒が台無しだぜ」
背中に携えた大剣を片手で抜き、ふらつきながらも魔獣を次々と叩き斬る。
「ははっ、やりやがった!」
「まぁた酒飲みながら戦ってるぞ、アイツ!」
通りの住人たちは笑い、酔いながら彼を応援していた。
だがその笑いは、突如として凍りつく。
「うおっ!? なんか俺、尻尾生えてる!!」
「はぁ!? お、俺もだ! 耳が伸びて――!」
ガルスが目を剥く。
振り返れば、さっきまで飲み友だった連中が、狼の耳を生やし、尻尾を振り乱して立ち尽くしていた。
「はァ!? おめェら一体どうなってやがんだァ!?」
「オレたち、獣族になっちまったよー!!」
笑いが悲鳴に変わり、街が混乱に包まれる。
―――。
――街の外・ヒルデア郊外。
「クソッ! こいつら一体どこから湧いてるんだ!」
剣を振るいながら叫ぶ男――カイン・ストラウス。
かつて廃れた学園を守っていた彼は、今や学園の教師であり冒険者でもある。
青い光を帯びた刀身が、次々と魔獣を切り裂く。
その傍らで、鍛冶師兼冒険者のセレナ・フェルディアが軽やかに舞い、レイピアを閃かせていた。
「知らん! だが……嫌な気配がする!」
セレナの声に、カインは歯を食いしばる。
「考えてる暇はない……! こいつら、尋常じゃない強さだ!」
だが次の瞬間、カインは目を見開いた。
「……セレナ、お前、それ……」
「え?」
セレナが自分の頭に手をやる。
そこには――ふわりと揺れる獣耳があった。
さらに、背中の方で柔らかく尻尾が揺れている。
「な、なにこれ!? どうなってんの!?」
カインは剣を構えながら、ただ呟くしかなかった。
「本当に……何が起きてるんだ……!」
※※※
――エグザミート王国。
荘厳な玉座の間に、静寂が満ちていた。
王――エグザミート・サランドラは、紅く染まる窓の外を眺めながら呟く。
「これが……“前兆”なのか……」
慌ただしく駆け込んできた側近が、膝をつき報告する。
「殿下、緊急事態です! 国中で人族が獣族へと変貌する異変が相次いでおります! 中には死傷者も……!」
サランドラ王は目を細め、重く息を吐いた。
「……“ビスマー”」
「は?」
側近が顔を上げる。
王は静かに続けた。
「勇者レオンが発ってから……赤月、明けぬ夜、そして人族の獣化。
――どうやら勇者たちは、“ビスマー”に敗北したらしい」
側近は言葉を失い、ただ震える唇で呟いた。
「な……なんということを……!」
紅の月光が玉座を照らし、その光はまるで、世界の終焉を告げるかのように揺らめいていた。




