121話 成長
影狼はその巨体を揺らし、ほんの一瞬で視界から姿を消した。
「……消えた?」
緊張が全身を包む中、不気味な風切り音だけが周囲に響く。影狼は音を利用して自分の位置を悟らせないようにしているのだ。
俺は杖を強く握り、練り上げた魔力を火元素魔法に変換する。いつでも魔法を放てるように準備を整えながら、周囲の気配に全神経を集中させた。
(来い…必ず対応してみせる……!)
だが、風の音がピタリと止んだその瞬間――
背後から影狼のうなり声と、身体全体を押し潰すような圧力を感じ取った。
(後ろ――!!)
咄嗟に振り返ると、視界いっぱいに広がるのは、大きく開けられた影狼の口だった。
(――丸呑みされる!?)
牙の並ぶその口の中には暗闇が広がり、底が見えないような深淵が俺の全身を飲み込もうとしていた。その威圧感に、瞬時に冷や汗が噴き出す。
本能的に、俺は即座に魔力を解放し、魔法を放った。
「フレイム・バースト!!」
だが――
影狼は俺の行動を完全に読んでいた。再び空中で身体を捻り、炎を巧みに避けると、その回転力を利用して俺の後方に着地。
そしてそのまま流れるような動きで、前足の鋭い爪を俺の右足に叩き込んだ。
「ぐっ……!」
爪が肉を切り裂き、赤黒い血が足を伝い地面に滴り落ちる。痛みが脳を揺さぶり、思わず膝をつきそうになるが、ここで倒れるわけにはいかない。
影狼は一瞬たりとも隙を与えない。まるで技を磨いた格闘家のように、爪、牙、尻尾、そして全身の筋力を駆使して次々と攻撃を繰り出してくる。その攻撃は、単なる力任せではなく、計算されている。
(こいつ……自分のことを完全に理解している……!)
影狼は己の身体能力を熟知しているようだった。自分のリーチ、関節の可動域、爪や牙の強度を最大限に活かし、攻撃を繰り出してくる。
さらに、俺の動きを観察し、的確なタイミングで攻め込んでくるその知性――これまで戦ったどの魔獣とも違う。
それでも、俺もただ攻撃を受けているだけではない。
(ここで倒れるわけにはいかない……!)
ルミエラとの過酷な修行で鍛えた洞察力と判断力を総動員し、影狼の動きを必死で追いながら、反撃の隙をうかがう。
影狼は再び距離を詰め、爪を振り下ろしてきた。
(――右!)
俺は杖を振り、地面から土の壁を立ち上げて防ぐ。
「アース・ウォール!」
影狼の爪が土壁を叩きつけ、激しい音が響く。その力で壁が半分ほど砕け散るが、なんとか防御には成功した。
だが、影狼は一瞬で動きを切り替え、今度は左側から低い姿勢で飛びかかってくる。
「ファイア・ブラスト!」
俺は即座に小規模な火花を放ち、影狼の目の前で炸裂させた。眩しい光と熱に、一瞬だけ影狼の動きが鈍る。
(今だ!)
影狼の隙を突いて、俺は再び距離を取る。だが、右足の傷が深く、痛みでうまく走ることができない。
影狼は俺の動きを見て、再び低いうなり声を上げた。その瞳には、怒りだけでなく、冷静な計算も見て取れる。
(こいつ……考えている。)
それは単なる魔獣の本能的な動きではなかった。影狼は明らかに、俺の行動パターンを観察し、学習している。
(……こっちの攻撃が通用しないどころか、逆に次の動きを読まれる……)
一瞬の油断が命取りになる。攻撃を躱され、反撃されれば、俺の命は間違いなく尽きる。
俺は大きく息を吸い込み、杖を握り直した。影狼の鋭い爪や牙、そしてその冷静な知性に圧倒されそうになるが、それでも――
(俺にはまだやれることがある)
ルミエラの言葉を思い出す。「修行で鍛えたことを活かせ」その言葉が、今の俺の支えとなっていた。
森の静寂を切り裂くように、影狼が再び後ろ足を地面に食い込ませ、突進の体勢を取る。
俺も杖を構え、練り上げた魔力を放つ準備を整える。
「来い……!今度は読ませない!」
俺の全身に緊張が走る。影狼はまさに突進しようと地面を蹴り上げた。
影狼は凄まじい速度で俺に突進してくる。その赤い瞳は俺を的確に捉え、鋭い爪が光を反射して輝いている。
(まだだ……まだ……!)
俺はぎりぎりまで魔法を発動せず、影狼の行動を見極めていた。ここで焦って魔力を放っては、また読まれて避けられるだけだ。相手の動きを最後まで見届けて、一瞬の隙を突く――それしか勝ち目はない。
影狼の爪が俺の胸に到達しようとした、その瞬間――
「……今だ!!」
俺は溜めていた魔力を一気に解放し、杖を振りかざした。
「アース・ランス!!」
杖から生み出された鋭い土の槍が、一瞬で影狼の下腹を貫いた。
「――ガアアアアッ!!!」
影狼の咆哮が森に響き渡る。恐ろしい叫び声が鼓膜を刺激し、耳鳴りを引き起こしたが、そんなことに気を取られる暇はない。この瞬間で仕留めきれなければ、次は俺がやられる。
腹を貫かれた影狼は、苦痛に身体を震わせながらも反撃の隙を伺っている。その姿に冷や汗が流れるが、俺はすぐさま左手で槍を握り、影狼をその場に固定する。
「逃がすか……!」
右手に持つ杖を再び構え、さらに魔力を集中させる。
「アース・ランスッ!!」
再び生成された土の槍が、影狼の肩口を貫いた。槍は地面に突き刺さり、影狼を完全に動けなくする。
「グルルッ……!」
それでも影狼は、鋭い目で俺を睨みつけ、身体をねじって逃れようともがく。その動きに恐怖を覚えながらも、俺はさらに魔力を練り上げる。
「もう一回だ……!」
「アース・ランス!!!」
3本目の槍が影狼の胸元を突き刺し、血が勢いよく噴き出す。影狼の力強い咆哮も徐々に弱まっていき、その巨体がゆっくりと崩れ落ちていった。
影狼の身体は完全に地面に沈み込み、動かなくなった。俺は息を切らしながら、杖を地面について立ち尽くす。
「はぁ……はぁ……。」
戦いは終わった――そう思った瞬間、足の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
噛まれた左腕、切り裂かれた右足、全身に満ちる痛みが一気に押し寄せてくる。アドレナリンで麻痺していた感覚が戻り、身体の限界を思い知らされた。
「ほう……やるじゃないか。」
木の上から降りてきたルミエラが、俺の目の前に立つ。
「まさか一人で倒しちまうとは思わなかったよ。カイル君、あんた本当にやるねぇ。」
ルミエラは影狼の死体を見下ろしながら、満足げに笑っている。
「……あなた、結局俺一人で戦わせましたね……。」
俺が喘ぎながら文句を言うと、ルミエラはケラケラと笑いながら言った。
「悪かったよ。けど、こうでもしなきゃ、あんたの本当の力は引き出せないと思ったんだ。」
俺はその言葉を聞きながら、少しだけ悔しさを覚えた。だが、確かに今の自分には達成感があった。
「それに――影狼を倒したのはあんたの力だ。それを誇っていいよ。」
ルミエラはそう言って、俺の肩をポンと叩いた。
その瞬間、今まで感じなかった全身の痛みと疲労が一気に押し寄せてくる。
俺はその場に倒れ込み、大の字になる。地面の冷たさが心地良いが、それすらも感じていられないほど疲れていた。
「おやおや、お疲れの様子だねぇ……回復ポーション、いるかい?」
ルミエラがどこか呑気な口調でそう言うと、俺の額に小さなガラス瓶をポンと乗せてきた。瓶は魔力の膜でコーティングされているのか、キンキンに冷えていて、火照った額に心地よかった。
「……あ、ありがとうございます……」
俺はかすれた声で感謝を述べながら、瓶を手に取り、一気に中身を飲み干した。
「んっ!??」
ポーションが喉を通った瞬間、口の中に強烈な苦みが広がる。それだけではない。頭がくらくらし、視界が揺れ始める。全身に力が入らず、意識が遠のくような感覚が押し寄せてきた。
「ル、ルミエラさん!?これって回復ポーションですよね!?」
俺はなんとか身体を起こし、ルミエラのほうを振り返る。
そこには、背を向けて腹を抱え、震えるルミエラの姿があった。
「……ルミエラさん?」
その異様な動きに、嫌な予感が胸をよぎる。
ルミエラがゆっくりと振り返る。顔は真っ赤になり、目には涙が浮かんでいる。その口元は、どう見ても笑いを堪えている様子だった。
「ご、ごめん……ぷっ……ま、間違えちゃった……ふふっ……ふふふ……!」
ルミエラは腹を抱えながら、ついに堪えきれずに笑い出した。
「間違えたって……ま、まさか……」
俺は手に持った瓶を見る。まだ少し残っている液体は、回復ポーション特有の緑色ではなく、どこか見覚えのある黄色――あの“バカになるポーション”の色だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……!これ、バカになるポーションじゃないですか!!」
俺は血の気が引き、震える声で抗議したが、ルミエラは笑いを止めるどころか、さらに大声で笑い出した。
「ごめんね、カイル君……ふっ……ふふっ……あたしも疲れててさ、間違えちゃったんだよ!ぷっ……!」
その言葉を聞いた瞬間、怒る気力も失せ、頭がぼんやりとしてきた。
「ル、ルミエラさん……なんでこんなもの間違えるんですか……」
声がだんだんか細くなる。視界が揺れ、目の前の光景が歪んでいく。
「あぁ、もう……だめ……」
最後に聞こえたのは、ルミエラが泣き笑いしながら謝る声だった。
「ごめんごめん!ちゃんとあとで回復ポーションあげるからさ、あっははは!」
俺はその声を背に、意識が遠のいていった――。




