120話 力の見せ所
メルムトの街から北へ1時間ほど歩くと、巨大な森が視界に入った。外から見れば太陽の光が届いているはずなのに、その森は不気味なほど薄暗く、まるで夜のようだった。
「この森の中だけ夜みたいに暗いですね……」
俺がつぶやくと、ルミエラが一歩前に出て森を見据えながら言った。
「あぁ。影狼が放つ瘴気が濃すぎて、森全体を包み込んでるのさ。そのせいで、この森に住んでた動物や魔獣はみんな逃げちまった。今この森には、影狼1匹しかいない。」
俺はその言葉を聞き、息を飲む。この森全体を支配する瘴気……一匹の魔獣が、ここまでの支配力を持っているというのか。
「行きましょう―――」
俺たちは慎重に森の中へと足を踏み入れた。
森の中は外から見た以上に暗く、足元すらほとんど見えない。俺は杖に魔力を込め、小さな火を灯して周囲を照らす。光がなければ、何も見えないほどの暗闇だった。
「……本当に動物も魔獣もいないんですね。」
不気味なほど静まり返った森に、思わず呟く。鳥のさえずりも虫の音も、何一つ聞こえない。ただ重苦しい静寂だけが、耳に圧し掛かってくる。
どれくらい歩いた頃だろうか――急にルミエラが立ち止まった。
「どうしたんですか?」
俺が聞くと、ルミエラは振り返らず、唇に指を当てて「静かに」と言った。そして低い声で続ける。
「……気配が変わった。近くにいるね。」
俺は「何が?」と聞こうとしたが、その必要はなかった。
言葉が出る前に、俺も同じ気配を感じ取っていたからだ。
身体に重くのしかかる圧力。足元から這い上がるような寒気。そして、森全体を覆う濃い瘴気。
(……いる。すぐそこに……!)
さらに追い打ちをかけるように、森中に低く響く唸り声が聞こえた。
影狼だ――。
その存在感だけで、息が詰まるような恐怖を覚える。俺たちが森に足を踏み入れた時から、すでに俺たちの存在に気づいていたのだろう。
「来るよ!」
ルミエラの叫びと同時に、影狼が姿を現した。
現れた影狼は、全身を真っ黒な毛に包まれ、赤く光る瞳を揺らしている。異常に発達した犬歯は顎よりも長く、一噛みされればどんな装備でも簡単に貫通されそうだった。
「……あれが……!」
「影狼だね。さぁ、カイル君――やってみな。」
ルミエラはそう言うと、俺の背中を軽く叩いた。
「え、俺一人で戦うんですか!?ルミエラさんは?」
目の前の影狼に警戒しながら尋ねると、ルミエラは平然と答えた。
「最初は、あたしは見学させてもらうよ。あんたの力を見せてもらう。」
そう言うなり、ルミエラは軽やかに大きく跳び上がり、近くの木の枝の上に腰を下ろした。
「マジか……!」
「あぁ、マジだ。」
俺は心の中で叫びながらも、目の前の影狼を見据える。
俺がルミエラに文句を言おうとした瞬間、影狼が牙を剥き出しにして飛びかかってきた。
「うわっ!」
とっさに横へ転がり、何とか攻撃を避けたものの、着ていたローブの端がビリッと音を立てて裂けた。振り返ると、影狼の牙にローブの布がぶら下がっている。
「あっぶな……!」
間一髪のところで避けられたが、もう少し反応が遅れていれば確実に終わっていた。背筋が冷たくなる。
「ほらほら、頑張れ!頑張れ!」
木の上からルミエラが楽しそうにヤジを飛ばしてくる。
「ちょっとルミエラさん!せめて例の“バカになるポーション”を下さいよ!」
俺が抗議すると、ルミエラは懐からポーションを取り出し、手のひらでゆらゆらと揺らして見せた。
「これが欲しいかい? でもねぇ、それじゃあ面白くないなぁ…まず一発くらいは当ててみな。」
俺を挑発するような口調でそう言い放つと、ニヤニヤと笑いながらポーションを握り締めた。
「くっ……!いいですよ!すぐにそのポーションをもらいますからね!」
俺は杖を構え、影狼と向き合った。影狼は低く唸り声を上げながら、赤い瞳でこちらの動きを観察している。
(落ち着け……影狼は俺の動きを読もうとしている。だったら、逆にこっちが奴の動きを読んでやる!)
深呼吸をし、影狼の次の動きを見極めるため、集中力を研ぎ澄ませる。
影狼が再び牙を剥き出しにし、低い姿勢で突進してきた。その動きは驚くほど素早い。
(来る――左!)
俺は瞬時に判断し、杖を振り下ろして魔法を発動させた。
「エア・スラッシュ!」
空気の刃が影狼の前脚をかすめる。
「っ……!」
ダメージは軽いものだったが、一発当てることには成功した。影狼が動きを止め、こちらを睨みつける。
「よーし、いい感じじゃないか!その調子でどんどん攻めな!」
木の上からルミエラが声をかけてくる。
(簡単に言うなよ……!)
影狼は、自分の前足から垂れる血を舐め取りながら赤い瞳で俺を睨みつけていた。その喉から漏れる低いうなり声が、森全体に響く。
「怒ってるようだね……さっきよりも攻撃が速くなるよ。」
木の上からルミエラが軽い調子で言ったその瞬間、影狼の動きが変わった。
影狼は素早く左右に駆け出し、俺の視界を乱そうとしている。その動きはさっきまでとは比べ物にならないほど速い。2倍、いや3倍は速くなっている。
(くそっ、速すぎて目で追えない……!)
俺は瞬時に判断し、全方位に土の盾を生成する。周囲を囲むように盾を展開し、影狼の動きに備えた。盾の隙間から影狼の姿を探すが、どこにも見当たらない。
「……どこに行った?」
焦りが言葉になって漏れる。その瞬間、後方から鋭い音がした。
「!!」
振り返ると、影狼が土の盾に鋭い牙を食い込ませ、ガチンガチンと音を立てながら破壊しようとしていた。
(まさか、噛み砕こうとしてるのか!?)
そう思った瞬間、影狼が噛みついている2枚の土の盾に亀裂が入り始めた。
「まずい!」
咄嗟にファイア・ボールを発動し、影狼を攻撃しようとする。火の球は勢いよく影狼に向かって飛んでいった。
だが――影狼は空中で身を翻し、火球を驚くほど器用に避けた。
「っ……!」
俺が呆然とした次の瞬間、影狼が大きく口を開けたまま、巨体ごと俺に飛びかかってきた。
咄嗟に左腕を盾代わりに突き出すと、影狼の牙が俺の腕に深々と食い込む。犬歯が肉を貫き、骨にまで届いたのが分かった。
「ぐうぅっ!!!」
腕に走る激痛に、思わず叫び声が漏れる。影狼はさらに牙を深く押し込み、顎の力で骨を砕こうとしているようだった。
(まずい……このままじゃ……!)
俺は痛みに耐えながらも魔力を練り、影狼の至近距離で魔法を発動させた。
「フレイム・バーストッ!!」
左腕の手のひらから放たれた魔法が爆発し、影狼を炎で包み込む。激しい熱と爆発音が周囲に響き渡り、影狼は怯んで俺の腕を離した。
影狼は地面に転がりながら体を擦り付け、必死に炎を消そうとしている。その隙を見て、俺も影狼との距離を取り、自分の腕を確認した。
左腕はぽっかりと穴が開き、だらだらと血が流れ続けている。肉は裂け、砕けた骨がほんの少し見えていた。
「ぐっ……!」
激痛に顔を歪ませながらも、俺は治癒魔法を発動する。
魔力を腕に集中させ、砕かれた骨を繋げる。破壊された筋肉を少しずつ修復し、何とか出血を止めた。完璧に治すことはできないが、動かせる程度には回復できた。
(まだ痛むが……アドレナリンが出てるうちは何とかなる……!)
俺は左腕を握りしめ、目の前の影狼を睨みつけた。
炎を消し終えた影狼も、すでにこちらを捉えていた。その赤い瞳が鋭く光り、低いうなり声を上げながら後ろ足で地面を蹴る準備をしている。
砂埃が舞い上がり、影狼の体が再び低い姿勢を取る。それが再度の突進の合図だとすぐに分かった。
俺は杖を握りしめ、深呼吸をする。
(冷静になれ……影狼の動きを読むんだ。俺が焦ったら負ける……!)
目の前の影狼は強い。だが、隙がないわけではない。先ほどの炎が届いたように、至近距離でなら攻撃が当たる。
「いくぞ!」
俺は魔力を練り上げ、影狼と対峙する。再び始まる戦いに向け、全身の力を集中させた。
―——。
木の上で座っていたルミエラは、そんな俺をじっと見下ろしていた。
「フフッ……悪くないじゃないか。ちゃんと治癒魔法で応急処置をして、気持ちを切り替えるなんてね。」
彼女は杖を膝の上で回しながら、俺の戦いを見守っている。
「さて、カイル君……次はどうする? その影狼をどう攻略するか、見せてもらおうじゃないか。」
ルミエラの視線の先で、俺と影狼が再び激突しようとしていた――。




