ツキナミ
ひとりの旅人がゆっくりと歩いていた。
桜並木が延々と続く長い、ながい道。人気もなく、旅人の歩みと日の傾きを除けば、まるで時が止まったような、オレンジとピンクの静寂な二重奏。
瞬間――。
無音の櫻の森で、風が鳴る。
旅人がそぞろに見上げた。
夕空が一気に春の雪に彩られ、その光景に旅人は見惚れてしまった。しかし、風の弱まりとともに、舞い散る薄紅の風花がふわり、ふわり、と地面を優しく、やさしく包み込んで――。
ありふれたような、奇蹟のような。そんな相反する想いを抱きながら旅人はしばし立ち止まったのだが、やがて、意を決したかのように歩き出した。
※ ※ ※
旅人が向日葵の坂道をゆっくり登っていく。
夏の夜に途切れとぎれの涼風。星々が夜空を点描していて、月がやけに大きく見える。
「希望だろうか?それとも、既望だろうか」
そんなことを考えたところ、何かが見え始めてきた。
夜空の光の下に照らされたのは、夜の太陽に囲まれた、錆びついたブランコとその上に黄昏ている、ひとりの迷子。
旅人が近づくと、少女は見上げた。
ベルベットのようなやわらかい視線が旅人を捉える。でも、その奥には何の希望もない。夜の色に染まった二つの深淵に、旅人は知らずしらずのうちに沈み込んで、迷い込んで――。
「ぐぅぅぅ」
無音の向日葵の丘に、お腹が鳴った。
ハッと我に返った少女と旅人。少女は恥ずかしそうにもじもじしはじめて、旅人はふと気づいた。
ボロボロな服。片足は裸足。汚れた鞄。
旅人は隣に腰掛けて、自分の鞄から黒パンを取り出した。少女はまだ落ち込んでいるように見えるけれど、瞳に少しの期待を宿していた。
「ちょっと待って、おいしくしてやるよ」
「……?」
今度は鞄からツボを取り出した。そして蓋を開けて、
「……くりーむ?」
「その通り。じゃあ、食べようか?」
クリームを塗り終わり、そう言った途端、少女がキラキラな目をした。電光石火の勢いでクリームのせ黒パンを奪い取って口の中にいっぱい詰め込んで。
リスかよ、と思いながら、旅人は自分のパンを深く噛みしめた。
もう食べ終えた少女は、好奇心めいた目で旅人の鞄を覗き込む。
「何これ。カメラ?」
「そう。普段趣味で写真を撮るんだけど、たまにいい写真が撮れて高く売ったりするよ」
「へー、すごい。写真、見せて」
おう、と旅人が快諾し、鞄からいくつかの写真を取り出した。
「綺麗……」
物欲しそうな目で渡された写真を見つめていた。
「そうか?ありがとう。でもただではあげないよ」
「なっ!?ほっ、欲しいわけじゃないし」
もうバレバレなんだけど、と旅人は内心で思った。
「はは、じゃあ、写真を撮らせてくれ。そしたらこの中から君が一番好きなのをあげなくもないよ」
「ほんとう?!」
次の瞬間、そっぽを向かれた。少し赤くなったな。可愛い。
「ああ、ほんとう。ここは絶景だしな」
少女が落ち着くのを待っている間、旅人は周囲の風景を眺めた。桜もあったらなー、と考えたところ、
「……じゃあ、撮っていいわよ」
少女の静かな声を聞いて、旅人はしばらく考え込むと、
「そのブランコを漕いでくれ。そしたらいい写真が撮れそう」
分かった、と答えて、少女はブランコを漕ぎ始めた。
即席の撮影会が終わったあと、少女は好きな写真を選んだ。
横たわった梯子のそばに蹲っている男を見下ろす大きな、おおきな月。その男は手に光っている六ペンスの銀貨を見つめていた。横顔は見えるけれど、笑っているのか、泣いているのか、それとも睨んでいるのか、表情までは見えない。
瞬間を閉じ込めた永遠。どこかで読んだ言葉が脳裏に浮かんだ。
「その写真か……分かった」
「うん……少し、共感できるところがあって」
少女が寂しげに微笑んだ。つぶらな瞳には光があったけれど、揺れる水に映った月のごとく弱々しいものだった。
「…………」
旅人は何も言えなかった。
………………。
…………。
……。
少しの間、沈黙が流れた。
気まずくはなかったけれど、心地よいとは呼べない神妙な雰囲気。
そして、沈黙を突然破ったのは旅人だった。
「俺と一緒に旅してみない?」
「えっ?!」
いきなりの提案に、少女は驚いて混乱していた。
「当分は予定や仕事もないし、君がよかったらな」
「……ほんとうにいいの?」
上目遣いで見つめられた。
「う、うん」
「あ、ありがとうございます!!」
今度は少女が嬉しげに微笑んだ。瞳は優しい光に満ちていた。
「じゃあ、さっそく行こうか?」
立ち上がろうとしたとき、袖を捕まえられた。
「その、ひとつお願いがあるんだけど」
「一緒に、ブランコに乗らない?」
※ ※ ※
ブランコがどんどん加速してゆく。
目まぐるしく変わる光景。ブランコの軋む音。少女の笑い声。月に届きそうな感覚。
櫻が毎年咲くように、月が毎月満ちるように、日が毎日昇るように、ブランコの動きも繰り返す。
ありふれたような、奇蹟のような。
瞬間たちが重なり合って、旋律になる。
そして、刻が流れる。
※ ※ ※
青がどこまでも、どこまでも広がる空。
二機の飛行機、二本の真っ白い飛行機雲。
――一時の交差。
無音の櫻の森で、風が鳴る。
つぼみがつきはじめた櫻の下で、色褪せたポップコーンがまばらに散らばっていた。
これは終わりであろうか、新しい始まりであろうか。それとも、まったく無意味であろうか。
『虚無を見出した後で、私は美を見出した』
櫻の森の上を舞う風景。櫻の森の下を歩む風景。
歌声は、確かに響いた。
言葉の先へ、進んで行こう―――