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(4)負けるものか!

 王妃の言葉に頭に血が上ってくる。


 だけど叫び返そうとした時、袖を引っ張る白い指に、はっと我に返った。


 ――マリエル。


 横を見れば、マリエルが白い顔で私の袖のレースを、目立たないように引っ張っている。空色の瞳を少しだけ私の方に向けて、見上げてくる顔に、やっと飛び出そうとしていた足を踏み留めた。


 そうだ。だけど、もしマリエルが殺されることに怯えて、王位を重荷と感じているのなら、これは決して悪い話じゃない。


 とりあえず今頷けば、実際に結婚するかはともかく、マリエルは王位と刺客から逃れることはできる。


 そう思いながら白い紙に眼を落とせば、走り書きされた文字は、隠しようもなく震えていた。


『いや。顔も知らないような人のところにお嫁にいくのは』


 王女ならば、政略で結婚させられる例を嫌というほど知っていたのだろう。今の第三王女のように、敵国に嫁がされて、苦境におかれる未来も考えていたのかもしれない。


 マリエルの必死に綴った文字は微かに震えて、今襲ってくる刺客よりも、見知らぬ相手と生涯を添わせられることへの怯えが、木炭の跡からはっきりと伝わってくる。


 ――マリエル。


 不安そうな瞳に、心の中に静けさが戻ってきた。


「お心遣いありがとうございます」


 だから、柔らかく身を折る。


「けれど、今の私は元気でなんの不安もありませんし、縁談は少し早いお話な気もします。なにしろ、私はまだ十六になったばかりですから」


 そして、にっこりと笑みをつけ加えた。


「それに――実は、恋愛というものに少し憧れているのです。一度でよいから、殿方を心から好きになってみたくて」


 嘘ではない。多分、恋も知らないたくさんの女の子にとっては。だから断りの言葉として、文句の出ないものを選んだつもりだったのに、逆に王妃は僅かに睫を落とした。


「そう――――」


「はい、王妃様からのお話に不満があるわけではないのですが」


 答えると、王妃は緑の長椅子にもたれながら小さな溜息をこぼす。そして黒い羽根扇をゆっくりと広げた。


「私は政略で、十八の歳にこの国に嫁がされました。だから、最初から恋愛を選べるという思考がありませんでした」


「えっ!?」


「――けれど、普通に育ってきた娘にとっては、そういうのが憧れなのですね。顔より武芸より、好きな人といたいという感覚はわかりませんが」


 ――あれ? この人の考えも相当特殊だぞ?


 少しだけ汗が額ににじんでくる。どうしよう、生粋の貴婦人の感覚がわからない。


「正直に言います。だから、この国に来て、夫が私の妊娠の合間を縫って様々な人妻に手を出していくのも、困った癖だというぐらいにしか感じていませんでした」


「えっ!?」


 いや、そこは怒ろうよ!?


 なんでそこまでずれてしまっているんだか――――。


「夫は私には優しかったですし。数回以上続いた相手もいなかったので、つまり口説くのを楽しんでいるのだと感じたのです」


 それは……。


 ちらりと、マリエルを見つめる。マリエルの母親にも同じだったということなのだろうか?


「だから白状すれば、夫のラルド王は生まれた貴女のこともほとんど忘れていました。たまに貴女から届く手紙で、やっと存在を思い出していただけ。なのに、今になって、後継者に指名するとは――」


 ――こいつ!


 それが言いたかったのか!


 マリエルは心の中でさえ父親に捨てられていたと!


 だが、王妃は、冷たいまでの眼差しで夫の不義の子を見つめている。


「だから私は、王女として何の教育も施されてこなかった貴女に王の位は重いと感じます」


「お言葉ですが!」


 視線に負けないように、すっと背筋を伸ばした。


「私は、離宮で育てられたお蔭で、自由な教育を受けることができました。ここで育ったからこそ、騎士達を通じて民の声を聞くことができましたし、必要な語学や政治の勉強は全てウィリル長官によって教育されてきました。剣を持ち、自ら戦うこともできる私に、これ以上の教養が必要とは思えません!」


 うわーっ! マリエルごめん!


 でも、勉強はこれから猛特訓すればなんとかなるし、戦いには私が影武者で行ってやるから!


 だから、ごめん! 横でびっくりしているけれど、今だけ言い返すことを許して!


 だけど、私が正面から顔を上げて歯向かったのが、王妃様には少し意外だったのだろう。


「貴女が――ここで、教育を?」


「はい」


 額から汗が流れてくる。だが、王妃の怜悧な視線を真っ直ぐに見つめ返すと、黒い瞳が横を向いた。そして、無言で私の側に立つウィリルを見つめている。


「そう。ウィリル長官の話は、誇張されたものではなかったということなのですね?」


 いえ、嘘八百です。さすが、王妃様。ウィリル長官の落とし穴を見破っておられる!


 だが、ウィリルはしれっと光栄そうに礼をしている。


 ――お前が全ての元凶だからなあ!


 得意そうな顔をするな!


 けれど、王妃は広げた扇を閉じると、こちらをじっと見つめた。


「では、これぐらいは答えられるでしょう。ウィギリュ エル パドロール ギュリング プルーロ ドリィンラル?」


「え?」


 今のどこの言葉?


 けれど、横で急いでマリエルが木炭を動かした。そして、紙に綴った文字をそっと横から見せる。


『昨年決まったプルーロ川の戦いでの暫定国境線は? イグレンド語よ』


 そんなの知らない。


 たしか、広い谷を間に挟んで睨み合っていると聞いたけれど。


『シュリンケン峡谷。そこの東をレードリッシュ、西をキリングの軍が支配しているわ』


「シュリンケン峡谷。東を我がレードリッシュ、そして西側をキリングが支配している」


 書かれた言葉をそのまま読み上げると、王妃が僅かに驚いた顔をした。


 そうだろうな。まさか、本当にマリエルが他国語まで修めているとは思わなかったのだろう。


 私も知らなかったから驚いたけれど。


 まったく額から汗が出てくる。


 しかし、ウィリルは側で何度も納得したように頷き、耳元に口を寄せてくる。


「姫は、七カ国語というのは誇張ですが、四カ国語は話せます。噂がすべて過言な法螺ではないのです」


 自慢げに囁いているが、お前の罪が軽くなったわけじゃないからなあ!


 それなら、どうして命が狙われないように自慢をしなかった!


 だが、王妃はマリエルがイグレンド語を理解したうえに、昨年決まったばかりの暫定国境線を知っていたことが余程意外だったのだろう。


「そう――貴女が政治に興味があるというウィリルの話は、あながち脚色されたものではなかったのですね」


 いえ! 王妃様! こいつの話を信じてはいけません!


 間違いなくマリエルの書いた落書きも、金の額縁で大芸術扱いする奴です!


「わかりました。貴女がそこまで覚悟を決めているのなら、私も出直しましょう」


 その言葉にほっとする。そして、茶に手を触れないまま立ち上がった王妃の姿を見つめた。


「エレオノール様」


 しかし、隣にいる長い銀髪の男が声をかける。


「このホワイユ離宮には、たくさんの秋咲きのネリネが植えられていると聞きます。折角足を伸ばされたのです。ご覧になっていかれてはいかがですか?」


「ネリネ?」


「はい。百合に似た愛らしい花です。ピンクやオレンジなどさまざまな色がございますよ」


 そして、くるりとウィリルを振り返る。長い銀髪が光る糸のようだが、こちらに向けた翡翠の瞳は奥が暗くて、真意が読めない。


「かまいませんよね、ウィリル長官」


 それにウィリルが少し引き攣った笑みを浮かべた。


「はい、もちろんですとも」


 ――本音では早く帰れと思っているな……。


 それに、王妃は少し考え込んでから頷いた。


「そうですね、オーレリアンがそう言うのなら。ラルド王が亡くなってから、心配ばかりかけましたし」


 弱々しく微笑む顔は、ひどく優しい。そして立ち上がると、ゆっくりと扉へと向かった。


 歩いていく姿に礼をする。


 けれど、私の前を通りかかった時に、急にオーレリアンが私の方を振り向いたのだ。そして口を開く。


「マリエル姫。ガッセイ ドラント フードリ センシェ?」


「え?」


 はっとした。


 ――こいつ!


 だけど、隣では今話された言葉がわからなかったように、マリエルが白布で覆われた顔で驚きながら、私とオーレリアンを見比べている。


 わざと、マリエルが絶対に知らない言葉を選びやがった!


 知っているはずがない! ザランド語のスラングなんて!


 ぎゅっとドレスの裾を握り締める。そして、にこやかに笑いかけた。


「はい。アイ エルオ ビスキューズ(好きな食べ物はビスケットです)。チーズが混ぜてあると、なお好みですわ」


 七カ国語、それなら当然このレードリッシュを囲む五カ国を含んでいると思うのが当然だ。


 だから軽く体を起こした礼の姿勢で、引き攣りながら微笑んで答えたのだが、それが予想外だったらしい。秀麗な銀の眉をしかめている。


 そりゃあそうだろう。たとえザランド語ができても、スラングまで知っているとは思わなかったはずだ。


 私だって、小競り合いの時に捕虜で捕らえた兵士達の言葉を覚えていなければ、とても答えることなんてできなかった。


「昔、離宮に来たザランド人の物売りが使っていました。聞きかじりなので、間違いがないか、お恥ずかしいですわ」


 冷や汗を隠しながら私が微笑むと、オーレリアンと呼ばれた男はふっと笑った。


「なるほど。噂通りの賢女らしい」


 そして深い翡翠の瞳で見つめる。


「てっきり、役にも立たない古語を含んだ勉強ばかりされているのかと思っていましたが――――。生きた言葉にも親しんでおられたようですね」


「お蔭様で」


「お答えは、普通のザランド語に近いが、今回はよく聞き取れたとお褒め致しましょう」


 そして王妃について歩いていく。だが、外へ出て行く前に一度振り返った。


「ああ――――王妃様のお申し出を断られたのなら、十分ご身辺は注意されますように。さすがに葬式が二つとなり、服喪の期間が二倍になっては、国民が迷惑しますのでね」


 こいつ!


 さりげなく脅してきやがった!


「ご忠告ありがとうございます。ですが、敵を恐れては、下を導くことはできないと申します」


 ――騎士ならば。


 だから、にこやかに砦の騎士隊長の父の言葉を告げた。しかし、その私の微笑みに、オーレリアンはにっと笑う。


「存外気のお強い姫だ。後悔されることがないように祈っておきますよ」


 忠告するように言うと、先に廊下に出ていた王妃の背中を追いかけていく。扉の向こうに消えていく長い銀の髪を見つめ、私は大きな溜息をついた。


 やっと消えた敵の姿にほっとして体から力が抜けていく。だが、横では、今の言葉に青くなったマリエルが、震えながら私の手を握り締めている。


「大丈夫、守るから」


 か細く震えながら、声の出ない口をおさえる姿の肩を抱く。


 でも、あの男は油断できない。


 廊下へと消えていった黒い王妃と銀の男の後ろ姿を視線で追いかけ、私は言い知れない不安のようなものを感じた。


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