(2)これは身代わりの初陣!
鏡の前で深い海のような青いドレスを、コルセットで補正された体に纏う。髪は、いつもは櫛を入れて束ねただけだが、今日はミーティの手で、綺麗にカールをつけられている。
首には、瞳と同じアクアマリンのペンダント。青い輝きが白粉で塗られた肌の白さを際立たせている。
「すごい……」
引いたこともなかった黒いラインを鏡の向こうの目に描き、マスカラを塗られた睫で瞬きをする美少女の姿に、私は呆然としていた。
「そりゃあ、姫と似た顔ですからね」
鏡の中では、ウィリルが満足そうに頷いている。
「姫と全く同じにとはいきませんが、十分に世の人が息を呑む美女にはできたと思いますよ」
「本当に……」
これが、私?
金で縁取られた姿見の鏡の中に立つのは、どこから見ても完全な貴族の淑女だ。広大な館から一歩も出たことがないと言われても、この姿なら信じられるだろう。
いつも騎士服を纏っている体には、青い絹のドレスが翻り、胸から首にかけては、白いレースの襟が幾重にも立って、日に焼けた首を隠すように覆っている。
深窓の令嬢――――いや、鏡にいるのは、まさに肖像画などで見る女王様そのままの姿だ。
信じられないように、そっと鏡に映った自分の姿に触れた。
それなのに、指先から返ってくる冷たい鏡の反応が信じられない。
呆然と見つめている私の後ろでは、だが、ウィリルが腕を組んだまま当然といった顔で微笑んでいる。
「念のため、姫と同じ衣装を数着作っておきました。貴婦人のドレスはどれもオーダーメイドですからね。体に少しでも合っていないのを着ていれば、本人ではないと見抜かれてしまいます」
「ああ――そうか」
王妃様も生粋の貴婦人だから。
生まれた時から、体にぴったりと合っている衣装が普通の生活をしていれば、着ている物のサイズが僅かにずれているのにだって、違和感を抱くだろう。
私には、縁のない感覚だけれど。
つくづく別世界だなと感じてしまう。こんなに豪華に結われた髪も、体に身につける装身具も。腕につけられた真珠の装飾品がやけに重いような気がして、確かめるように腕輪をつけた左手を軽く持ち上げた時だった。
『きゃあ――――!!!』
声にならない歓声が、鏡に映ったマリエルから聞こえたような気がする。
そして、手に持った紙にさらさらとスケッチ用の木炭で書きつけると、急いでそれを私の前に掲げていくではないか。
『すごく、綺麗きれい! まるで私より女王様みたい!』
頬を薔薇色に染めて、興奮している。手に持った紙を握りしめながら大きく振っている姿に、チェルアとミーティが頷いた。
「ええ。本当に美しいですわ」
「それにきりっとして。姫様よりとは申しませんが、直線的な立ち姿の美しさは、喋らなければ間違いなくどこかの姫君のように見えます」
「そんな――」
女らしいなんて、今まで一度も褒められたことがなかったのに。言われ慣れなくて、どんな顔をしたらいいのか戸惑ってしまう。
それに、ウィリルが一歩前に進み出た。
「ええ。確かに普段に比べたら、立派に女々しくなりましたとも」
「なんでいきなりけなすモードなんですか!?」
「ふっ――我が姫と同じドレスを纏うというだけでも、身に過ぎたことですのに。あまつさえ姫より女王らしいだなどと。たとえ姫からの励ましとしても、一欠けらでも本気にしたら可哀想というものでしょう?」
「すみません。逆鱗にふれたのですね?」
本当に、この人姫馬鹿だなあ。
「当然です。我が姫は、この世で最高の至宝。その美貌は並び立つものがなく、深い慈愛の心は海のよう! たとえ似て見えても、ガラスをダイヤモンドと言うわけにはいきません!」
「うん。その深すぎる愛情が、今のマリエルの事態を招いていると自覚してくださいね――」
――本当に、わかっているのだろうか。この人。
だけど、こほんとウィリルは咳払いをした。
「けれど、今は貴女に頼るしかありません。ちょうど、先程王妃様が門に到着されたと報告がありました」
それにどきんとした。
「王妃様にって――。どうしたら……」
覚悟は決めていたが、私は貴族の社交儀礼もよく知らない。顔だけは似せることができても、マリエルのように淑女の身のこなしは何一つ知らないのだ。
けれど、じっとウィリルは紫の瞳で私を見つめている。
「アンジィリーナ、貴女は騎士でしょう?」
「え? そうですけど、騎士の礼儀は淑女のとは……」
「同じです。相手は、姫の敵です」
――敵。
告げられた言葉に心臓を射抜かれた気がした。
そうだ。これから来る王妃様は、マリエルの父の妻とはいえ、マリエルの命を狙っている敵。
「だから、騎士として敵に向かう時の気持ちで。幸い姫には剣姫という誤解もあります。姫の仕草が騎士としてのものだとしても、誰も不思議には思わないでしょう」
――騎士として。
これから向かうのは戦場!
ごくりと息を呑む。
そして一度息を深く吸って決意すると、ばさりと重たいドレスを翻した。身に纏う豪華な衣装は相変わらず重いが、心を決めれば身を守る甲冑ほどにしか感じない。
「ウィリル長官、王妃様を客間にお通ししました」
外からの声に、ウィリルが深く頷いている。そして、正面で、戦闘を決めて立つ私の顔を振り返った。
「そのドレスの袖には、小ぶりのナイフが隠してあります。戦闘には不向きでしょうが、いざというときの護身具にはなるでしょう」
「わかった」
だから、やけに重かったのか。
先程の違和感の原因をレースで彩られた袖の中に感じ、大きく頷く。そして、ウィリルが案内するのに従い、背筋を伸ばして部屋を出た。
金で装飾された白い扉を越えると、外で待っていた衛兵が二人、護衛として後ろについてくる。私を見て、顔が赤くなったのはおそらく気のせいだろう。
その前を、私とマリエル、そしてウィリルの三人で歩いていく。
『大丈夫、アンジィ? 何かあれば、私が助けるから安心して』
決意しても、初めて会う王族に、緊張で握り締めている手が白くなっているのに気がついたのだろう。そっと、隣からマリエルが顔の下半分を白い布で隠した姿でのぞきこむと、走り書きをしたメモを見せてくれる。
書かれた文面に、軽く頷いた。横のマリエルは、今は鬘を着用して、黒髪だ。
――確かに、マリエルでないとわからないことがある。
王族に以前に会った時のことや、昔のことなどを持ち出されては答えることができない。
だから、あの姫馬鹿のウィリルが危険を承知で、マリエルが側にいることを許したのだろう。
だけど――と、ウィリルの背中を見つめた。
「王妃様に会う前に――」
後ろの衛兵達に気づいて、口調を変える。
「少し情報を整理しておきたいんだが――。たしか、王妃様が、次の王に推している第三王女様はキリングに嫁いだと聞いたのだけれど……」
薄い茶色の髪を翻して、ウィリルが振り返る。
「ああ、その護衛は事情を知っている者たちです。ですが、ほかの人の目がありますので、話し方はそのままで」
その真っ直ぐに私を見つめる紫の視線に、頷いて続ける。
「キリングって、昨年戦闘になった国じゃなかったか?」
たしか、昨年このレードリッシュからキリングへ流れるプルーロ川の水利で揉めた筈だ。
記憶にある騎士達からの噂話によると、このレードリッシュの灌漑事業の一環で造られた溜池が、昨年の日照りの時に、川の水を減少させている原因として、キリングで騒がれたらしい。
最初は水の取り合いによる小規模な農民同士の喧嘩だったのが、キリングの村の者たちが溜池を破壊しようとレードリッシュに侵入したことで、一気に争いに発展したと聞いている。
もともと、昔から仲の悪い国だったけれど……。
それでも、この数年は休戦状態が続いていたのに。
その私の投げた問いに、はっきりとウィリルは紫の瞳を合わせた。そして歩みを止めて振り返る。
「そうです。そして、その戦いで負われた傷が元で、第一王子様が昨年亡くなられました」
「やっぱり……」
――記憶違いではなかったんだ。
「だから、今でも国民の中には、キリングに対する怒りが渦巻いています。もちろん、多くの家臣達の間にでも、です」
「だから――亡くなった父王陛下は、マリエルを後継者に指名したのか?」
――何があっても、息子を殺した敵国を利するようなことにはならないように……。
「それはわかりません」
けれど、ウィリルははっきりと答えた。
「前王陛下がなぜ突然姫を後継者として指名されたのか。元々第三王女リアーヌ様は、長年不仲だったキリングとの和平の為に嫁がれたのですし、いくら王位継承順位が低いとはいえ、何かあった場合にキリングに王位継承権が行く可能性を考えておられなかったとは思えません」
「じゃあ、なぜ――」
「ただ、前王陛下の真意はともかく、正統な後継者である第一王子を死に追いやったキリングの王子が王位を継ぐことには、頑強に反対し続けている重臣たちが多いのも事実です。それがマリエル姫の継承を後押ししてくれています」
その時、後ろで小さな囁き声が聞こえた。
「キリングって、前の戦で王子を殺した相手だろう?」
「いくら第三王女様の夫でも、そんな相手が次の俺達の王だなんて、冗談じゃないよな」
きっと、今後ろでひそひそと囁かれている衛兵達の声が、レードリッシュの多くの者達の思いなのだろう。
――王妃様にしても、自分の息子の仇だろうに……!
しかし、それが自分が生んだ娘の夫とは、なんと皮肉な話か。
複雑な関係に思わずぎゅっと手を握り締めてしまう。
『アンジィ』
けれど、隣から呼びかけるような視線が見上げた。そして、手元に持っている紙に、布に巻いた木炭でさらさらと走り書きをしている。
『それでも、王妃様にとっては実の娘だわ。それに和平のしるしとして嫁いだリアーヌ様が、敵国に戻った国で辛い状況になっているのなら、なんとか助けてあげたいと思ってしまうのも、仕方のないことだと思うの」
白い紙に書かれた、柔らかな手跡にほっと息をついてしまう。
「――ああ、そうだな」
――仕方のないことなのだろう。
娘を助けたいと思うことも、将来の国の跡取りを殺された相手を憎いと思うみんなの気持ちも。
でも、だから。
再度歩き始めた足を廊下に進め、二階の一際豪華な部屋の前へと近づいていく。
そして、扉が開いた。
中にいた黒髪の美貌の女性を私は見つめ、じっと瞳に力を込める。
――だから、私がマリエルを守りたいという気持ちだって、誰にも邪魔はさせやしない。
殺したいと思っているのなら、邪魔をしてやる。二度とマリエルを辛い立場になど落とさせはしないと、私は目の前に立つ優雅な王妃の姿に視線を注ぎながら、初めて会った敵の姿に心の中で決意を固めた。




