プロローグ
夏の、明るい、夕方六時。……に、なる、少し前。
たくさんの人が、家の中へと吸い込まれ始める時分だ。
あちらこちらの家と家の間から、家路をたどっているらしき、子どもの声が響いている。
大通りを行く車の音が、住宅街には、ひとつ向こうの世界のもののように届く。
どこかの窓辺か軒下かで、ちりーん、と風鈴が鳴った。
穏やかである。
そこへ、ざわわ……と。
やわらくて大きな、風が吹いた。
夜が近づいていることを確かに感じさせる、かすかに冷たい風だ。夏といっても、夏休みはまだやってこない、七月のはじめ。昼の日差しの熱量は、夜風をも温めるには、まだ少し足りていない。日に日に緑を深くしている庭木たちが、涼しそうに身を揺らす。
ざわわ……
ざわ……
―――ザンッ!
ふと、庭木の一つ……その、てっぺんのあたりを、何かが跳ねた。
次いで、
―――トン!
街灯を軽く踏み、
―――タ、トン!
屋根のはしっこを、ステップのように蹴り、
―――タン。
……着地した。地面ではなく、電柱の上に、だった。
白いスニーカーの片足がバランスをとるように、きゅっと電線を踏む。
人間が佇む場所として不自然かつ不安定極まりないそこに、少年が一人、立っていた。
年の頃は十四、五歳といったところか。
白のシャツに、黒いズボン。飾り気のないベルトとスニーカー。服の上からでも、いかにも未発達な体つきをしているのが見て取れる。実際、シャツの半袖から伸びる腕は、骨っぽさはあるものの、幼さを感じさせるほっそりとしたものだった。
どこから見てもその辺の中学生という出で立ちなのだが、制服を着ているのに鞄は持っておらず、何よりも、何の感慨もないといった様子で電柱の上に立っているという点で、学校帰りの中学生にはとても見えない。
少年は人気のない街をぐるりと見渡した。何かを探しているようだが、その何かはどうやら、見つけられないらしい。少し気落ちしたように肩を落とし、小さくため息をついた。
「あいつ……自分から、呼び出しておいて」
心底、困った、という調子の呟き。「何か」は、どうやら待ち人であるらしい。そして口ぶりからして、彼は自分からここへやってきたわけではなく、その相手に呼び出された挙句に、待ちぼうけをくらっているようだった。
しかし、一方的に待たされているという割には、彼の面持ちはどこか妙である。
来たくて来たわけでもない上に、呼び出した側が現れないとなれば、わき上がってくるのは苛立ちや、腹立たしさというのが自然と言える。けれども、彼の顔に浮かんでいるのは、そういった「怒り」の部類になるものではなかった。
そこにあったのは、恐らく微かな……本当に、微かな―――
悲しみ、だ。
前面に押し出されたものではない。気づくには本人でさえ難しそうな、ほんのちょっとだけ、うっかり漏れ出てしまったというくらいの、一粒の憂い。あとは、困っているという以外に、特別なものは何も浮かんでいない。
そもそも少年の顔つきには、少年と呼ぶに足るような、情感豊かそうなところが全く無かった。
顔立ち自体は、なかなかに整った、そしてどちらかというと可愛らしい造りをしている。
しかしその表情には、どこか外見との釣り合いがとれていないような、妙な落ち着きがあった。伏し目がちの瞳が、大人の猫のように、静かに輝いている。
少年は、もう一度辺りを見渡した。
洒落っ気なく切りそろえられた髪が揺れる。まっすぐな栗毛だ。直毛なのに加えて、頭蓋骨の形が良いのか、ずいぶんときれいなまん丸頭をしている。まだ沈まない日の光に照らされて、栗色に天使の輪がかかっていた。
待ち合わせの相手は一向に現れる気配がない。少年は場所を変えようと考えたか、踏み込もうとするように、少し体勢を低くする。
しかし次の瞬間、凪のように静かだった彼の瞳が、びくりと見開かれた。
ぱっと振り返り、眼下を睨む。鋭い視線の先には、お喋りしつつふらふらと歩く、小学生くらいの女の子が二人。そして彼女たちが行く道の角の反対側から、自転車でかっ飛ばす青年。
女の子たちはもう角にさしかかっている。自転車は曲がり角に躊躇する様子がない。人気の無さに油断しきっている。
それは誰にでも可能な想像だ。恐らく、もう、あと数秒。このままタイミングよく衝突するという未来が、子どもたちと自転車の双方を待っていた。
少年が電柱を蹴って跳躍した。反射のように、機敏に。眼下の光景から決して目を離さず、けれども何故か、逃げるようにそこから距離をとろうとする動き方で。
少女たちは立ち止まらない。自転車のスピードはゆるまない。数瞬の後に起こるであろう惨事を前に、当人たちはいつまでも穏やかにしている。
「………くそ」
少年は空中にて顔をしかめ、見た目に似合わぬ荒い声をあげた。
―――そのとき、風が吹いた。
ふわり、と。少年の緊迫を嘲笑うような、軽やかさ。
そんな風に煽られ、
長く長く伸びた、見事な黒髪が踊った。
「サン」
……と、一言、幼い声が呼んだ。
少年の、空っぽだった両手を、唐突に現れた小さな手が、ぎゅっと握る。彼がこぼれんばかりに目をむき、
「―――ヨルカ!」
そう叫ぶのと同時に、それは起こった。
「あれっ。もう、六時?」
女の子の一人が足を止めて、ひょいと空を見た。
夕方六時の「夕焼け小焼け」が鳴り出したのだ。つられたように、もう一人も立ち止まった。
「えー、まだ五時くらいと思ってた。……わっ!」
先を行く形になっていたその女の子の目の前を、シャッ、と自転車が通り過ぎる。鼻先をかすめそうな近さだった。女の子は棒立ちになり、自転車の青年のほうでも、一応、彼女の存在に気づいたらしい。ちゃりーん、と御座なりにベルを鳴らして、去っていった。
「……あっぶなぁ!ぶつかるとこだったよっ」
自転車が道の向こうに消えて、女の子は硬直がとけたらしい。怒ったのと驚いたのが半分ずつ、といった叫び声をあげた。その声でようやく、先に足を止めた女の子のほうも事態に気がつく。
「えっ、何?どうしたの」
「自転車!あー、びっくりした」
怖いね、気をつけようね……そんなことを、話し出す。何事もなく、また、ふらふらと歩いていく。
彼女たちもまた、道の向こうに消えていく……。
彼らが、ちょっとした奇跡のように惨事を免れる様子を、二人の子どもがじっと見守っていた。……屋根の、上で。
「……もしかして、間一髪?」
呟いたのは、中学生になるかならないかといった年恰好の、可愛らしい少女だった。
危うく大惨事、という瞬間を目撃したにしては、あまりにもけろりとしている。平然と屋根の上に乗っているところや、傍らの少年の、どことなくうんざりとした様子からして、彼女が件の待ち合わせ相手のようだ。
少年は、先ほどの子どもたちの姿が完全に見えなくなり、本当に何事も起こらなかったことを見届けると、大きなため息をついた。
「……ヨルカ。呼びつけるなら誰もいないところか、あんたの他にも天使がいるところにしてよ。俺が一人でいると、すぐこれなんだからさ……」
訴えるように、少女を睨む。
ヨルカ―――そして、天使、と呼ばれた彼女は、特にこたえた様子もなく、彼を見つめた。そして、ふっと微笑んだ。……そこには、十二歳ほどにしか見えない子どもには凡そ似つかわしくない、異常なあだっぽさがあった。
「遅くなったのは謝るけどね。でも、たまにはそっちから来てほしかったんだよ。―――サン。うれしいよ?」
「先に待っていてくれないなら、街での待ち合わせなんて、二度としない」
ひどく近い距離で、二人は見つめ合った。
空中で呼び止められたとき、彼―――サンは、驚いて、おかしな着地のしかをしたらしい。特にどこを痛めてもいないようだが、尻餅をついたような体勢で、少し大儀そうに体を支えている。
ヨルカはというと、そんな彼の脚の間に小さな体をちょんと納め、ちょっと支えに使わせてもらっているという感じでシャツをつかんでいた。見ようによっては、彼女がサンに馬乗りになろうとしているような形になっている。
じゃれあっていると言うには、彼らの間にある空気は、しん、と重たげだった。それでも、サンにもヨルカにも、目の前の相手から距離をとろうと動く気配は無い。ただ、じっと……睨み合っている。
やがて、ヨルカのほうが先に口を開いた。目はそらさないままだ。
「……先に待っていてくれないなら、か」
サンが、訝るように微かに眉を寄せると、彼女は不意に、ぐっと顔を寄せた。そして、挑むように動かないままでいる彼に、そっと囁いた。
「天使みたい」
その一瞬で、サンの顔がくしゃりと歪んだ。重たそうに腕をあげると、ヨルカの肩をつかんでそっと押しのけ、堪えかねたように顔を背けた。
睨み合いはヨルカの勝ちに終わり、サンは呻くように答えた。
「……悪魔だよ」
投げ出すように伸ばされた彼の脚の間で、ヨルカが身じろぎし、ゆらりと立ち上がった。
小さく、細い、子どもの体だ。未発達というにもまだ早いくらいの。
けれど、サンを見下ろすその佇まい、見つめるその瞳には、彼が漂わせる不自然な落ち着きをも上回る、賢者のような静けさが満ちていた。
外見は確かに少女である。
腕も脚も、肉付きに乏しくていかにも幼い、棒のような細さだ。薄い体を包んでいるのは、やわらかそうな白いフリルブラウスに、水色のキュロット。細い脚は、薄い黒タイツにしまわれ、サンのものと似た、ごくシンプルな白いスニーカーを履いている。
長い睫毛に縁どられた大きな垂れ目と、キュロットの裾に触れるほどまで伸ばされた髪は、墨のように黒い。髪は左耳の下で白いシュシュがまとめているが、前髪はこれまた長く垂らされて、何故か顔の右半分が、守るように覆われている。
少女……であるが、風に巻き上げられて狂ったように踊る黒髪と、妖艶かと思えば厳かにも変わる不思議な眼差しが、彼女をどこか恐ろしげなものにもしていた。
ヨルカは、俯くサンを一頻り眺めると、ゆったりとした動きで屈み、彼の手をとった。
サンが立ち上がると、二人の間には、頭一つ分に近いくらいの身長差がある。
中学生と、小学生。けれども、そうとしか見えない彼らの間に、外見を決め手に使うことができない何かの差が、漠然と漂っている。
ヨルカが、サンの手を引いた。屋根を蹴る。
二人、手をつないでの跳躍は、間違いなくヨルカが導いていた。
屋根から屋根へ。電柱から電柱へ。建物の屋上から屋上へ。だんだんと高いほう、高いほうへと、二つの小さな影がひょいひょいと跳んでいく。
見かけこそ、二人ともが羽根のような身軽さを見せていたが、進路を決めているのは一貫して、ヨルカであった。サンは半ば引きずられているような形で、それでも決して、彼女の小さな手を振りほどくことはしない。
ヨルカはどうも、サンのそうした態度をはじめから十分に知っているようだった。彼が自分から離れていかないとわかった上で、わざと振り回すような動き方をしている節があった。
時折、二人は、空中で視線を交わす。
サンの、少し悲しそうな大人猫の瞳が、ヨルカを見つめる。するとヨルカのほうは、甘やかすようなとろりとした笑みでその眼差しを受けると、次の瞬間大きな瞳をいたずらっぽく光らせて、唐突に方向転換したりする。
サンが栗毛の猫ならば、彼の手を引いて奔放に飛び回るヨルカは、からかうようにひらひらと猫にまとわりつく、黒い蝶か。
しかし、気ままな浮遊は、ヨルカが進行方向に学校を見つけたところで、唐突に終わった。
「サン」
握る手に少し力を込めてヨルカが呼びかけると、サンは、向かう先にそびえるなかなか大きな校舎を見ただけで、彼女がそこに行きたいことを汲み取った。道路をはさんで向かい側に立つ家の屋根の上で止まる。
小さめの玄関と、手前が駐車スペースになっているところを見るに、二人が見ているのは裏門側だろう。周囲に人気はほぼ、無い。
「……中に、入りたいの?」
サンが尋ねると、ヨルカは小さな頭をふるふると横に振った。
「屋上に行きたい。ここから、ひとっ跳びは無理だから……足場を探さなきゃ」
二人はここではじめて、地面の上に立った。ようやくのことで、道行く中学生男子と小学生女子、といった風情となる。
ただし、二人は外壁に沿って歩くのではなく、当然のように敷地内へと踏み込んだ。時刻はまだ夕方六時を少し過ぎたばかりで、校舎からも、その向こう側にあるのであろう校庭からも、明らかな人の気配が発せされている。けれども、サンもヨルカも、人目など無いもののようにのびのびと歩いている。ついでに言えば、今この時も、二人の手は依然としてつながれている。
昇降口にさしかかったところでようやく、その事態はやってきた。
男子生徒が一人現れて、その視界に容易に入り得る位置に、サンとヨルカが立ったのだ。
生徒の背格好によって、二人が堂々と侵入したこの学校が、高等学校であると判明する。ネクタイを締めずに少し着崩されたシャツと、ボタンをはずしたブレザー。生え際が妙に濃いため、恐らく染めているのであろう、茶色い髪。それから、サンよりもずっと成熟して見える、体つき。
この場所において、二人が異物であることが、より明白になる。
二人は立ち止まった。
生徒はずんずんと接近する。
そして―――ただ、通り過ぎていった。
ぶつかるすれすれであった。しかしそれは、まったくわざとらしさの無い歩行だった。行く手には「避ける」という意識を持つべき何者も、存在していない。だから、ふつう。そういう動きだった。
そして、二人のほうはというと、
「サン、見て」
……二人ともが、校舎のすぐ傍に生えた立派な桜の木のほうに視線を注いでいて、真横を人が通っていったことになど、気づいてもいない、といったふうだった。
両者はまるで、薄い壁越しにすれ違ったかのようであった。はじめから、二つが交錯することなど無いように、できている。―――そんなものの、ように。
ヨルカがサンを引っぱって、二人は桜の根元に立った。
夏の桜は花をとうに落とし切り、さわやかな若草色の葉をたっぷりと生やしている。なかなか太くて、街中にあるのが意外なほど、立派だ。一本だけで立っている姿が、少しだけ寂しそうに見える。
ヨルカは、断りを入れるように太い枝をひと撫でして、手をかけようとした。すると、つん、と糸で引かれたように、その動きが止まる。
彼女が視線を上げると、サンが唇を引き結び、目を泳がせていた。その顔は、何故なのか、微かに青ざめている。
ヨルカは枝から手を離し、サンに向き合った。視線を落として、自分の片手をつなぐままにしているサンの片手に、もう片方の手をそうっと重ねた。
「一瞬だけだよ」
彼女がそっと告げる。暗に、離しなさい、と。
サンの手は、一度はほどこうとしたのを途中でためらったように、ヨルカの手の指先だけを握っている。
ヨルカは、労わるように呼びかけた。
「サン。大丈夫、登る間だけだよ。……ずっと離したままでいるつもりは、私にだって、無い。よく知ってるでしょう」
サンは尚もためらっているようだったが、やがて答えた。
「……そう、だね」
彼女の指先の熱を自分のそれに刻むように、一瞬だけきゅっと握りしめて、サンはその手を離した。その仕草に、ヨルカがくすりと笑う。
「ほんとに、天使みたい」
その言葉にサンは鋭く反応したが、ヨルカは今度は彼の言葉を待たずにヒョイと枝に飛び乗り、するすると瞬く間に登っていってしまう。諦めたように小さくため息をつき、サンも後を追った。
子どもとは言え人を二人も乗せたというのに、その木は不思議なほどの頼もしさで彼らを支えた。上のほうになるほど、枝は細くなってゆく。それなのに、登り始めてからはまるでためらいの無い二人の動きにも、大した揺れやしなりを見せない。……風に揺られて、枝を震わせている程度でしかない。
子どもは多くの場合、軽いものだけれど。
そうだとしても、どうも彼らは、異常に軽い。
やがて、てっぺん近くでヨルカが枝を蹴り、次いでサンも蹴った。
先にヨルカが、屋上のコンクリートの上に着地した。息も乱さずにぱっと振り向くと、少し離れたところから、サンの姿も、ひらりと現れた。
それを目で追うようにしながら、ヨルカはふらふらと歩いて、止まった。丁度、彼の着地点。まだ宙にいる少年に向けて、細い両腕をのばす。
ほんの少し前にほどかれたばかりの手が、まるで待ちかねたように、ぎゅ……とつながる。
サンの足がつくが早いか、ヨルカは淀みない動きで彼の胴をつかまえていた。
抱擁、だった。それは体当たりに似ていて、サンは衝撃で二、三歩後退した。
けれども、戸惑うような様子もなければ、抱き返そうと動くこともなく、サンはただ立っている。ヨルカもまた、サンをとらえると一切の動きを止めていた。
二人はしばらく、そうしてじっとしていた。
二人とも、少しも動かない。
……時間を、触れ合ったその瞬間までで捨てたみたいに。
「だーれも、いないね。部活中だし、教室にもまだたくさん、人残ってるみたいだけど」
屋上の手すりの上に立って、ヨルカが言った。サンはその足元に座っていて、二人はまた手をつないでいた。
校庭からは運動部の生徒たちの声。校舎のどこかからは、合唱部のものらしい歌声。吹奏楽部もあるらしく、楽器の音色も聴こえていたけれど、それはずいぶん遠くからのもののような響きだった。きっと、校舎から少し離れたところに部室棟があるのだ。
学校という場所ならではのたくさんの音が届くけれど、ヨルカの言う通り、二人のいる屋上には、二人以外に誰もいなかった。学校における屋上とは、案外、生徒たちに開放的な場所ではないのだ。学校行事の折はいざ知らず、平常時は立入禁止にしてあるほうがざらだろう。
だだっ広くて殺風景なその場所は、とても静かだった。適度な隔たりを持って届けられる放課後の喧騒は、無音よりも耳に心地よい、穏やかな静けさを作る。
端的に言い表すならば、至極平和、という感じである。
サンは、そうした空気に全身を浸からせているような、とてもぼんやりとした様子だった。
ヨルカはそんなサンをじっと見つめると、自分も彼と同じように手すりを椅子にして座った。肩が触れるほどに近い。ぼうっと眼下を眺めるサンの顔に触れる。ぴくりと反応を見せたので、そのまま自分のほうを向かせると、他の何物も視界に入れさせまいとするように顔を寄せた。そして囁いた。「天使みたい」と言って、彼を苦しそうにさせたのと、まるで同じ囁き声だ。
「サンは優しすぎたよね。十年もそうしてる。あの子たちだって、いつかは天使か、悪魔なのに」
サンはわずかに目をむいて、後は凍ったようになった。ヨルカは構わずその手を取る。
「ねえ、立って」
促され、サンがよろよろと立ち上がると、ヨルカは手すりの上―――無骨で頼りない足場を、戯れのようにわざとたどたどしく歩き始めた。
夜の気配を少し濃くした風が、二人の髪を煽り、服をばたつかせる。
吹けば飛びそうに、危うい。
ふざけた散歩を余裕の面持ちで楽しみながら、ヨルカは後ろを行くサンに話しかけた。
「サン。覚えてる?」
唐突な問いかけに、サンは顔を上げて、自分の手を引く少女の小さな背中を見た。
「覚えてるって、何を」
「『人間には、天使と悪魔がいる』」
サンが足を止めた。そうすることをわかっていたように、ヨルカも足を止める。振り向き、彼の瞳をひどくまっすぐに見つめる。
「覚えてる?」
「……ああ。覚えてるよ」
サンがそう答えると、ヨルカはいたく満足げに微笑み、また歩く。
―――そして、滔々と語り出した。
「『人間には、天使と悪魔がいる。それは、天使的性質と悪魔的性質という、二つの性質のことである。天使性を持つ者は幸せを呼びやすく、悪魔性を持つ者は不幸を招きやすい。人は皆、生まれたときから二つの性質のうちのどちらかを無条件に持たされていて、程度に差はあれど、自分や周りに絶えず影響を及ぼし、互いに複雑に作用し合いながら生きている。だから、この世に良いことと悪いこと、両方があり、そこに大小があるのは、あたりまえのこと』」
……ここまでを語り終えると、ヨルカは「続きを述べよ」というように、サンを見た。
サンはあまり気乗りしないようだったが、渋々、しかしすらすらと、後をつなげた。
「……『人は生きている間、自分の天使性もしくは悪魔性と戦っている節がある。強い天使性もあれば弱い悪魔性もあり、その逆もある。人は己の意志や努力、他者との出会いや関係のしかたで、知らず知らずのうちに自己の天使性、悪魔性に抗ったりもすれば、身を任せたりもしている。でも』……」
サンの語りが途切れる。ヨルカが、遮るように彼のほうへ身を乗り出したのだ。
サンはなんとなく察して、続きを譲った。
「―――『でも、天使性も悪魔性も、自分自身に作用するのは、生きている間だけ。人は死ぬと、それぞれの性質も魂にくっついて肉体からはがれ、そこからはどちらも、周囲の、生きた人間だけに作用するようになる。天使性、悪魔性とは、生者に対して働く性質。つまり』?」
「『天使的性質だった死者と、悪魔的性質だった死者。死んだ者たちの間では、それが、目には見えない「良いモノ」と「悪いモノ」、便宜的に「天使」、「悪魔」とも言い表せる、この世の、時に生者の身に余る大きさになって降りかかる、幸不幸の正体だったのかもと言われている』。……死んだときに、最初に死神から教わること、だね?」
「死神って、すごい。どんな死者にも、ほぼ全く同じに、教えるべきことを教えていくもんね」
ヨルカはそう言って笑ったが、次の瞬間には、すっと冷徹な顔になっていた。小さな賢者の顔。そのくせ甘えるように、サンの胸に額をこすりつける。
「ね、サン。私、ユラさんからこれを教わったとき、世界ってけっこう上手くできてるんだと思ったよ。性質は必ず、二つのうちのどっちか。だけど天使も悪魔も、性格は死者の数だけ、百人百通りなところ、世界は上手いと思った。……サンと会ったときには、もっとそう思った」
……腕が動く。
未成熟だけれど、自分のものよりは明らかに大きな、その体。ヨルカはそこに、およそ十二歳の子ども腕を可能な限りに巻きつける。
二回目の抱擁だ。そしてまた、囁く。
「強力な悪魔性。でもサンは、人が不幸に見舞われるのを厭う、悪魔」
それは、愛しそうで、楽しそうな―――そんな声だった。
ふと、細い肩に何かが触れて、おや、とヨルカは胸の中でぱちぱちと瞬いた。
どこか不遜な彼女を少しばかり驚かせたそれは、サンの腕だった。つまりは、サンもまた、ヨルカを抱きしめたのだ。あまり愉快そうでない声が、彼女の頭のてっぺんに落とされる。
「そっちこそ。ヨルカは、幸福の訪れを願わない天使、だろ」
サンのささやかな皮肉に、ヨルカはくつくつと笑った。
それはサンを少し傷つけ、彼は呻いた。
「……俺を、相殺できのに」
「できるよ。だから私、サンといるんだよ。この世の悪魔がサンだけで、天使が私だけだったら、それって最高なのになぁって、よく思う。幸も不幸もほどよくなって、人類史上最高に平和でしょ」
壮大な仮定に、サンは一瞬想像を働かせたようだった。が、すぐに重いため息をつく。
「勘弁してよ……。ヨルカが死んだの、俺より先でしょ。順番通りに転生したら、俺が残って世界が滅ぶ」
ヨルカがまた、くつくつと笑った。
―――二人は抱きしめ合った。ヨルカは力いっぱいなのに対して、小さな子どもの体を包むサンの腕のほうは、どことなく遠慮がちだった。
対照的な、二人。
彼らは、それを深く理解しているようだった。そしてその結果として、お互いを一心に求め合っているようなのだった。
情欲のような激しさの隙間から、命綱を握りしめるような必死さが見え隠れしていて、恋人と呼ぶのはためらわれる。
縋り合うようにじっと寄り添っている様は、痛ましくもあって、友人と呼べるだけの気安さは不足して見える。
ただ、二人は、適合しているのだ。
自分たちは、何になれる二人なのか。それはわからないまま、隣り合う相手を見つけられたことだけ、逃さず理解しているのだ。
やがて二人は、そっと離れた。
いつの間にか、空が燃えるようなオレンジ色に染まっていた。夕日が街をシルエットに変えてゆく。
―――夜がやってくる。
「暗くなるね。今夜はどこ行こっか」
「……ヨルカが、途中でどっかに消えないって約束してくれるなら、別にどこでも」
「いいよ、消えない。待たせる待ち合わせも、もう、しない」
「多分、がつくんだろ」
全く信用できない、というサンの態度に、ヨルカが美しくも不遜に笑う。
二人は屋上を飛び降りた。
地面に降りると、二人は敷地内を堂々と通って、まるで生徒のごとく昇降口のほうへ。途中、何人もの人間が二人の近くを通ったり、すれ違ったり、横切ったりしていったけれど、異質な二人の子どもの姿を、誰も気にも留めなかった。
二人は校舎のあちこちをゆっくりと通過した。―――その間、
美術室では大量のイーゼルが一気に倒れ、自分のものを片そうとしていた部員が呆然とした。
被服室では作業中の女子生徒の一人が机にひっかけて裁ちバサミを取り落とし、大きな刃が危うく肌をかすめかけた。
体育館ではボールを片づけようと用具室に入ったバスケ部員が、一枚飛び出していたマットに足をとられて転び、平均台の角に頭をぶつけそうになっていた。
他にも、あちこちで色々な危機が起こっていたのだけれど、これらの出来事において怪我人は一人として出ておらず、全てが間一髪のところで、事無きを得ていた。
門を出ると、二人はすぐさま地面を蹴った。
屋根から屋根へ。
電柱から電柱へ。
―――誰もいなさそうで、何も起こらなそうなほうへ。
夏の、遅い黄昏。
そのオレンジ色の空の中に、子どもの姿が二つ、とけてゆく。
その手は、いつまでもつながれている。