1話 とある不良の生涯
――そして、俺は目を覚ます。
暗い、暗い部屋。
あるのは、机と椅子。そして、柱時計。
タク、タク、タク、と振り子の音がやけに耳に響く。
(ここ、は?)
気がついたら、俺はここにいた。
数秒前か、数分か、或いは何時間か?
そこら辺の記憶はあやふやだ。
ただ、ぼんやりと椅子に座り、誰も座っていない対面の空間を眺めている。
何故、ここにいるのか理解出来ない。
解っていることは、自分の記憶にこの部屋は存在していないということ。
いや、この空間を部屋というには少々厳しいものがある。
ここには、壁も、床も天井も何も存在しない。
ただ、何もない空間に、幾つかの家具が浮いている。
物理法則を無視したその空間に、しかし俺は慌てることなく、ただぼんやりと目の前の空間を眺め続けている。
どれくらいたっただろうか?
宙に浮いた柱時計が、ボーンと音を立てる。
「それじゃ、時間だから始めますか」
声がした。
さっきまで誰もいなかった正面に、一人の女性が座りこちらの瞳を覗いている。
銀色の髪に、赤い瞳。この世のものとは思えない非常に整った容姿。
見ているだけで、平伏したくなるような神々しさが身体から溢れている。
「や、はじめまして、だね」
しかし、その口調はとてもフランク。その神々しさのせいで若干、違和感が残る。
「早速だけど、君、死んだから」
その女はフランクの口調のまま、とんでもないことを口にしてくる。
様々な要素が絡み合って普通であればパニックになってもおかしくない状況。
なのに……
「……はぁ、そうですか。では、ここはどこなのですか?」
そうか、自分は死んだのか。しかし、そう思っても何処か他人事だ。
面白いくらいに、心が動かない。
何というか、死っていうのはもっと重いものだと思っていたのだが……
「ん? 反応薄いねぇ。んーっと」
その女性がこちらの顔を覗き込んでくる。
「ああ、個性が失われている、か。ま、たまーに死のショックで個性を失うパターンあるけど、君もその口か」
そう女性はブツブツ、と何か呟いている。
「とりあえず、自己紹介といこうか。私は君達のいうところの神様、女性だから女神、か。名前は適当に呼んで。で、君の名前は?」
「俺、俺は……」
名前が出てこない。
「うーん、君には色々話をしなければいけないことがあるんだけど。思い出せないと話が先に進まないんだよ」
しゃーない、か。とパチン、と女神が指を鳴らすと、彼女と僕の間に鏡が浮かび上がる。
そこに写るのはのっぺらぼうの顔。
これが、俺?自分の顔を触ると、鏡の中ののっぺらぼうも、ペタペタと顔を触っている。
「うん、君はすでに肉体を失っているからね。自分が何者か把握出来ないと個性の無い顔になっちゃうんだよねー」
……いや、これはこれで個性が爆発している顔だと思うのだが。
「さてっと、この鏡、よーく見ててね」
「はぁ……」
鏡の表面がユラユラと揺らめき、そして光を放ち始める。
そして――
『おりゃあああああああああああ!!』
野太い男の声が響き渡る。
そこは、夜の公園。
公園の街頭に照らされた中、男達が殴りあっている。
それは、喧嘩だ。
ある者は木刀を担ぎ、ある者は素手で、円の中心の男に殴りかかっている。
『あ、兄貴。やばいッス。マジやばいッス。ここはさっさと逃げるべきッスよ』
『ばーか。サブ、ここで逃げたら男が廃るだろうが。それにこんな楽しいイベント、やめるなんて勿体無いっ!』
円の中心にいるのは、二人の男。
一人は、華奢な男。地毛らしき、金髪の髪をオールバックに固めた男。口元はマスクで覆っているが涙で潤んだ眼を見るだけでも、もう半べそだというのが解る。
もう一人は、華奢な男を守りながら、周囲の不良共から一歩も引かずに拳を振るう大柄な男。
身長は180を超えているだろうか?
学ランに、前髪を高く上げたリーゼント。その身体は全体的に太めの身体。しかし、太っている訳でなく、それが鍛え上げられた筋肉であることが解る。
昔の不良漫画から飛び出したかのようなその姿。拳を振るう度に、周囲の不良が吹き飛ばされていく。
その風景を見ると、自然と胸が高鳴ってくる。
胸が熱くなるこの空気。鏡の中の熱気が、俺の心を熱く燃え上がらせる。
ガン、と背後から木刀を振るわれる。
男は一瞬、しかめっ面を作るが、次の瞬間、その表情を笑みに変え、背後の男に拳で反撃する。
そうだ、金髪の男の名前は、ヤース・オルスタイン。ガキの頃からの幼馴染で、昔っから、兄貴、兄貴と俺の後ろをついて回ってたっけか?
身体が弱い癖に、俺と同じ高校で不良をやるような馬鹿で、だけど俺にとっては可愛い弟分だった。
そして、この古臭いリーゼントの男。こいつは……
鏡の中の光景に変化が訪れる。
乱闘は入り乱れ、円の外には何人もの不良が倒れている。
そして、リーゼントが拳を振り上げたその隙に、一人の不良がリーゼントの懐へと飛び込んで来る。
小柄な男。恐らく不良の格好をして粋がっていただけの男だろう。喧嘩慣れした様子もなく勢いで飛び込んできただけの男。
彼が本気で殴っても、リーゼントはぴくりともしないだろう。
だから、リーゼントも油断した。その結果、その手に持っていた銀色に輝く刃に気づくのが遅れた。
リーゼントの動きが止まる。その眼には驚愕の色が浮かんでいる。
胸には、ナイフの柄が生えている。
がふ、と男が血を吐き出す。
『あ、あにきーーーー!!』
サブが何か吼えている。
それに呼応するように、リーゼントは歯を食いしばり、目の前の小柄な男を殴りつけ、そのまま地面へと倒れ落ちる。
『兄貴!兄貴しっかりしてくれ!おい、救急車!早く救急車を――』
「――もう、結構だ。やめてくれ」
俺がそういうと、鏡は再び輝き、鏡の光景は消えうせる。
もう、無いはずの心臓がバクバクと音を立てている。
「あー、大丈夫?」
一分、二分と俺が顔を埋めていると、女神が申し訳なさそうに声をかけてくる。
「ああ、大丈夫だ」
顔を上げる。そこに写るのは、無骨なリーゼントの男。
鏡の中で暴れまわっていた男と瓜二つの容姿がそこにある。
再び、女神がパチン、と指を鳴らすと鏡がすっと消えうせる。
そして、女神は再び問いかける。
「さて、君は誰でしょうか?」
「俺、俺の名前は――」
カラカラに乾いた喉。身体から冷や汗があふれ出る。
しかし、自然と言葉が口から零れ落ちる。
「久遠誠一」
そう、それが俺の名前だ。