はじめてのおつかいがひどすぎる
※汚いので注意
お使いに行ってきて、と姉の陽子が言った。
「……だそうです」
月ノ介は、傍らで寝ている弟の風太に言った。風太はタオルケットの端をくわえたまま、ごろりと寝返りをうつ。
「あんたに言ってるのよ、あんたに」
陽子は棚の上から古びたバインダーを持ってきて、財布の入った袋と一緒に置いた。
「これ、回覧板。ウケノさんちに置いてきて。それから帰りにお米と豆を買ってきてちょうだい」
ウケノさんは、道を挟んですぐそこの家だ。でもスーパーマーケットは反対方向で、大通り沿いに十五分ぐらい歩かなければならない。
「遅くなったらどうなるかわかってるわね?」
「夜になります」
陽子が大声で笑ったので、風太が起きて泣き出した。タオルケットを投げ出し、泣き叫びながら転げ回り、畳を引きはがして投げ飛ばす。
行ってきます、と月ノ介は言った。
玄関で靴を履いていると、陽子の声がした。
「ちょっと、不用心にふらふら行くんじゃないわよ。変な人に会ったら助けを呼ぶのよ。その人を指してみんなに知らせるんだからね、わかった?」
風太の泣き声でよく聞こえなかったが、月ノ介は返事をして出かけた。
ウケノさんの家に着くと、両親は留守らしく、車も自転車もなかった。呼び鈴を押すと、色白で髪の長い女の子が出てきた。きらきらした目も長い睫毛も、おもちゃのアクセサリーのようだった。
「あら、ヨーコちゃんの弟ね。どうしたの?」
こんにちは、と月ノ介は言い、回覧板を差し出した。
「これ、持ってきました」
「わたし、タマミ。ヨーコちゃんと同じクラスなの。ねえ、上がってって」
タマミに腕を引かれ、月ノ介は玄関に入った。廊下は甘いにおいがして、居間にはガラスのテーブルと白いふわふわのソファーがあった。
「座って。ジュース飲む?」
「おかまいなく、です」
「ふふ。ヨーコちゃんは怖いけど、弟くんはかわいいのね」
タマミはぽってりとした唇で、せかせかと喋る。
「わたしね、お菓子作れるの。いっぱい、いっぱい作れるの」
「そうですか」
「海のお菓子も、山のお菓子も、何でも。ねえ、想像してみて。ケーキの上に広がる、魚の花畑。ゼリーに覆われたキノコとワラビ。その中にわたしたち、暮らしてるの。すてきでしょ、すてきでしょ」
そんなものは想像できない、と月ノ介は思った。でもタマミには見えているようで、何もないところに目線を泳がせてはうっとりしている。
「あの」
「ねえ、海のお菓子と山のお菓子、どっちがいい? 何でも作ってあげる。ヨーコちゃんは作ってくれないと思うけど、わたしは作ってあげる」
「ぼく、おつかいがあるので」
「待って……ううっ、すぐ……ぐぐっ、作って……あううっ」
タマミはソファーに座ったまま、体を折り曲げて震えた。月ノ介は立ち上がり、タマミのそばに行った。
「だいじょうぶですか」
「ああっ……うぐぐ、ああっ」
「救急車よびますか。消防車よびますか」
どうして消防車、とタマミは言った。そしてまた、うめき声を上げる。
「うぐっ、今、ああっ、海の……おぅっ、お菓子っ」
タマミは体を起こし、目を見開き、口を開けた。その奥から、嫌な気配と音がせり上がってくる。
「うぐっ、ぐぶっ、ごぶっ……ぶああああああっ!」
ものすごい勢いで、タマミの口から吐き出されてくる、白いクリームの塊、ちぎれたスポンジ、エビやクジラの形をしたスナック、いちご色の貝。土砂のようにテーブルの上に積もり、広がっていく。
ひとしきり吐き出すと、タマミは疲れ切ったように首をうなだれた。
「はあっ、はあっ、はあっ……まだよ、まだまだ」
「あの」
「はあっ、はあっ……やまっ、山の、ごぶっ、ごぶぁ……!」
タマミはテーブルの上に乗り出し、口からめりめりと何かを出した。巨大なキノコとタケノコの形をしたチョコがけのビスケット、オレンジ色のゼリー、栗のタルト、ゼンマイのようなキャンディ。ぼたぼたとテーブルに落ち、飛び散り、辺りは甘いにおいでいっぱいになる。
「さあ、食べて。わたしのお菓子」
「あの、ぼく、いいです」
「遠慮しないで。いくらでもある、まだ作れる。足りない? ねえ足りない?」
タマミは月ノ介の腕をつかみ、口からぼろぼろとチョコレートの破片をこぼした。いりません、と言うと、さらに顔を近づけてくる。
「だってあなた、かわいそう。いじわるなお姉さんとうるさい弟がいて、好きなこと何もできなくて、かわいそう」
月ノ介は一歩後ずさった。靴下もズボンの裾も、チョコレートやカスタードクリームで汚れてしまった。タマミは腕を強く握ったまま、離さない。大きく開いた口から、焼き立てのパンケーキのようなにおいがした。浴びせかけるように、土砂の音が近づいてくる。
たすけてください、と月ノ介は言った。そしてテーブルの上にあったバターナイフを取り、タマミの胸に突き立てた。
タマミはがくりと膝をつき、胸を押さえた。頬から血の気が引き、青ざめていく。
「どうして……どうして」
「変な人にあったら、その人を刺して助けを呼べって、姉が言いました」
タマミは這いずりながら、なおも手を差しのべてくる。
月ノ介はナイフを振り上げた。その瞬間、刃が鋭く光り、ぐんと伸びた。ゆるいカーブを描いた木の持ち手に、分厚く長い刃をたたえた、巨大な鉈に変わっていた。
月ノ介は鉈を振るい、タマミの頭をざん、と斬った。
次に手足を斬り落とした。
ひゅんひゅんと刃を走らせ、体もあっという間に斬り刻んだ。
鉈と自分が一体化したように、少しも重さを感じなかった。空気の抵抗さえもなく、体がひとりでに動いた。すぱっ、すぱっと切れていく感覚に、不思議な懐かしさを感じた。ずっと昔から、何千年も何万年も、こうして斬り続けているような気がした。
甘いクリームとチョコの海に、タマミの体が散らばった。
タマミはもう、苦しそうではなかった。うっとりした瞳に戻ったのを見て、月ノ介はほっとした。
しばらく見ていると、切り分けられた腕や胴体から、小さな芽が出てきた。太い茎が伸び、鮮やかな緑の葉が茂り、鞘が実った。やがて枯れ葉色に染まり、大きく膨らんだ鞘から豆が弾けて飛んだ。
タマミの足と両目からは、つんと尖った細い芽が出た。見る間に立派な苗になり、細く長く葉が伸び、茎の間からふさふさとした穂が生えてきた。穂は金色に光り、一瞬の花を咲かせた後、数え切れないほどのモミをばらまき落とした。
月ノ介は、静かに鉈を置いた。
綺麗な床の上に、米と大豆の山があった。その他には何もなかった。
夕暮れの迫る空に、カラスが鳴いて飛んでいた。
月ノ介はぱんぱんになった袋を引きずり、家に帰った。
「遅かったじゃない。どっかで倒れてるのかと思ったわよ。試食コーナーとか」
陽子は玄関で待っていた。抱かれている風太が、きゃっきゃっと笑いながら手を伸ばしてくる。
月ノ介は荷物をどさりと置いた。
「ちゃんと買ってきてるわね」
袋いっぱいの米と大豆を見て、陽子は機嫌よく言った。
「つかれました」
「あら、そう? その割には楽しそうな顔してるけど」
「ぼくはおつかいに向いてないですよ」
陽子が袋を抱えて奥に行ってしまうと、月ノ介は玄関マットの上に座り込んだ。
待っていたとばかりに、風太がよちよちと走り寄ってくる。よだれまみれの手で月ノ介の膝によじ登り、あそぶ、あそぶ、と言う。
買い物袋よりも重い、丸々した体を抱き上げ、月ノ介はつぶやいた。
「おうちがいちばんですよ、風太」