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猫はどこだ

作者: 法橋籐士郎

        1



 間土京太郎(まどきょうたろう)は臍を曲げていた。リンカーン坐像のようにどしんとベンチに腰を据え、下唇を突き出している。普段に輪を掛けて貧乏揺すりの速度が速くなっている。

「まったくなんだ猫とは! 猫とは! 俺は飼育係ではないぞ!」

 甲高い、鼻に掛かったような間土の声が誰もいない昼下がりの公園に広がった。否、つい先刻までは子連れの母親が数人いた。間土と木更木修作(きさらぎしゅうさく)が口論しているのを見て怪訝に思ったに違いない、親子はポツポツ公園を出、今ではすっかり二人の独占状態となっている。

 賢明な判断だ、と木更木は間土の茄子のような顔面を見ながら思う一方、謝罪の念も感じた。

 だが、自分はこのどうしようもない穀潰しを宥めねばならない。ベンチに腰掛ける間土を木更木は同じように座って横から見た。

「あ、今俺のこと穀潰しと思ったな」

 見透かされて、木更木は反射的に「すんません」と謝った。まったく間土という男は変な所で冴えている。その直感力が彼の懐に金銭を振り込んでいるのだが。

 見事な球形のもじゃもじゃ頭を毟るように掻きながら「なんて日だ」と間土は唸っている。こうして見るとなるほど矢張り間土の顔面造形は奇妙である。顔は長く、下膨れていて、髪は全方向均等に盛り上がっている。茄子にカリフラワーを付ければ間土京太郎の頭部のデフォルマシオンが完成する。これは殆ど妖怪である。また、木更木は見慣れているが、間土の身なりは初対面では少し刺戟が強すぎるかも知れない。紅のチェックシャツをケミカルウォッシュ、否、ナチュラルウォッシュのジーンズに綺麗に仕舞い、律義にも釦を凡て留めている。靴だけは立派にトレッキングブーツを履いている。しかし木更木の記憶するうち間土が登山乃至ハイキングに出かけたことは一度もない。

「でもせっかく入った依頼なんですから、文句は云えないですよ」

「木更木君は何も判ってない。いいかい、俺は探偵なんだよ。探偵は血生臭い事件を欲しているんだ。夫の不倫なんぞに興味はない。ましてや猫! 猫捜しなど鼠にでも頼めってんだい」

 そう云って、流離(さすらい)探偵間土京太郎は大きく伸びをし背中を逸らせた。天は地上のカリフラワー茄子と助手の状況とは裏腹に、雲ひとつ浮いていない晴天が無辺際に拡がっている。時折吹く九月の風は心地よく頬を撫でる。しかし間土は風情を味わう気もないようで、ただ頻りに「猫猫仔猫」と云っている。


 ――猫を捜してほしい。

 流離探偵間土京太郎の許に依頼の電話が来たのは、彼と助手木更木修作が公園で問答する数時間程前、十時になるかならないかのことだった。依頼人の女性はJR河内小阪駅前でアルバイトの男性がポケットティッシュとともに渡してきたチラシを見て電話をしたと云う。その男性と云うのが実は木更木で、短期アルバイトをする傍ら流離探偵間土京太郎の存在を宣伝することがひとつの任務となっていた。河内小阪に来て三日目、漸く見つけた客だった。

 電話応対をした木更木は(間土は携帯電話を持っていないので必然依頼の窓口は木更木の担当となった)十一時に小阪商店街のM喫茶で待ち合わせることに決めた。

 流離探偵は日本全国津々浦々を行脚し、土地々々で煩悶の渦に苛まれる弱き人々を救う世界で唯一の市民的探偵である――間土は己の身分をかく述べている。が、体良く云っているだけで、俗語に翻訳すれば単なるニートである。大学卒業後就職もせず放浪し今に至る間土は、自らに「流離探偵」の名を付与していた。しかし、木更木が思うに、少年の頃読み漁った探偵小説に現れる探偵たちはこんなに頼りない風貌をしていない。かの金田一耕助は風采の上がらぬ探偵として有名だが、「風采の上がらぬ」と云う点では間土に遠く及ばないと思われる。そして、腕のある探偵は「猫捜しは御免だ」などと拗ねることもないだろう。

 だがそれでも、木更木は間土を慕っている。彼には一宿一飯の恩義があるのだ。

 流離探偵だから無論探偵事務所などと云う便利なオフィス兼住宅はない。依頼人との面談は大抵喫茶店で行われる。偶にそのことを訝る依頼人もいるが、そのときは笑って誤魔化している。

 かてて加えて、起居するための家すらない。漫画喫茶やカラオケ店、お金のあるときはビジネスホテル、ないときは橋の下に寝床を作っている。収入源は探偵の依頼料と木更木の短期アルバイトの給料で、それを二人で分け合う。毎度荷物は駅のコインロッカーに預けている。この日は河内小阪駅のそれに預けてきた。

 約束の時間の二十分前にM喫茶に入り、店内奥の、可及的目立たない席を選んだ。間土と木更木はソファ席に並んで腰掛け、依頼人らしい女性が入店するのを待った。店内に客は疎らで、二人の席から入口の扉がよく見えた。

 注文票を手に店員がやって来た。木更木が連れがいるからまた後で呼びますと云うと、店員は頷いて去って行った。

 十分後、入口の扉が揺れ、手提げ鞄を提げた小柄な女性が入って来た。きょろきょろと視線を彷徨わせ、店内を見回している。地味な色のワンピースの下に、細身のデニムが覗いている。彼女が恐らく依頼人の女性だろう。若い女性が喫茶店に来るにしては服装が少々簡単に思えたからだ。

 女性の方でもこちらを認めたようだ。それも道理で、今日日どこの成人男性二人が仲良く肩を揃えて椅子に座るだろうか。少なくとも木更木はそのような光景を自分たち以外に見たことがないし、また見たくもない。しかしこれが依頼人に対する合図なのだから、甘んじてそうしているのである。

「あのう、探偵さん、ですか……?」

 女性は二人の座っている席に近付くと、小声でそう云った。その目はしっかり木更木に据えられている。

 間土の外観は周知の通りだが、木更木はなかなかどうしてきちんとしている。頭髪は短めで、顔の各部品も悪くない配合である。ジーンズに薄手のテーラードジャケットを合わせ、傍から見れば好青年と云っても可笑しくない。唯一の弊害は粗十割の確率で自分が探偵だと勘違いされることだ。木更木は毎度のことで慣れてしまったが、真実の流離探偵殿は御馴染の茶番に辟易としている。

 案の定、間土は顔を豊かに歪ませて、

「流離探偵間土京太郎は俺です。この男は木更木君。更を木でサンドウィッチの木更木君」

 と不貞腐れた。

「まあ、どうぞ、座ってください」

 木更木に勧められ、依頼人は椅子を引いた。間土に気を使ったのか、間土の正面に座り、手提げ鞄を隣の椅子に置いた。

 これで良い。これで依頼人の顔は殆ど誰からも見られることはない。依頼人を入口に背を向けるように座らせる――依頼人のプライヴァシーを考えた木更木の提案だった。

 化粧は薄いがそれが逆に彼女の魅力を引き立てているのかも知れない。肩口まで延びたストレイトの黒髪は艶があり、店内の照明が明るい光輪をそこに落としている。目を伏せがちなのは緊張しているからだろう。探偵の依頼人には往々にして見られることだ。

「割とすぐ見つけてくれましたね」

「ええ、電話で仰ってましたから」

 木更木は電話で「奥の席で仲良く肩を並べて座ってる成人男性二人組がいればそれが我々です」と云っておいた。

「いえ偶に間違えられる方もいるんですよ――」

 先ほどの店員が再びやって来たので木更木は一旦言葉を飲み込み、コーヒーを二つ注文した。間土だけはダージリンを頼んだ。にこやかな顔のまま店員は下がって行った。

 コーヒーとダージリンが運ばれてきた。木更木はコーヒーを少し啜り、本題に入った。場の進行も木更木の役目だった。

「それで、ええと」

「あ、失礼しました。私、三丘礼子(みおかれいこ)と申します」

「二十七くらいだ」出し抜けに間土が云った。

 三丘は多少驚いたようで、熱林に住まう彩色豊かな昆虫を見るような目で間土を見つめた。恐らく図星なのだろう。間土の売りは野性動物並の直感力であり、探偵は二の次である。

「こんなの朝飯前なんです」と木更木は援護射撃を忘れない。「で、三丘さん。早速お伺いしますが、今回はどんな依頼で?」

 ええ、と三丘は手提げ鞄を膝の上に置き、

「これなんですが」

 一葉の写真をそこから取り出しテーブルの上に置いた。

 間土は腹筋運動でもするかのように身体を丸め写真を覗きこんでいる。お陰で木更木には間土の惑星頭の頂点しか見えなかった。「ふふん」と鼻で唸ると、間土は見たか木更木君と云ってダージリンを口に運んだ。カリフラワーを被った茄子がダージリンを飲むとは世も終末だなあと思いつつ、「見てませんよ」となるべく素気なく云って写真を手に取った。


 猫だ。写っているのは見紛う筈もなく猫である。


 どこかの草原で撮られたものらしい。中央に、四肢を上手に収納し背を屈め、じっと瞑目している猫が写っている。全体的に白い毛並みで、頭部と首周り、背中の一部に黒い毛が混じっている。木更木は猫のことなど頓と判らないから、写真の猫が何という種類なのか判断がつかない。ただ猫と呼ぶ他方法がない。

「こんな感じです」

 写真を見つめる木更木とソファに踏ん反り返る間土を交互に見遣りながら三丘は云った。

「この猫を――」木更木が写真をテーブルに置く。

「捜して欲しいんです」

 木更木はちらと隣の間土を盗み見た。案の定、間土は茄子の顔を歪め、さも面白くないと云った表情をしている。間土が好むのは派手な事件ばかりで、こういう動物捜索には驚くほど興味を示さない。

 これは不味い。木更木は速やかに段階を進めることにした。

「いつ頃からいなくなったんです?」

「ええ、それが、はっきりとは覚えていないんですが……」

「場所に心当たりは」

「猫は逍遥好きですが自分の拠点を持ってます。だからそんなに遠くには――町を出てはいないと思います」

 ホウ、と頷く木更木の横で、先ほどから間土は例の写真を睨んでいる。

「時に、名前は何と云うのです」

「え」

「あ、そのう、猫ちゃんの名です」

 ああ、そうですね、と三丘はどこか歯に物の挟まったような答えをした。

「猫は名前を呼んでも知らぬ顔をしますから知っておく必要はないかと」

 目を伏せ、一息に、三丘は云った。

 おや、と木更木は思った。だがそれも刹那、動物捜索の依頼人は大抵精神不安定の状態でやって来るから三丘も大層動揺しているのだろうと思い直し、先を続けた。

「然様ですか。判りました。ではこの写真は」

 と云って間土を見た。間土は「なんだ」と云わんばかりに目を攻撃的な鋭さまでに細めた。その手に写真は握られていない。

 木更木の視線に気付いたのか、間土は、

「写真は俺が預かるよ」

 とぶっきら棒に云い、ダージリンを咽喉に流し込んだ。まったく、やる気があるのかないのか判らない。

「――と云うことですので三丘さん。後は我々を大いに信頼してのんびり月見でもしといてください。我々に掛かればこの案件、一週間の日を待たずして」

「三日だ!」

 間土の叫びは静謐とした店内を圧倒した。恐らくM喫茶史上随一の大音声だったに違いない。

「では今日を含め三日で。明後日の酉の刻――午後六時までに御捜しの猫助をあなたの許に連れて参りますよ」

 それから木更木は報酬金額の取り決めをし、三丘の連絡先を書き留めた。三日宣言で探偵の尊厳を固守できたとでも思っているのか、間土は以降一言も喋らなかった。

 明後日に木更木の携帯電話から連絡を入れることで話は終わり、三丘は深い辞儀をして店を後にした。勿論コーヒー代は探偵側(凡て木更木負担)が支払う。顧客確保のためのサーヴィスである。

「間土さん。僕たちも行きますか」

 ん、と鼻音で答えて、間土は席を立ちそのまま店を出てしまった。矢張り今回も木更木の懐から経費は出されるようだ。しかしこれも最早習慣的になっていて、寧ろ間土が奢ると云った方が不気味で落ち着かない。

 木更木は伝票を持ち、席を離れた。そのとき視界の端に、三丘の席のコーヒーカップが見えた。

 コーヒーはこれっぽちも飲まれていなかった。



        2



 終にベンチに臥せてしまった間土を見降ろしながら、木更木は腹の底からため息をついた。

 空は相変わらず絵具でも垂らしたかのような青色で、何処からか鳩の鳴声が聞こえてくる。嗚呼、世間はかくも穏やかで平和である。しかし自分たちはどうだろうか。気分屋の扱い難い先輩を前に、木更木は儚んだ。環境が良だからと云って、必ずしも人間がそれに順応するものではないらしい。人間と自然は絶対的な附着関係にあらず、故に人の自然破壊は止まることを知らない。もし両者が分離していなければ文明はここまで発達しなかっただろう。

 周囲の平和的画と相対すると、木更木の立場は一層の憐憫を帯びて見えた。

「さあ間土さん。そろそろ行きましょうよ。時間無くなりますよ」

 応答はない。

「今日入れて三日しかないんですよ。そう云ったのあんたでしょう。ほら、起きて」

「俺はね、猫捜しなんぞに時間掛けたくないから三日と云ったんだ。それだけだ。一週間なんて木更木君、あり得んよ。こんな依頼はちゃちゃと片付けてしまうに限る」

 M喫茶での三日宣言は探偵の矜持などではなく、ただ怠惰心に因るものだったらしい。

 大学時代、間土はここまでぐうたらな男ではなかった。確かに他人と一線を画す奇人であったことには変わりないが、探究と求道に日々没頭する学究の徒だったと木更木は記憶している。学部で学ぶことには一切興味を示さず、そのときの気分で専門を変えると云う天邪鬼ではあったが、それでも追求の姿勢は素晴らしかった。

 それが今ではこうである。しかし考えてみれば、なるほど興味のないことには尽力しないというスタンスは貫いている。ただ少し怠け精神が露見しただけなのかも知れぬ。

 だがそれは行動に縛りのない大学生だったからこそ許されていた訳で、今はそうはいかない。これはビジネスなのだ。我儘は通らない。

「仕事なんですからやらないと。報酬貰えなかったら僕ら飢死ですよ。嫌だなあ」

「それは嫌だ」

「でしょう。だったら起きて、捜しに行きましょう」

 間土は痩躯を重そうに持ち上げ身を起こした。手をカリフラワーの中に突っ込み形を整える。

「お金は欲しいから仕方なく動くか。でも猫なんて其処等辺にいるだろうが」

「何云ってるんですか。依頼された猫を捜さないと意味ないでしょう」

 ああん? と間土は目を細め何やらぶつぶつ口の中でつぶやいた。何と云ったのか、木更木には聞き取れなかった。

「――兎に角、始めましょう。時間があまりないんで手分けしてやりますか」

「おう」

 間土は云いながら歩きはじめていた。さしもの間土も背に腹は代えられないようだ。木更木はそれがなんだか可笑しくなってくすくす笑った。

「何が可笑しい」

 驚嘆の聴力である。十間ほど先から間土は木更木の笑い声を聞き咎めた。

「いえ何も。あ、間土さん、六時頃に河内小阪駅前集合で」

 右手を挙げて、間土はまた歩き出し民家の陰に見えなくなった。

 木更木は間土とは反対の方向を捜索することに決めた。猫捜しのコツは猫に為り切ることである。猫の動き、興味、歩調、凡てを明確にシミュレイションしなければ彼らの跡を追うことはできない。

 当然目撃情報も大事である。聞き込みを怠っては任務完了など夢のまた夢だ、と云うことは経験則からはっきり判る。

 と、ここで木更木は、猫の写真を間土が持ったままだと云うことに気付いた。だが猫の姿形毛並みは海馬に刻まれている。写真はこのまま間土に預けておいて問題あるまい。

 猫はどこだろうか。木更木は景気付けに、にゃあ、と鳴き真似をしてみた。

 返事はなかった。


        *


 一時間程粘ってみたが、目当ての猫はいなかった。と云うより、猫がいなかった。

 不思議なもので、普段特別の関心を払っていないときは頻繁に見るのに、いざ意識して捜してみようとすると途端に姿を現さなくなる。ならば捜すのを止めてしまえばいいかと云うとそうでもない。一旦意識を向けてしまえばそれは暫くの間効力を持ち続ける。

 住人以外通ることのないであろう狭い路地にも、木の陰にも、道の側溝にも、塀の内側にも、何処にももふもふ毛玉の哺乳類はいなかった。人の身体では到底通れないような隙間も覗いてみたが駄目だった。途中スーパーで生魚を買い誘き出そうとしてみたが、これも結果は同じだった。そもそも木更木は御魚を銜えたどら猫を見たことがない。

 河内小阪の町は民家の棟々が押競饅頭のように犇めいていて、土地勘のないものには宛ら迷宮である。悄然と歩いているうち木更木は現在地を失してしまっていた。

 見れば右も左も木造の戸建てが続いている。幅の狭い路は真っ直ぐ延び、その先には寺社が見える。ほんの少しだけ傾いた陽が甍を照らし、その陰を通りに落としていた。腕時計で確認すると、針は午後三時を過ぎていた。

 日没まで三時間はある。日が暮れてしまう前にもう一踏ん張りしよう。

 動物を捜すときひとつの指標となるのが糞尿である。排便の形跡があればそこは動物の縄張りと推測される。木更木は塀の下や茂みを丹念に検査した。だが、そのような跡は見当たらなかった。

 愈々途方に暮れていると、ふと戸建ての壁に貼ってある貼紙が目に入った。

 迷猫捜索に行き詰っていた木更木は、米粒程の情報でも載っていないかと一縷の望みを抱き、貼紙を覗き込んだ。それは貼られてまだ間もないらしい。皺が殆どなく、インクの色落ちもなかった。


  最近、当地域で猫・鴉・鼠等野性の動物による被害が多発しております。

  元来我々人間と動物は均衡を保ち共存していく必要があり、互いの領域への通行は両者の特別な契約がある場合のみ許されることです。それが今、破られようとしています。人間と動物との不可侵関係はあろうことか、動物側に因って崩されているのです。

  そこで我々は、動物と人間の生活を一時分離しようと考え、現在様々な対策を講じております。塵収集所に網を張るという簡単なことから、町内各地に超音波発信器具を設置するなど、その活動は多岐に渡っています。

 より住み易い町にするには皆々様の協力も必要です。是非とも貴方様の御手を御貸しくださいますよう、よろしくお願いいたします。

                                        生活改善委員会 


 文体は丁寧だが、内容は頗るラジカルである。上辺だけを見れば、生活を改善・向上させようという健康的なものにも取れるが、その実曖昧な記述が多い。「動物と人間の生活を一時分離」するとは具体的に何をするのだろうか。「活動は多岐に渡る」らしいが、これもどうとでも解釈できる書き方である。生活改善委員会というのも取って付けたような名称だ。

 いずれにせよ、穏やかではない。目下の任務を一時忘れ、木更木は貼紙の内容に気を巡らせていた。

「あのう、もし?」

 不意に背後から声を掛けられ、木更木は電撃が走ったかのようにぴくりと総身を震わせた。慌てて振り返ると、薄い白髪頭の男性――六十代後半くらいだろうか――が妖怪図画集でも眺めるかのような目を向けていた。

「どうされましたかな。この辺じゃあ見掛けん顔ですが、どちらさんでしょう」

 誰何と云うより尋問の雰囲気を帯びている。

「いえ別に。確かにこの辺の者ではないですが、怪しい者でもありませんよ」

 木更木は努めて冷静に答えた。が、男性の警戒は一向に解けていない。

「私は怪しいとは一言も云ってませんよ」

「そうですか。そうでした」

「ただ住民の方から変な男がいると聞いたもんでね。なんでも彼奴は塀の中や家々の隙間なんかを覗いてるようですわ」

 それは反駁の余地もなく木更木だった。伝聞の形で自分の行為を聞くと、なるほど確かに変な男である。

「ははあ、そのような輩が」

 とりあえずここは白を切り様子を見ることに決めた。

「ええ。この御時世物騒なことばかりですから。どんな賊がいるか判ったもんじゃない」

 男性は大袈裟に咳いた。肉の垂れた頬が波打つ。肌色のセーターは腹周りの脂肪ではち切れんばかりに膨張している。

「ところで、あなたは?」今度は木更木が訊いた。変な男に逆に質問され驚いたのか、男が小さく「え」と洩らすのが聞こえた。

「私か」また大仰な咳をして、「私はこの町の町長だ」

「あ、町長さんですか。これはこれは失礼いたしました。人様の町に勝手に踏み込んでしまい」

「いやそれは構わんがね。ただ住民に怪しまれる行動は慎んでくださいよ。あんたもくだらんことで御縄なんぞ頂戴したくないでしょう」

 矢張り町長は木更木を要注意人物と見なしているようだ。町を治める者としては殊勝なのかも知れないが、当の木更木にとっては有難くもなんともない。

「ええ御免です。ところで――」と木更木は例の貼紙に目を向けた。町長であればこの貼紙について何か知っているかも知れないと思ったのだ。

「なんですかな」

「この貼紙、ちょっと気になったんですけど、これって一体……」

 町長は露骨に厭な顔をした。面倒な輩とこれ以上関わりたくないとでも思っているのだろう。

「それが何か」

「随分と穏やかでないことが書かれてますけど、何かあったんですか? 動物と人間の生活を分離させるって余程でしょう」

「ああ、それはね、最近動物による被害が実に多いんだよ。鴉が塵袋を破るなんてことは何処の町でもあるだろうが、ここでは特に猫の問題が多い。猫が縁側で便をしてるだの、庭に置いておい野菜を食い散らかしただの、この前なんぞ飼ってた小鳥を野良猫が飲み下したなんて報告もあった。それ以来自治会ではいろいろ対策を講じてきたんだが、どうも巧くいかんくてね」

「へえ。で、この生活改善委員会って云うのは」

「私もよく知らんがね、どうやらそう云った被害を食い止めるための団体らしい」

「町長さんも知らないんですか?」

「あんた知りたがるね。矢ッ張り怪しいな。……実体がないんだよ。あるのは名前だけ。それに別段悪事を働いてるわけではないから、こちらとしてもどうする訳にもいかんのさね」

 自分でも話し過ぎたと思ったのか、町長は額を掻きながら、

「町内を回るのは自由ですがね、あんまり奇妙なことはしないでくださいよ」

 と云って通りを歩いていった。

 町長の背が通りの陰に消えると木更木は猫捜しを再開した。その間も貼紙のことが頭から離れなかった。猫捜しの方は依然成果を挙げられず、気付けば西の空は朱に染まっていた。

 もうじき間土との集合時間が来る。口惜しいが今日はこの辺で切り上げるしかない。

 木更木は肩を落としながらも、河内小阪駅へと向かった。間土へ報告できることと云えば生活改善委員会のことしかない。依頼に直接の関係はないかも知れないが、念のため報せた方が良いような気がしてならなかった。


        *


 河内小阪駅前で合流した間土と木更木はその足で商店街の定食屋に向かった。定食屋で間土に捜査結果を聞いてみたが、それは木更木となんら変わらなかった。

 食事中木更木が例の貼紙の一件を云うと、意外や間土も同じ貼紙を見たと云う。

「なんだか胡散臭い団体名だったな、忘れたけど」

「生活改善委員会です」

「そうだっけな」

「貼紙を見てたとき町長と名乗る人に会って話を聞いたんですけど、どうも実体の判然としない団体だそうですよ」

「へーえ」

「別に悪事を働いてると云うわけでもないから町長もどうすることもできない、と」

「ふうん、町長がねえ」

 定食屋を出、二人は再度駅に戻りコインロッカーに預けていた荷物を取り出した。臥所を持たぬ者らしく、荷物は非常に嵩張っている。万一野宿の場合に備え、シュラフやランタン、テントなどのアウトドア用品も入っていた。

「さて、今日の宿はどうしますか。この辺は漫喫もなさげですが」

「公園だ」

「えっ」

 木更木は思わず頓狂な声を洩らした。真夏の背が過ぎ去りつつあるこの時期、夜はめっきり秋の気温である。七月や八月であれば野宿もまだ耐えられたが、これからの季節そうはいかない。それに気候の転換期は風邪を引く可能性がぐっと高くなる。

 気乗りしない木更木を置いて、間土はさっさと歩き出していた。こうなると間土を翻意させることは難しい。それは木更木が一番よく知っていた。

 昼過ぎ間土が駄々を捏ねていた公園に二人は戻って来た。陽はすっかり沈み、公園の縁を沿うように並んでいる外灯が青白い円錐を作っている。公園内に人はおらず、ただ彼方此方から鈴虫の鳴声が聞こえるばかりである。季節はすっかり移行している。

 なるべく一目に着かないよう、テントの設置場所には薄暗い茂みを選んだ。乱雑に生えた雑草に足を踏み入れると、秋の虫の翅音が一層厚みを増して木更木たちを包んだ。

 テントの設置場所を暫定すると、間土と木更木は町の銭湯に向かった。一日の疲れを湯で洗い流す。髪洗いをしているとき、間土が「木更木君、背中を流せよ」と命令してきたが、木更木はシャワーを解放値最大にまで捻り聞こえぬ振りをした。「野郎に背中を流してもらうほど俺は困っちゃいない」と強がる間土の声が聞こえた。

 


        3



 翌朝、鼓膜を揺るがす重低音鼾によって木更木の瞼は開けられた。寝起きのひしゃげた顔で横に眠る間土を睨めつける。鼾は他人には耳触りなのに、どうして本人はこうも平気でいられるのだろうか。まったく迷惑な話である。

 腕時計を見ると午前七時を少し過ぎている。木更木はシュラフから身体を出し、テントの外に出た。太陽は既に活動していた。

 テントを張って野宿をする際に木更木が一番に留意しているのは朝の片付けであった。夜は暗闇が視界を遮ってくれるのであまり通報されることはないのだが、陽が昇ると別である。なるべく住民が起き出さないうちにテントを片付けてしまわねばならない。

 木更木は爆睡中のカリフラワー茄子の頬を二、三度叩き、強引に起こした。寝起きの間土は普段の間土に輪を掛けて面倒である。起きてくださいと木更木が云うと、ぐぅううんと重機のような唸り声を発して身体を反転させる。テント片付けますよと云うと、厭だ君がやれと不明瞭な発音で云う。朝飯ですよと云うと、お、もうできたのかと柔和な声になる。テント片付けてからですよと云うと、矢ッ張り厭だ君がやれと身体をもぞもぞさせながら云い、二度目の睡眠に堕ちてしまった。

 仕方がないので木更木は間土をシュラフごとテントの外に引っ張り出し一人でテントの片付けをはじめた。燦々に降り注ぐ朝陽を浴びるうち、漸く間土が目を覚ました。起きるが早いか、間土は、

「おい、なんで俺は外で寝てるんだ! テントは何処に行った!」

 と怒鳴った。木更木は無視をした。

 商店街の弁当屋で弁当を買って食べた後、二人はまた別行動を取ることにした。本来であれば共に行動をした方が捜査の密度は上がるのだが、今回は時間が限られているので効率性を優先させるしかない。木更木としては間土が本当に猫を捜しているのか怪しいところだが、そうは云っていられない。

 民家犇めく町へ、木更木は足を向ける。


        *


 昨日同様、木更木は猫の行動範囲を常に頭に想像しトレイスした。民家と民家の隙間でも、横歩きで行けそうな所であれば少々の無理をした。

 しかし、一向に猫は見つからなかった。

 猫はどこだ。まったく進捗しない状況に腹立ちを通り越して可笑しみが湧いてくる。もしかするとこの町には猫はじめあらゆる動物が生息していないのではないのだろうか。原因――それは言わずもがな生活改善委員会の仕業である。その多岐に渡る活動に因ってこの町は人間のためだけの居住地となっているのではないだろうか。

「どちらさんだね」

 木更木の思索は急な呼び掛けによって断ち切られた。なんだか昨日を繰り返しているようである。二日連続で怪しまれては堪らないと木更木は平静を装い振り返った。

 昨日と違ったのは、それが薄い白髪の男ではなく、間土のカリフラワーを縮小させたようなパンチパーマヘアをした五十女だったと云うことだ。女は木更木を前にして微塵も臆する様子もなく、寧ろ「何か悪さをしてみろ。然すればお前の首は地に落ちるぞ」と云わんばかりの目をしている。これには木更木も一瞬狼狽えた。

「何か用かい」

 女は恰幅の良い身体をずんと押し出してきた。

「いえいえ別に。ただの散歩ですよ」

「ただの散歩ならどうしてうちの前で棒立ちしてるんだい」

 云われて木更木は自分が人様の家の玄関先で突っ立っていたことに気付いた。どうやら女はこの家の人らしい。両手に飽和したスーパーの袋を提げているから十中八九買い物帰りなのだろう。

「そこどいとくれよ。……怪しいねえあんた、泥棒かい? 見てくれは悪くないんだし若いんだから人生棄てるのまだ早いよ」

 女が戦車のような身体を強引に動かしてきたので木更木は避けるほかなかった。それにしても見てくれと人生の相関関係とは何を根拠に云っているのか問い質したかったが、その思いは呑み込み別の件を訊くことにした。

「あのう、すみません」

「え、なんだい」

「ひとつ御訊ねしたいのですが」

 聞き込みは大切な捜査手段である。捜査の基本は足と対話だと物の本で読んだ記憶がある。間土に対話力がないと知っている以上、聞き込みは自分が担うしかない。

「ちょっと待っとくれ。荷物置いてくるから」

 女は意外と簡単に諒承し、どたばたと屋内へ入っていった。数分後、草臥れたエプロンをして女が戻ってきた。

「お待たせ。で、なんだい」

「実は僕、猫を捜しているんですが」

「猫だって?」

「はい。ええと、毛の色は白で――」

 毛の色は白で、所々が黒い。だがその比率や正確な位置は忘れてしまっていた。昨日はもう覚えたと思っていたのに、まったく人間の記憶力は当てにならない。

「毛の色は白で、頭と背中等辺は黒です」

 確かそんな感じだった。

「さあ、知らないねえ」

 女は埋もれてすっかり見えない首を傾げた。

「そうですか」

「悪いねえ。――でも兄ちゃん、猫なら早く見つけてあげないと厄介なことになるよ」

「そうですか……え、厄介?」

 木更木が云うと、女は「あまり大きな声では云えないけど」と途端に声を顰めた。

「この町で猫と云ったら大変な厄介者だと思われてるのよ」

「あ、もしかしてあの貼紙」

「あんたも見たかい。そうなのよ。野良猫がいろんなとこで悪さしててねえ。うちでもこの前縁側にされたわよ、でっかいの」

 昨日町長が云っていたのはこの御宅のことだったのか。

「まあ私はそこまで神経質になっちゃいないけど、そう云うのに煩い人たちもいるみたいよ」

「そんな事情が……でも変ですね、僕は昨日から猫捜しをしてますが、野良猫一匹会いやしませんよ」

「それはあんた」と女は云うと、周囲をきょろきょろと見回して、

「なんでも悪さをした野良猫は捕獲されて、中には殺処分される猫もいるらしいわ」

「殺処分ッ!」

「しッ! 声がでかい!」

 あいすみません、と木更木はぺこりと頭を下げた。しかし脳内ではこの新情報がぐるぐる旋回していた。

「噂よ、あくまでも。捕まえて処分してが続いてるから野良猫がいなくなったんだって皆云ってるよ。ホントのところはどうなんだろうねえ」

 あの貼紙にあった団体――生活改善委員会の所業に木更木は戦慄を覚えた。この件は今目下流離探偵間土京太郎が抱えている依頼とは関係がなく、木更木たちが嘴を入れる義理はない。しかし、偶然でも逗留している町に不穏な影が蔓延っていると知れば気になるのが人情であり、なんとか解決したいと思うのが探偵業を営む者の心理である。それに、依頼人三丘礼子の猫が誤って捕獲される可能性も無きにしも非ずなのだ。

「あんたが捜してる猫――あんたの猫なの? その猫――はまあ大丈夫だと思うけどねえ。捕獲の対象は野良ばかりだから。でも万一ってことがあるからねえ……」

 女は気の毒そうに木更木を見た。本当は自分の猫ではなく三丘の猫なのだが、依頼内容を云っては探偵の助手失格だと思い木更木は黙っておいた。

 兎に角、早急に猫を捜し出さねばいけない。

「情報ありがとうございます。じゃあちょっと僕、急いで捜し出しますんで。すみません突然」

「そうしなさい。私もそれらしき猫見掛けたら教えるわ」

 そう云われたので木更木はジャケットの内ポケットから名刺を取り出し女に渡した。名刺を見た女の目が見開かれるのが判ったが、木更木はそれについては敢えて述べず、ただ「では失礼します」と礼儀良く云って足早にそこを去った。


 町では動物処分の波が広まっている。女の話が凡て信用するに足るものなのかは判断できないが、行きずりの男にあれ程物騒な嘘を吐く必要もあるまい。そう云う話があると心に留めておいても無駄ではないだろう。

 しかし、その穏やかならざる噂は木更木から確実に冷静さを奪っていた。

 噂による不安と猫が見つからない焦りが綯い交ぜになって、木更木の行動はどんどん制御を失っていった。細かい箇所を調べることがなくなり、非常に大雑把に町を徘徊しているだけになっていた。途中何度か例の貼紙を見掛けたが、その度にどれほど破ってしまおうかと思ったか知れない。

 体力気力共々随分と消費した。木更木は近所のスーパーで弁当を買い、どこか丁度良い場所で昼食を取ることに決めた。

 スーパーから少し歩いた所に神社を見つけた。都合良く木製の腰掛けもある。木更木はそこに尻を据え、弁当を広げた。

 食べながら、木更木は間土に拾われた日のことを思い返していた。

 木更木が間土に出会ったのは大学入学して間もなく、桜の葉が中空に躍る頃だった。郷里を離れ学生寮で生活することになった木更木は、入寮直後、寮の廊下で隣に住む間土に出くわした。間土はその頃からカリフラワーの頭をしていて、服装のセンスも変わっていない。

 突然仙人のような男の登場に声を失していた木更木を見て、間土は「十八歳だ!」と云い放った。後で考えると、新しく入寮できるのは新入生だけだから、余程浪人生活を重ねていない限り十八歳くらいだと云っておけば間違いない。それでも木更木は、初対面の人間に挨拶よりも先に年齢の予想を云い放つ奇怪な男に惹かれていた。カリフラワーの後頭部を見つめながら、大学とは摩訶不思議だなあとつぶやいたのを思い出す。

 何度か話すうち、間土が木更木の三つ上だと判った。しかし木更木が入寮した時点では二年生だったので、浪人か留年かのいずれかを経験している筈である。それについて間土が言及したことは終ぞなかった。

 間土と木更木の関係が決定付いた契機は就職活動だった。木更木は精力的に就職活動に励み、幾社もの面接をこなしたが、不運にも内定を得ること能わず、そのまま四年生の後期課程に突入してしまっていた。

 木更木は寮の狭い部屋で慟哭した。大学生活は残すところあと半年、その間に内定をもらえなければ穀潰し決定である。実家は貧家と云うわけではないが、一年間余分に大学に通わせてくれるほどの余裕はない。だからこそこれまで留学などせず、きっかり四年で卒業することを決めていた。当然大学院に行く余裕もない。留年分はアルバイトをして貯金すればいいかと思ったが、そのためにどれほど働けばいいか判らなかったし、また来年も同じ轍を踏まないとも限らないので踏み切れなかった。

 安い酒を何缶も開け、木更木は酔いに任せ世を憂いていた。

 そんなとき、部屋のドアが乱暴に叩かれた。意識の定まらない頭を振りながらドアを開けると、そこには間土の茄子顔があった。間土は木更木を見るや、

 ――煩いぞ木更木君!

 と怒鳴り、往復ビンタを喰らわした。嘆くなら外で嘆け、俺の邪魔をするな、と云うと、間土はどういうわけかそのまま木更木の部屋に入ってきた。そして、空き缶だらけの机の前に座ると、飲み差しの酒を呷ってさらに図々しいことに新しい缶を開けていた。

 ――おい木更木君。君は俺に黙って酒を飲むなんて礼儀がないやつだ。さあ座れ。反省しろ。

 間土はミネラルウォーターでも飲むかのようにぐびぐびと酒を咽喉に入れた。そのくせあまり酒は強くないらしく、一缶開けるころにはすっかり頬に朱を帯びていた。

 そんな間土を見て、木更木は自分の境遇を話してみようと思った。間土への吐露はこの場合極自然なことだと、そのときは何故か強くそう信じられた。

 凡てすっかり話してしまうと、なんだか心が洗われたような気がした。

 ――ホウ、そんなことに悩んでたのか君は。馬鹿だなあ。就活なんて単なる儀式だよ。強いて参加する必要などない。

 ――そうかなあ。

 ――そうだ。そうに決まっている。俺が云ってるんだから。

 ――そう云えば間土さんは就職は……。今M1でしたよね、確か。

 ――君は俺の話を聞いてたのか? 俺はそんな集団催眠には掛からん。

 ――え、じゃあ学者ですか?

 ――探偵だ。

 ――え。

 ――日本で唯一の流離探偵になる。全国を行脚し迷える者どもを救ってやるのだ。

 ――流離探偵、ですか。

 ――うん。なんなら君も来い。助手にしてやる。給料は依頼人次第、幾らかは知らん。

 振り返ればとてつもなく危険な慫慂である。どうしてあのとき自分が素直に頷いたのか、今でも木更木は納得の行く答えを見つけられていない。酒に酔っていたからか、失意のどん底にいたからか、定かではない。だがその御陰で刺戟的な日々を送れていることは確かである。間土を扱うことには未だに慣れぬが、癖だらけの人間だからこそこのような生業も続けられているのであろう。

 人の手を離れた迷い猫は拾われて生き延びる。拾い主が現れるかどうか、それは待つ者の運に託される。

 弁当を攫うように平らげ、スーパーの袋に入れ口を閉じた。周囲を見回すが塵箱はない。詮方ないので持ち歩くことにした。

 

 ――にゃあ

 

 そのとき、微かに猫の鳴く声が聞こえた気がした。周りを素早く見渡す。が、何処にも姿は見えない。

 任務に没頭するあまりに生まれた幻聴だろうか。そう思っていたところに、今度は先程よりも明瞭な鳴き声が耳朶を打った。確かに猫はいるようだ。

 声の発信源を探る。瞑目し、聴覚に神経を集中させた。

 声のする方へ、ゆっくりと足を動かしていく。

 一歩、二歩、踏み込む毎に、ヴォリュームのつまみは上げられていく。

 鳴声の方向を最大限限定し、

 目を開けた。

 

 毛並みの美しい猫が、社殿の下に蹲っていた。

 

 社殿の下は陰になっているが、それでも猫の毛並みの端正さは判った。全身を白い毛で覆い、所々に黒の毛が生えている。ビー玉のような眼を大きく見開き、じっとこちらの様子を窺っている。身じろぎもせず、ただ時折にゃあと鳴くばかりである。

 木更木の記憶にある猫と今相対している猫は、ほとんど同じに見えた。

 だが、困ったことがあった。

「なんで……二匹……」

 社殿の下には先程から頻りに鳴いている猫と、その横にまったく同じ毛並みの猫がいた。二匹は身体を寄せ合って二足歩行の闖入者を見つめている。なんだコイツは、と今にも喋り出しそうな顔である。尤も、猫に表情があるのかどうか、木更木などには判らぬ。

 思わぬ場所に佇立していた障壁を前に、木更木は脳味噌をフル回転させたものの、解決策は思いつかなかった。しかしこのまま対峙しているだけでは事態の発展はない。兎に角思考は後にして、まずは目の前の猫を捕まえてみるしかない。

 木更木はなるべく音を立てないよう慎重に右足を踏み出した。

 が、動物の聴力と神経の鋭さに、人間の集中力など高が知れていた。

 二匹の猫は瞬時に身体を翻し、社殿の下に潜り込んでしまった。

 千載一遇の好機を逃してしまい、木更木はへなへなとその場に座り込んだ。一度逃亡した猫を追うことは不可能ではない。だが社殿の下となると話は別である。さすがの木更木もそこまで潜り込むことはできない。お手上げだ。

 しかし、頭の隅ではある疑念がひょっこり現れていた。今逃げた猫は果たして三丘礼子の探している猫なのか、と云うことである。先刻、木更木が一歩進んだ途端、二匹は一目散に逃げ出した。それは何故か。無論、人に慣れていないからである。人に慣れていない、それはすなわち野良猫と云うことになる。飼い猫であれば尻尾を立てて寄って来ても可笑しくない。それに、首輪もなかった。

 そうなれば、先程の猫は捜索中の猫とは全くの別猫(べつねこ)と云う結論になる。それに同じ毛並みの猫が二匹いたと云うこともそれを裏付けている。きっとあれは他猫(たねこ)の空似であろう。

 勿論自分への云い訳がなかったと云うと嘘になる。しかし、この推理はなかなか当たっているように思えた。

 立ち上がり、尻を叩く。尻に着いた砂がぽろぽろと地面に降った。

 逃がした猫が教えてくれたこと、それはまだこの町に野良猫が生きていると云うことだった。それを知れただけでも、二匹の猫との邂逅は無駄ではなかった。


        *


 その後の首尾は芳しからず、野良猫一匹の姿を見ぬまま陽は傾いてしまった。

 結果報告の期限を翌日に控え、木更木は当然の焦燥を感じていた。

 依頼をこなせなければ報酬など貰えないし、流離探偵の信用にも関わる。ただでさえ怪しげな事業であるのにその上与えられた任務も果たせないとなると救いようがない。向こうは猫一匹、こちらは生活が懸かっているのだ。互いのためにも手ぶら報告だけは何としても避けなければならない。

 一先ず間土と合流し、その後延長戦をすることに決めた。

 昨日と同じ時間に同じ場所で間土と合流した。報告には、依頼人の猫はいなかったが神社に野良猫が二匹いたことを伝えた。加えて昼前に聞いた生活改善委員会の穏やかならざる噂も間土の耳に入れておいた。間土は「殺されないといいがなあ」と腕を組んで云った。神社の猫のことを云っているのだろうか、木更木も同感だった。

 木更木が訊くと、間土の方でも猫は見つからなかったらしい。しかし木更木は、そう話す間土の表情がどこか思案気なことに気付いた。

「間土さん、これからどうしましょう。僕はまた後で捜しに行きますが」

 夕食のラーメンを啜りながら木更木は訊ねた。

「うん木更木君」

 間土は餃子をとんこつラーメンのスープに浸し、それを白飯に乗せる。珍妙な召し上がり方である。

「ちょっと気になることがある」

「え、なんですか」

「ふん、まら確信はれきんけろ」餃子と白飯を一緒に口に入れたまま云う。

「云ってください」

「いやその前に依頼人に電話してくれ」

「なんて伝えます」木更木が依頼人の連絡先が書かれた紙と携帯電話を取り出す。

「明日の午前十時にあんたの家に行く。御茶を入れて待っててくれ、できれば紅茶が良い。それから、任務は完了した」

 紙に書かれた電話番号をプッシュしようとした木更木の手が止まった。今、間土がさらりととんでもないことを云ったような気がした。

「え、え?」

「なんだ聞こえなかったのか。こんなに至近距離なのに聞こえないのか。面倒な奴め。いいか、耳垢を遍く取り出しそれを白飯に乗せて食べると誓え――明日午前十時、依頼人の家集合、紅茶用意、任務完了。たったこれだけだ。君の頭はこんな簡単なことも受け付けないのか――それと任務は終わったんだから君はもう猫捜しをしなくていいよ」

 矢張り聞き間違いではなかった。任務完了とはどう云うことだろうか。

「ちょっと待ってください、任務完了ってどう云うことですか!」

「ミッション・コンプリート」

「いやいや違うでしょう。いいですか、依頼は猫を捜すことなんですよ。だがどうだろう、僕らは猫どころか招き猫一体すら手にしていない。だのに任務完了はないでしょう。間土さん、いくら面倒だからって嘘は不味いです」

「煩い! ああ耳が痛い! いいか木更木君、君は助手だ。助手の役割は探偵の雑務をこなすことだ。云うことを素直に聞いて、早く依頼人に電話をしろ」

 間土は乱暴にラーメンを啜った。

 論理も滅茶苦茶で不服だったが、これ以上間土の神経に触れては厄介になる。木更木は紙に書かれた電話番号を押し端末を耳に当てた。数コールで依頼人三丘礼子本人が電話に出た。

 木更木は間土の伝言(紅茶のことは省いた)を伝え、最後に任務は完了しましたと云った。それを聞いた三丘の反応は意外や落ち着いていて、至極平淡な声で「そうですか。ありがとうございました」と典型的な礼を述べただけだった。

「明日の午前十時に家で待っているそうです」木更木は携帯電話をズボンのポケットに仕舞った。

「家は何処だって」

「御寺だそうですよ、なんと。久願寺と云うそうで、町内の地図にも載ってるから簡単に判るとのことです」

 すると間土は「寺か。ふん。ならたぶんそっちだな」と良く判らないつぶやきをして、

「後は町長に会いたい」

 と突拍子のないことを云い出した。

「町長って、またどうして」

「まあ確認のためだ」

 勘定を済ませ、銭湯で身体を洗い、二人は昨日同様公園にテントを張った。しかし今度は人目のつかない茂みではなく、公園のど真ん中に設営しようと間土は云った。

「実は昨日木更木君の話を聞いて」間土が云う。「町長に話を聞きたいと思ったんだ。だから俺は公園に野営すると云ったんだが、茂みじゃあ駄目だったね。矢ッ張り一目に着かなきゃ意味がない」

「すると町長に会うためにわざわざこんな場所にテントを?」

「うん。そう云ってるだろう」

「でも巡査が来たらどうします?」

「そのときはそのとき。木更木君がなんとかしてくれる」

 テントの中でランタンの灯を頼りに木更木が文庫本を読んでいると、訪う者があった。驚いたことに、昨日会った町長だった。

「またあんたですか」

 町長の目は愈々重大犯罪者に対するそれである。木更木は頭を掻きながら、

「ええ、僕です」

「付近の方に聞きましたよ、公園にテントを張ってる輩がいると……一体何をしてるんですか、まったく」

 この町にはどうやら間諜が潜んでいるらしい。

「そりゃ野営ですよ。寝るんです」

 フン、と町長は大きな鼻息を洩らして、

「いいかね、公園は公共施設なんだ。だから勝手にテントを張ってキャンプ場にしてもらっては困るんだよ。町の所有地に勝手に宿を拵えてもらっては困る。巡査を呼びますよ」

 ジロリと木更木を睨めつけた。

「巡査を呼ぶ! それは待った方がいいなあ。面白くない」

 町長は木更木一人しかいないと思っていたのだろう。二人目――それも今度は確実に奇怪な男の登場に、町長は身をぴくりと痙攣させた。

「な、なんだ君は。あんた、仲間がいたのか」

「俺は流離探偵間土京太郎。こっちは木更木君。木に始まり木に終わる男、木更木君だ」

 間土は木更木の隣に立った。傍から見ると見事な親父狩りの構図である。

「町長さん、あんたに訊きたいことがある」

「訊きたいこと?」

「野良猫殺処分について、あんたはどう思う」

 町長の顔が引き攣るのが、外灯の乏しい光によって判った。身体を後ろに少し逸らし、間土を見るその目は微かに揺れている。

「おや、御存知ないのか。この町の野良猫は少し無邪気を見せるだけで殺されているんだ。町じゅうに貼紙が貼られてる」

 間土は相手を威圧するような声量で云った。普段のぐうたらは影を潜め今は探偵の顔をしている。

 町長は体勢を立て直そうとひとつ大きな咳をした。

「貼紙のことは勿論知っている。生活改善委員会とか云うあれだろう」

「ええ」

「それについては昨日この木に始まり木に終わる彼にも云ったが、委員会の実体がまったく掴めんのだよ。だから町としてもどうすることもできないんだ」

「ふん。俺が訊いてるのは殺処分についてどう思うか、と云うことだ」

「それは忌々しきことではある。みだりに生命を絶ってはいけないとは当然のことだ。だが我々の生活を極端に脅かす場合、そう云う処置も免れん。それは状況次第だ」

 ふうん、と云って、間土はそのまま何も喋らなくなった。鈴虫の合唱だけが夜の闇を揺らしている。町長は困ったように木更木を見遣った。木更木はひょいと肩を竦めるだけだった。

「――兎に角、ここにテントを張られては困るんだよ。後続が生まれかねませんから。――今日だけだが、公民館を解放しますのでそこで寝てください。そちらの方がいくらか眠れるでしょう」

 思わぬ朗報に、間土の眉がぴくりと動いた。

 木更木は町長をじっと見つめ、

「いいんですか?」

「はい。ただし本日限りの特例だよ。以降は認めんからね」

 公民館は公園からすぐの所にあった。鍵を開けてもらい、中に入る。和室があったのでそこを寝床に借りた。

「明日八時に来るからそれまでに出られるようにしといてくださいよ」

 そう云って町長は公民館を出て行った。ロハで和室に寝られるなど願ってもない幸運である。木更木はシュラフに身体を入れ横になった。間土がどういうつもりで任務完了と云ったのか、どう頭を捻っても判らない。だがこの男がそう云うのだから、そうなのかも知れない。

 当の間土は既に高鼾をかいて寝ていた。

 木更木は充分睡眠が取れるかどうか、そちらの方が不安だった。



        4



 目が覚めると間土の姿がなかった。代わりに、くちゃくちゃのシュラフの上に一枚のメモ紙が置かれてあった。見ると、閃光が走ったような字で「ちょっと用事がある。十時に久願寺」と書かれている。間土にどのような用事があるのか想像できないが、こう書かれている以上致し方ない。木更木は二人分のシュラフを畳み、公民館を出る準備をした。

 部屋の時計が午前八時を指すのとほぼ同時に町長が現れた。間土の姿が見えないことに首を傾げているようだが、特別何も訊いてこなかった。

 町長に礼を云い、木更木は二人の荷物を抱え町内を歩いた。間土は任務完了と云ったが矢張りどうにも腑に落ちない部分があった。約束の十時まで二時間もないが、まあ最後の悪足掻きだけはしておこう。木更木は普段の倍重い荷物に息を上げながら町内を巡った。

 結果は云うに及ばず、空振りだった。時間は迫っている。木更木は捜索を已むを得ず捜査を切り上げ、町の地図で久願寺の位置を確かめ依頼人との面会に向かった。

 久願寺に繋がる直線の路に入ったとき、木更木はアッと思った。そこは一昨日木更木が町長に尋問を受けた通りに他ならなかった。例の貼紙も当然ある。迷宮を散々彷徨った結果出発点に戻ったような、そんな感覚だった。

 家並みに沿って歩き、堂々と聳える門を潜った。

 本堂は悠久の時に晒されたと一目で判るほど年季が入っていて、且つ荘厳であった。本堂の傍には鐘楼があり、巨大な釣り鐘がぶら下がっている。反対側に目を転じると、石畳の続く先に堂宇があって、なるほどなかなか立派な御寺である。

 この町はここを中心に創造されたのではないかと思ってしまうほど、久願寺の威厳は確かだった。

 左手の建物から三丘礼子が出てきた。どうやらそこは事務所になっているらしい。三丘は寺の娘らしく滑らかに頭を下げ、

「御足労お掛けしました。どうぞ中へ御這入りください」

 と云った。

「ありがとうございます。しかしまだ間土が来てないので、暫くここで待っていましょう」

「そうですね。少々お待ちください、御茶を入れてきます」

「あ、お構いなく」

 事務所の前のベンチに腰掛け、木更木は寺に漂う空気を味わった。仄かに御香の馨が混ざっている。木更木は目を閉じた。こうするとなんだか自分が崇高な人間になったような錯覚がする。しかし木更木には俗世を離れ日がな一日禅を組んだり経を唱えたりなど到底無理な相談である。日々放浪の生活を送っているが、俗世に未練はたんまりある。煩悩は規定量より多いに違いない。木更木にとってはこうして偶に参拝するくらいで良さそうである。

「なんだ君は目を閉じてニヤニヤして気持ちが悪い」

 嗚呼、これも煩悩の生み出したる空耳なのだろうか。毎日々々飽きもせず自分を酷使する間土の声が鼓膜を叩く。間土がいる限り涅槃の境地に達することはないのだな、あな悲し哉、と木更木は心中でつぶやいた。

「おい寝てるのか。いや、起きてるだろう。どうせ瞑目して自分は釈迦だとか思ってるんだろう。そんな奴はこれを喰らえ」

 柔らかく湿った物体が突然鼻の頭に触れ、木更木は思わず尻を浮かせ目を開けた。見ると、間土がいる。先程の声は幻聴などではなかったらしい。

 そして自分の鼻に触れた物体の正体も判った。それは間土の腕に抱かれた猫の鼻だった。

 どうして間土が猫を抱いているのだろう。それも両脇に一匹ずつ。加えて足許に黒猫が一匹。

 抱えられた二匹の猫を、木更木は知っていた。

「その猫、昨日神社で見た猫だ」

「矢ッ張りこいつらか。うん、良かった」

 間土は二匹の猫に交互に顔を近づけた。奇妙なことに猫たちは間土にすっかり懐いている。黒猫も尻尾をぴんと立て、間土の足に身体を擦りつけている。

「もしや用事ってそれだったんですか。でもどうして連れて来たんですか」

「どうしてってそれが依頼だろうが」

「何を云ってるんです。この子たちはどう見たって野良猫……それに、依頼されたのは一匹だけですよ。確かに毛並みはそっくりですが、もしかしてさあどっちだって三丘さんに訊くんですか」

「煩いなあ木更木君は。俺がそんな面倒臭いことする筈なかろう。無論三匹全部だ。一匹で済むところ三匹も連れてきてあげたんだ。出血大サーヴィスで讃えられるべきだ」

「はぁ?」

 木更木が甲高い声を洩らしたとき、事務所から三丘が現れた。手にした盆には湯呑が二つある。間土の声が事務所内にも聞こえたのだろう。

「やあ三丘さん。流離探偵間土京太郎登場です」

「こんにちは――まあ」

 三丘は間土に抱かれた二匹と足許の一匹を見て目を丸くした。それから戸惑ったような目を間土に向けた。無理もあるまい、捜索を依頼した猫が三倍になって帰って来たのだから。木更木はすぐに弁解を挟んだ。

「すみません三丘さん。毛並みの似た猫が二匹いたので両方連れてきました。さあ、あなたの捜している猫ちゃんは二匹の中にいるでしょうか?」

「何を云ってるんだ木更木君。全部だと云ってるだろさっきから」

 木更木は惚け続ける探偵に危うく憤怒するところだったが、依頼人の手前それを懸命に堪え、間土にぐっと顔を寄せ小声で云った。

「それはこっちの科白ですよ。いいですか間土さん、我々は依頼人の猫を、飼い猫を捜してるんです。この猫たちはどう見たって野良猫でしょうが」

 刹那、間土の目が変わった。負傷した鶫を見るような、憐憫の籠った目で木更木の双眸を見据え、

「しっかりしろ木更木君。いいか、この三丘さんはね、

 

 猫なんて飼ってないんだ」


 と云った。

「……え?」

 木更木は地表が泥沼になったかのような感覚に陥った。間土は何を云っているのか、すぐには理解できなかった。

「ああ、もう、俺は依頼内容を聞いたときから三丘さんが野良猫を捜していると判っていたから君もそうなんだろうと思っていたが、とんだ間違いだったんだな。まったく、道理で話が噛み合わないわけだ」

「そ、それは僕も同じですよ。一体どういうことなんです」

 間土は両脇の猫を静かに地面に下ろした。三匹の猫は相変わらず間土の足に擦り寄っている。一体全体どんな魔法を使ったのか、木更木はそちらも気になった。

「逆に訊く。君はどうしてこの三匹の猫が明らかに野良猫だなんて判ったんだ?」

「そら判りますよ。昨日僕が近付いたときには一瞬でとんずらされましたし、それに見てください、首輪がないでしょう――」

 そこまで云って木更木はハッとした。間土が静かに頷く。

 あの写真――一昨日依頼人に渡された写真を見たとき、木更木は猫の毛並みを確かめていた。全身が白く、頭部と首周り、背中の一部に黒が混ざっている――


 ――首周り


「あの写真を俺が預かったままだったから木更木君が勘違いに気付くことがなかったんだろうな。悪い悪い」

 と云って、間土はポケットからすっかりよれよれになってしまった写真を取り出し木更木に見せた。写真に写った猫の首に首輪はなかった。

「――そうか。だから間土さんは猫なんて何処にでもいるとか何とか云ってたんですね」

「そうだ」

「でもそれじゃあどうして、三丘さんはそのことを云わなかったんですか」

 木更木は盆を持ったままの三丘に身体を向けた。三丘は一昨日と同じように頭を垂れ、その表情は黒い髪に隠れて見えない。

「そんなもの、已むに已まれぬ理由に決まってるだろう」

 間土が代弁するように云った。

「なんですそれは」

「おい木更木君。君はどこまで魯鈍なんだ。このくらいは判ってくれてもいいんじゃないか」

 間土に叱られた形になった木更木は少し思考を巡らせてみた。

 思い当たる節がひとつあった。

「生活改善委員会」

「そうだ」

 間土が我が意を得たりと頷く。そして三丘に顔を向け、

「三丘さん、これから俺の云うことに間違いがあれば訂正してください」

「判りました」

 三丘は顔を上げた。

「一昨日俺は貼紙を見た。それは木更木君も見ている、例のアレだ。それを見て、二つの可能性を思いついた。依頼人が生活改善委員会の人間である場合とそうでない場合の二つ」

「猫を捜しているのは殺処分のためじゃないのか、と?」

「そう。まあそのときは委員会が殺処分をしてるなんて知らなかったが。いずれにせよ三丘さんが猫を捜している背景に委員会が絡んでいるのは間違いないと思った――いいですか三丘さん」

 三丘は「はい」と囁くように云った。

「二者択一に答えが出たのはつい昨日のことだぜ木更木君。都合の良いことに、三丘さんの家は寺だと云う。それに今こうして見るとなかなか立派な寺じゃないか。これで一気に謎は氷解、三丘さんは生活改善委員会の人間ではないし、俺たちにそのことを伏せたがったことも頷ける」

「どうしてですか」

 木更木が鼻息荒く訊ねた。

「落ち付け木更木君。――これは三丘さんが敬虔な仏教徒と見越しての推理だが、木更木君、五戒と云うのを勿論君も聞いたことがあるだろう」

「ええ、名前だけは」

「なんだ名前だけ知って実質は知らないのか。馬鹿だなあ。君は本当に大学を出た人間なのかい。まあいいや。五戒ってのは――三丘さんには云うまでもないことだろうが――在家の信者が守る五つ戒めのことだ。不殺生(ふせっしょう)不偸盗(ふちゅうとう)不邪淫(ふじゃいん)不妄語(ふもうご)不飲酒(ふおんじゅ)の五つ。勿論これを百パーセント守るのは無理至極。でも、こう云う教えが仏教にあるのは確かだ」

「ああ、そうか。寺の娘さんなら怪しげな委員会に入って野良猫殺処分なんかする筈がないってことですね。不殺生戒だ」

「うん。十中八九、三丘さんは委員会の連中から野良猫を守ろうとしたんだろう」

 木更木は三丘がこくりと頭を動かすのを認めた。間土の言葉は凡て当たっているのだろう。三丘は湯呑の載った盆を持ったまま身動ぎしなかった。

「三丘さんがそのことを云わなかった理由は後廻しにして」間土はカリフラワーの頭をぽりぽり掻いた。「まずは生活改善委員会とか云う団体のことだな」

「間土さん、そこも調べたんですか」

「そんなわけないだろ。それは俺の仕事じゃない。でも想像はできる」

「なんですか」

「そう先を急ぐなすぐに云うから。結論だけ云うと、生活改善委員会と町長は繋がってる」

 これには木更木は仰天した。自分を疑い続けていた町長だが、昨日は宿を提供してくれた。俄には信じ難いことだった。

 しかし、三丘は特に驚く素振りを見せない。知っていたのだろうか。

「三丘さんあなた知ってましたか」

 三丘は、頷いた。

「なら話は早い。木更木君、君はまたどうしてですかとか云おうとしてるだろう。君のために云ってあげるから感謝しろよ。――いいかい、あの町長は委員会は実体がないからどうしようもないとか云々洩らしていたが、それならどうして貼紙を剥がさないんだ。貼紙を貼るには町の許可が必要だ。その町とは町長のことだ。実体のない団体の貼紙なら、どうして町長はそれを剥がさないんだ? 可笑しいじゃないか。町長の権限でもなんでも使って剥がしてしまえばいい」

 状況次第なんて悠長なことを云うなんて変だろうが、と間土は息を荒くした。

「あの町長が委員会と癒着関係にあった――そう云うことですか」

「うんそうだ。金でも貰ってたかも知れん。だからこそ、三丘さんは不用意に野良猫を保護しているなどと云えなかったんだ」

「一体どうしてそうなるんです?」

「寺院経営は大変なのだ木更木君」

 木更木には訳が解らなかった。猫と委員会と寺院経営がどう繋がるのだろう。

「寺の存続に町の協力は必要不可欠なんだ。ちょっと考えたら解るだろう。それにこれだけ大きな寺だ、町の援助でもない限りかなり骨が折れるだろうさ」

「その通りです」三丘が間土の話を引き継いだ。「御寺は行政の支援無しにはとてもじゃないですが続きません。実際久願寺は町や一部の人々からの寄進に助けられています。御寺自体は祭事などで町民の集まる場になっていますから、絶対に町を敵に回すことはできないのです」

「だからこそ三丘さんは俺たちにも真実を隠していたのだ。もし万一俺たちの口からそのことが洩れないとも限らんからね――兎も角これで凡て繋がったわけだ」

 間土の云う通り、これで凡てが滞りなく通交する。依頼人三丘礼子は野良猫を保護している。生活改善委員会の魔の手から野良猫を救うためだ。しかしそれを大っぴらに発言することはできない。何故なら委員会が町長と関連しているからで、寺存続のことを考えると町を敵に回すことは避けたい。

 木更木は漸く合点がいった。

「探偵さん」三丘の声は凛としていた。間土にすっかり真意を見抜かれた今隠すことなどないと思ったのだろう。

「流離探偵だ」

「流離探偵さん、とその助手さん。どうぞ、事務所に入ってください」

 案内され、二人は事務所に這入った。三匹の猫も当然のようについてきた。


 事務所は平屋一戸程の広さだった。三丘は間土と木更木を8畳間の和室に案内した。

「ほほう」

 木更木が声を洩らすのと同時に、足許にいた三匹の猫が音もなく部屋に這入って行き、部屋の中央に置かれたボウルに顔を突っ込んだ。

「ここが野良猫保護場所なんだな」間土が云う。

「仰る通りです」

「猫しかおらん」

 部屋の彼方此方に大小様々な猫が遊んでいた。木更木が数えると、全部で八匹だった。これら凡てが野良猫である証拠に、彼らの首には何も巻かれていなかった。

「これを御覧ください」

 三丘は部屋の隅の棚から一冊のアルバムを持ち出した。

 大方予想できていたが、それは矢張り猫たちの写真だった。

「野良猫ですか」

「はい。生活改善委員会が現れ殺処分の噂が囁かれ出した頃から、町の野良猫を観察しておこうと思いはじめたものです」

 写真はどれも屋外で撮られていた。なるほど、飼い猫であれば写真はほぼ室内で撮ったものになるだろう。

 写真の下に、小さく○や×が書かれているのに木更木は気付いた。何も書かれていない写真もある。木更木はぞっとした。

「三丘さん、この○×はもしや……」

「はい。○は保護された野良猫、×は殺処分された野良猫、何も書かれていないのはどちらでもない野良猫です」

「殺処分された野良猫とは、どうやって調べたのです?」

「これは目撃情報のみに依ってます。ですから、実際はもっと多くの野良猫が処分されているのかも知れません」

 三丘の表情が暗くなった。仏教徒である以前に、彼女の動物への慈愛は相当深いのだろうと木更木は今更ながら思った。

 暗澹たる気持ちになった。殺処分は堂々と行われ、命を守る保護活動は息を潜め行動せねばならない。そこに単純な善悪を当て嵌めていいのか、木更木には解らないが、人道に照らせば無用な殺しは当然天誅加えられるべきものである。

 木更木は間土を見た。間土は胡坐を掻いて猫と戯れている。この男は人間よりも野性動物に近いのかも知れない。考えてみれば間土はどこか猫に似ている。行き先を決めず、ただ流浪する。その道が行きか帰りなのかは判然としないが、とりあえず歩く。天候に逆らわず、気分に逆らわず、間土と云う男は流離うために生まれた猫なのかも知れない。

「これで良いのかなあ」

 猫の蹠球(しょきゅう)に埋もれながら、間土が云った。間土は仰向けになって猫にされるがままになっている。

「理不尽な殺処分から野良猫を守ってるんですよ。良いに決まってるでしょう」

「理不尽? 理不尽って云ったか木更木君。それは違う。生活改善委員会は生活を改善したいんだろうが」

「でも殺すことはないじゃあないですか」

「ふん。それに理不尽と云えば野良猫を保護するのも勝手な行為だ」

 間土の一言は鋭い矢となり投擲され、三丘の心臓を抉った。三丘は「どうしてです」と云ったが、驚愕に震えていて弱々しかった。

「野良猫は既に野性だ。自立してるんだ。そこに下手に人間が介入したらどうなるか、三丘さんあなたは木更木君じゃあないんだから解る筈だ。――手懐けられた野良猫は人を恐れなくなる。見ろ、この猫たちを。俺のことをまるで弥勒菩薩と思ってやがる」

 弥勒菩薩を足蹴にはしないだろう。しかし木更木は発言しなかった。

「もしここの猫が外に出て何処かの民家でも這入ったらどうなる。こんな状態なら仮令住人が出てきても近寄って行くぜ。そして――この先は木更木君、判るだろう」

「委員会の目に触れる可能性が出てくる……と」

「うん。人に近付けばそれだけ猫にとっても危険は増えるし、問題が起きる確率も高くなるだろう。本来野良猫と人とは近付き過ぎてはいけないのだ。どうしても深く関わりたいなら一生面倒を見ると云う覚悟が必要だ」

 間土は仰向けのままである。しかしそれでも三丘の心を揺さぶるには充分だった。三丘は呼吸をすることさえ忘れてしまったかのように口をつぐんでいた。

 間土の言葉は確かに厳しい。野良猫保護が正義だと信じて已まなかった三丘にとっては尚更だろう。

「勿論委員会の所業も赦せんよ。あいつらは馬鹿だ。命を残飯程にも思っちゃいない。一方ここの猫たちはここにいるうちは安全だが、野良猫の性分で外に出ずにはいられんだろう」

「じ、じゃあどう仕様もない」木更木が嘆いた。

「木更木君、君の悪い所はすぐに思考を止める所だ。いいか、簡単なことだ。委員会を潰せばいい」

「潰すって……」

「うん、委員会には大義名分がある。町民の生活改善と云うな。だからそれを出されては太刀打ちできないし、奴らが殺処分の事実を云わなければそれまでだ」

「じゃあ、どうするんです」

「町長を叩けばいい。あの白髪頭は叩かれるためにあるのだ。委員会と町長の癒着――恐らく法外な金を貰ってるのかも知れん――を暴けば一石で二羽の鳥が落ちる。三丘さん、野良猫を保護してるのはあんただけじゃあないでしょう。仲間がいる筈だ」

「……はい」

「だったら団結して運動しなさい。太っちょ町長――ちょが多いな――は脆いよ。すぐに倒せる」

 間土は起き上った。弥勒菩薩起床に驚いた猫たちが一斉に散る。そのうちの一匹が三丘の足許までやってきて身体を摺り寄せていた。

 三丘はしゃがみ、猫の頭を緩やかに撫でた。

「よし木更木君、俺たちは帰ろう」

 間土が部屋を出ようとすると、

「ま、待って」

 三丘が立ち上がって呼び止めた。

「ん? ああ報酬のことか。報酬ならこの木更木君に渡しといて。俺は外に出たい。鼻がムズムズする」

「違うんです――いえ、報酬はきちんとお支払いしますが。あのう……委員会摘発にも力を貸していただけないでしょうか?」

 三丘は両手を胸の前で組み、縋るような声で云った。

 依頼の追加は未だ嘗てなかったことで、木更木は少なからず動揺していた。

「ま、間土さん、ど、どうします」

 間土は何も云わず部屋を出て行った。木更木は去る背に向かい、

「間土さん! どこ行くんです。返事はどうするんです」

 と叫んだ。

 間土は足を止め、肩口から振り返り木更木を睨んだ。腰から下を小刻みに揺らしている。

「煩いなあ木更木君。便所だよ。不浄雪隠或いは厠。暫くはここが拠点なんだから小便の一デシリットルや二デシリットルくらいしていいだろう。ねえ三丘さん」

 そう云って、間土は小走りに廊下を駆けて行った。扉が乱暴に閉められるのが音で判った。

 どうやらこの町を出るのはもう少し先になりそうだ。

 木更木の横で、三丘が静かに微笑(わら)っていた。

 背後で猫が、にゃあ、と鳴いた。

                                         






 こんにちは。法橋籐士郎です。

 拙作「猫はどこだ」は僕が「小説家になろう」にはじめて投稿した作品です。投稿前何度も読み返しましたが、どうにも稚拙な部分があることは否めません。それとも、それは初投稿作品の常だと思ってよいのでしょうか。

 流離探偵間土京太郎と云うのはまたクセの強い人物ではありますが、なかなかどうして僕は彼が気に入っています。勿論実際にこんなヤツがいたとしたら話は別ですが、ともかく物語のなかではいいアクセントになれる人物ではないかと思います。彼の魅力を引き立てるにはまだまだ筆力至らぬところがあるようです。いずれは鼎を持ち上げられるような筆力筆勢を身につけたいものです。

 タイトルにかんして、鋭い読者には「おや?」と思われるかもしれません。しかし、深い意向はまったくなく、仮題として設定していたものをそのまま採用しただけであります。単なるユーモアだと解釈していただければ幸いです。

 最後になりましたが、読んでくださった方、貴重な時間を割いていただき本当にありがとうございました。今後間土と木更木君が登場する作品を書くかどうか、現段階では不明ですが、様々な物語を精力的に生み出していきたいと思います。是非ともまた、法橋籐士郎のページへアクセスしてくださいませ。

 今後ともよろしくお願いいたします。

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