男、狐と出会う
宇治のある林。晴明は一人で、ただじっと立っていた。
つい先程までは橘小百合もいたのだが、晴明が一人にしてほしいと頼み、いったん家に帰っている。
小百合の家。昨夜は晴明も一晩宿を借りたが、あまりいいとは言えない家だった。
掘っ建て小屋のような家に住んでいるわけではない。むしろ庶民から見ればかなり立派な家だろう。
しかし、小貴族にも劣る家ではあった。当然晴明の師である加茂忠行の屋敷とは比べものにならない。
橘家といえば、古くから伝わる呪術師の家系だと聞いていたが。
「没落、か……」
思わず口にしてしまった言葉に、晴明自身が顔をしかめてしまう。
何て心無い言葉だろう。我ながら随分な呟きだ。
晴明はため息をついて、辺りを見渡した。
噂の狐が現れるのは、この辺りだ。ここにいれば、晴明の前に現れるはずである。かの狐が自分を探しているなら、なおさらだ。
――しかし、その狐は本当に自分の思っている者だろうか。
もしそうなら、もう一度、もう一度だけ――
『安倍、晴明……』
突然降ってきた声に、晴明は顔を上げた。
見上げた先にあるのは、高い木々の先端と晴れた青空のみだ。声の主らしき姿は見えない。
気のせいだろうか。しかしそれにしては、はっきり聞こえた。
その声に驚くと同時に、晴明は落胆する。その声は記憶の中の声と違う。同じ女の声ではあるが、全く別人の声だった。
答えるべきか、否か。名を呼んだということは顔が知れているということだ。しらを切ってもしかたがあるまい。
「私を呼ぶのは何者だ」
『……こちらの姿を隠しても、いたしかたがないでしょうね』
声がそう言うと、突然風が吹き上げた。
思わず烏帽子を押さえて目をつむった晴明だったが、まるで陽炎のように突如現れた気配に目を開ける。
目の前に視線を向け、姿は思い描いていた者と同じことに、晴明は一瞬息がつまりそうになった。
自分から少し離れた場所にいたのは、一匹の大きな狐だった。
銀色の毛に覆われた身体は細くしなやかで、その大きさは大人の男より大きい。尾を入れた全長は、七尺を超えるのではないだろうか。瞳は薄赤く、ほんのり輝いているようにも見えた。
「噂通り狐……しかも、そこらにいる狐など比べものにならないほどの神通力を持っているようだな」
『あれらのような木っ端と比べられることを、私はよしとしません。第一、私は人の子に手出しなどしません』
狐の言葉に、晴明はふむ、と唸った。
「……つまり、おまえ、いや貴女は、天狐なのか」
狐の最上位に立つ存在に対する呼び名、天狐。強い神通力を持ち、なおかつ人に害をなさないのなら、あの狐は神にもっとも近い存在と言われる天狐と呼ばれる存在なのだろう。
しかし、それほどまで強い力を持つ彼女(と言っていいのかどうか解らないが便宜上彼女)が、自分に何の用なんだろうか。
「……貴女が私を探していると聞き、ここに来た。何故私を探していたのか訊きたい」
『そうですか……。確かに私が貴方を探していたのは事実です。貴方に訊きしたいことが二、三ありましたので』
「私に訊きたいこと?」
晴明は首を傾げた。
天狐である彼女が、自分に訊かなければならないことなどあるのだろうか。その気になれば世界の理を知ることだってできるだろうに。
『意外……とでも言いたげですね』
「まぁ……そうだな。実を言うと、私は貴女が、その、別の狐だと思ってここに来ているゆえ、その……」
晴明はどう説明すればいいか解らず、言葉に詰まってしまった。弁が立つ彼にしては珍しいことである。
勿論歯切れの悪さには理由がある。相手が誰であろうと、母親と間違えていたなど言えるわけがない。
晴明がどうするか考えあぐねいていると、狐は驚きの言葉を口にしてきた。
『私を母君と間違えていたのですか?』
晴明は身体を強張らせた。
うつむいていた顔を上げ、狐を凝視する。
「今……何と?」
『母君と間違えていたのかと聞いたのです。その反応、あの噂は本当だったのですね』
と。狐は音も無く晴明に近付き、顔を覗き込んできた。まるで晴明の存在を確かめるように、身体をすり寄せて。
『やはり貴方は、姉上様の子か』
「あ、姉上様とは……まさか……!」
『察しの通りです』
狐は晴明から身体を少しだけ離し、頷いた。
『私は貴方の母君――葛葉の妹です』
「っ……!」
晴明は全身を震わせながら狐を見つめた。
葛葉。それはまごうことなく母の名だ。
幼い頃、父と自分、そして月凪の前から姿を消した美しい女性。
その正体は、かつて父が助けた神の使いたる狐――!
あの時の父の落ち込みようは、まだ物心ついて間も無い晴明と月凪にいやというほど伝わった。
化生の存在でもいいから傍にいてほしかったと嘆く父の姿を見るたび、晴明は思ったものだ。
いつか母を探し出して、また家族一緒に暮らしたいと。
――父の死によってそれは叶わぬ夢となってしまったが、また母に会いたいと願う気持ちは変わらなかった。
それは月凪も同じで、彼女が無断で旅に出るのも、それが第一の理由だった。
しかし未だ母に繋がる手がかりは無く、最近は見付けることを半ば諦めていたのだ。
それなのに、こんなところで手がかりが掴めるなんて――
「それは……本当なのか? 本当に、貴女は母の妹なのか?」
『この場で嘘を言って何になりましょう。まごうこと無き事実です』
狐は感情を感じさせない声で言った。
「なら……なら母は、母上は今どこに? 貴女が妹ならば知っているはずだ」
『答えかねます』
「なぜ!」
『姉上様が望んでおられないからです』
狐の言葉に、晴明は目を見開いた。
『忘れているのですか? 姉上様は自らの意思で、貴方方の前から姿を消したのです。その真意を考えたことが無いのですか?』
「それは……」
何度も考えた。どうして母は姿を消したのだろうと。
正体がばれたからか。しかしたった数年とはいえ、寄り添ってきたのだ。父がそれを気にするような人間でないことは解っていたはずだ。
なら、別の理由? 他に家族から離れねばならない理由があったのか。
『我々の掟です』
狐はきっぱり、晴明を突き放すように言った。
『正体がばれた時、正体を知った人間の前から姿を消す。それが我々の掟です。たとえ血を分けた子といえど、それは同じ』
「そんな掟が……」
晴明はふらりとよろめいた。
そんなこと、知らなかった。知らずに、自分と月凪は母を追い求めていたのか。
もう一度と思っていたのに、そのもう一度すら許されていなかったなんて――!
「なんてことだ。月凪に、どう言えばいいんだ……」
都で自分の帰りを待つ妹を思い、晴明は唇を噛む。
彼女は朗報を待っているだろうに、持って帰らねばならないのはとんだ報告だ。妹はどれほど失望するだろう。
「……貴女は」
ややあって、晴明は低い声を絞り出すことができた。
「私に、それを教えるために私を探していたのか。こんなことは無意味だと言いたかったのか」
『いいえ。それはどちらかといえばついでです』
狐は首を横に振った。
『貴方が姉上様の息子か確かめるのが一つ。それから、姉上様が生んだのが本当に双子かを確かめるのが一つ』
狐の言葉に、晴明は眉をひそめた。
「貴方も、私と月凪が凶兆の子と言いたいのか」
それはさんざ、周りから言われたことだ。
自分と月凪は、確かに双子だ。そして双子は、昔から不吉だと言われている。
呪術を学んだ晴明はそれが迷信だと知っていたし、何より師である忠行がそれを否定してくれた。
双子だから何だというのだろう。それだけで、自分達は悪い存在なのか。
ただ双子だというだけで――
『そうではありません』
しかし狐は、また首を横に振った。
『双子が凶兆など、馬鹿馬鹿しい。本来一人しか産まれぬ人の子が同時に産まれたことに対する、人間の被害妄想です。違う、私が言いたいのはそういうことではないのです』
「……?」
『貴方達が双子であることが問題ではない。姉上様が双子を産んだことが問題なのです』
狐はため息をもらした。狐の姿でそれをやられると、もの凄い違和感があるのだが。
『妖ものと人が交わり、子をなすことはかまいません。ですが双子の場合……どちらかに異常が起こることがあるのです』
「異常……まさか……!」
晴明ははっとした。
それに対し、晴明は心当たりがある。いや心当たりどころか、確実にそうだろうというものを知っている。
妹の月凪。彼女の、人を狂わせるほどのあの美貌が、狐の言う異常だとしたら――!
『……どうやら、妹君がそのようですね』
「あぁ……」
晴明は頭をかきむしりたくなった。
月凪の美貌は、一種の呪術だ。狐を母に持つがゆえに先天的に得てしまった、半永久的な術法。
それがまさか、異常によるものだなんて思わなかった。たんに、月凪が母の血を色濃く受け継いだだけだと思っていたのに。
おそらく忠行も、同じことを考えていたに違いない。確かに月凪の美貌とそれによる呪術は異常だとは思ったろうが、まさか正真正銘の異常だと思うわけが無い。
何ということだ。兄である自分すらそんなことに気付かなかったなんて。
あるいは――あるいは父なら気付いていたろうか。母はそのことを知っていたろうから気付く気付かない以前の問題だ。
二人に確かめたかったが、すでに二人とは会うどころか、文さえやり取りできない。晴明の胸に、やりきれない思いがよぎった。
『……そのことは、妹君に話しますか?』
「話せるわけが無いだろう……ただでさえ月凪は、その異常とやらのせいで苦しい思いをしているというのに」
話せるわけがない。表にこそ出さないが、同性にさえ姿をさらせない現状に、月凪は酷く息苦しい思いをしているのだ。
元々が解放的な性格の彼女である。幼い頃から友も作れず、話すことすら許されず、どんなに寂しい子供時代を過ごしたか、晴明は嫌になるぐらい知っている。
だからこそ月凪の姿に惑わされない、そんな奇跡を現実にしているあの源博雅のような男が月凪には必要だと思っている。
同業者では駄目だ。見た目に惑わされはしなくても、月凪を遠巻きにしたり、果ては利用しようとしたりするやからも出てくるかもしれない。
呪術の基礎すら知らぬ、そして清らかな心を持った男こそ、月凪の傍にいるべき人間だ。
もっとも、そんな人間が存在するなど最近まで思ってもいなかったが――
『晴明殿』
狐の声に、晴明は思考を現実に戻した。
『もう一ついいでしょうか』
「え?」
『貴方に、少し見てもらいたいものがあるのです』
狐の視線が、あらぬ方向に向いた。
今更ながらどうして敬語なのだろうと思いつつ、晴明は狐にならって目をそちらに向ける。
別に何も無い。ただの雑木林が広がるだけである。
「向こうに何かあるのか?」
『ええ。貴方達の師の祖先が――祖先と言っても数代前なだけですが――封印した、あるものがあります』
「あるもの、とは?」
『人によって造られた品に宿りし禍々しきものです。人の子らは、確かこう呼んでいましたね』
狐は記憶をたどるように首を傾げ、そして言った。
『降魔武器――「羽衣姫」、と』