女、鬼の子と対峙す
耳を澄ますと、笛の音が聴こえてくる。そんなはずはないのだけれど、月凪にはなぜかそれが聴こえていた。三日前のあの男の笛が、耳から離れないのだろう。
「面白い奴よな……博雅殿は」
月凪は、男からの文を眺めながら呟いた。自室には誰もいないため、独り言である。
それにしては、大きいけれど。
三日前の逢瀬の後、源博雅とは文を交わす約束をした。直接会うことに月凪が難色を示したため、妥協案である。
男と女の文のやり取りと聞けば誰しも色恋を連想するけれど、しかし二人の文に、そんな色気のある文章など無い。
まず二人して歌を詠めないのだから、そんなことは不可能と言える。
しかし互いにそんなことを気にする性格ではないため、それがどんなに奇異かを理解していない。
もし貴族の第三者がいれば、憐憫の目で二人を見るに違いない。
まぁ、それはともかく。
(それにしても、そうか、そろそろ秋か。季節など忘れていたな)
月凪は微苦笑を浮かべた。そもそも季節など、月凪には関係無いのだ。
鬼を狩り、闇を払う。それが自分の仕事なのだから。
自分の仕事は、ただそれだけなのだから。
「月凪」
と。文を読み返している月凪の部屋に、兄が入ってきた。
一瞬足元の衣に手を伸ばしかけたが、兄ならばその必要は無い。すぐひっこめる。
「兄様、何か我に用か?」
月凪が文を横に置くと、兄の晴明は一瞬それに目をやった。その後、すぐ自分を見やる。
「いや、おまえの姓のことなんだが」
「……もしや、勝手に名乗っていることを忠行様が怒っておられるのか?」
月凪は眉間にしわを寄せて言った。
「まぁこれは我の独断であるから、師弟の縁を切られてもしかたないが……」
「いや、逆だ」
晴明の微笑に、月凪は首を傾げる。
「逆、とは?」
「おまえにぴったりだと、笑っておられたよ」
「……怒ったり笑ったり、忙しいお方だ」
この間のことを揶揄すれば、兄は声を上げて笑う。自分がそうしたら注意するくせに、自分がすることに関しては甘い、と月凪は思った。
男と女の差、なのかもしれないけれど。
「おまえ、あの花が好きだからな。幼いころから……」
「当たり前だ。あれは我の理想だ」
月凪は軽く目を伏せた。
「雪の中でも鮮やかに咲く花。あの花の如く我もまた、鮮やかに咲き誇りたい。穢れた、闇の身であろうと」
「穢れたなんて……」
晴明は若干顔を曇らせた。
「おまえがそうなら、私もそうだろう」
「兄様は違う。我だけだ。穢れているのは」
月凪は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「母の力を受け継いでしまった我だけなのだ」
「……」
それを受け、晴明は沈黙する。何か言いたげだったが、やがてため息をついて話を変えた。
「それはそうと、おまえに任が与えられた」
「ん?」
「保憲様からだ」
月凪はまた首を傾げた。
一応まだ謹慎の身なのだが、これは解かれたと思っていいのだろうか。
しかし、任とは一体?
月凪がじっと次の言葉を待っていると、晴明はなぜか言いにくそうな口調で言った。
「羅城門に現れた鬼を狩れ――とのことだ」
―――
人は闇を恐れる。
そこに隠れる異形の者達の存在を、本能で悟っているからだ。
しかしその異形の者共がどこから来るかというと、大概の者は知らない。
まさか彼らが自分達に縁深き者であるなど、知るわけが無いのだ。
それでよい、と月凪は思っている。知らぬ方がよいことは、確かにあるのだ。無知は人を殺すが、同時に人を守ることがある。
鬼に関することが、まさにそうなのだ。
「……羅城門。噂には聞いていたが」
月凪は目の前の大きな門を見上げた。
実に巨大な門である。都一、いや国一というのは嘘ではないように思えた。
しかし同時に、鬼が住むには最適であろう。これほど陰の気に満ちているのだから。
月凪は衣を被ち直し、一歩踏み出した。
「そこの女」
と。急に呼び止められた。
このような宵刻に、と思いながら振り返ると、一人の男が少し離れて立っていた。服装からして、どうやら検非違使らしい。
しかし、妙だ。後ろからなのに自分を一見で女と見抜くなんて――
「このような場所で何をしている?」
「今宵の宿を探しております」
月凪は答え、さりげなく男の腰の得物を見た。
二尺弱ほどの刀だ。凝った装飾も無い普通の刀だ。自分が隠し持つ刀と違う。
――当たり前だけど。
「旅の者なのか」
「はい。都には先程着いたばかりで、右も左も解りませぬ。このような時間に私めを泊めてくれる宿も無いので、ここで一夜を過ごそうかと」
「しかしここは人がいられる場所ではない」
「なぜでしょうか」
尋ねると、男は事務的な口調で答える。さりげなく、一歩前に踏み出した。
「ここには、死体が山積みになっている」
「捨てられてるのでしょうか」
「そう。身寄りの無い者がここに捨てられる。それに群がるものもいる」
また一歩前に出る。しかし男は自然体で、殺気も感じられない。
「鴉や犬でしょうか」
「まだいる」
また一歩。
「猫や……蛆? 蝿もたかるでしょうね」
「まだいる」
更に一歩。
「死体から着物を剥いだり、鬘を作るために髪を抜く、貧しい人間でしょうか」
「まだいる」
また更に一歩。
「……他に何がたかると言うのですか?」
月凪が尋ねると、間合いに入った男は答えた。
事務的に。無感動なまま。
「鬼だ」
無表情のまま、月凪に向けて抜刀した。
ぎいぃぃぃぃぃぃんっ
金属音が辺りに響いた。周りが静かなだけに、やけに大きく響く。
「やはりおぬしか。羅城門に住まう鬼の子は」
月凪は己が刀で男の刀を受け止めたまま、微笑した。
男の姿は、いつの間にか変わり果てていた。
黒かった瞳は血に似た紅色に、唇で見えなかった犬歯は反り刃のように鋭く長くなっている。額には、皮膚を突き破ってねじれた角がはえていた。
その姿は――まさに鬼。
男は黒い爪を持つ手で握った自身の刀を受け止められ、瞳孔の細い瞳を見開いた。
「貴様……もしや陰陽師!?」
「仮、ではあるがな」
月凪は唇をにぃ、と歪め、左足を旋回させた。
腹に蹴りを受けた鬼の男は、顔をしかめて後ろに下がる。
「女のくせに刀を振るい、戦うとは……女らしくない女よ」
「人らしくない人に言われとうない」
月凪はきっぱり言い返した。女らしくないと言われるのには慣れている。
「鬼童子か……我も初めて見るが、人の身にして鬼とは、妙なものだ」
「……貴様には解るまい」
男――鬼童子はただでさえ鋭い目を更に吊り上げた。
鬼童子。人でありながら鬼の力を宿す者のことを指す。その姿は人であるが、鬼の力が表に出ればたちまち鬼と化してしまう危うさを宿した者達だ。
彼らを救うには二つの方法しかない。
殺すか、封じるか。基本的に選ばれるのは前者で、鬼童子が生まれれば家の恥とされた。
――彼らに罪咎は無いというのに。
「その様子だと、力を封じられておったのか」
「ああ。しかし一年前、封印が解けてしまった。俺は鬼の力に抗えず、家族を殺し、ここに逃げのびてきた」
鬼童子は月凪の背後にある羅城門を見上げた。
「そしてここで死肉を喰らい、人に姿を見せまいと思っていた。だが!」
「我慢しきれず一昨日、たまたま近くを通りがかった女を喰ろうた、か」
兄から聞いた話を思い出し、月凪はため息をついた。
「おぬしは愚かだな。僧や陰陽師に頼ればよかったろうに」
「そうすれば俺は殺される! 俺は死にたくない!!」
「だからと言って、死肉を喰らうことはなかろうに。おぬしはそれで人喰いを我慢していたつもりだろうが、それは逆効果だぞ」
月凪の言葉に、鬼童子の顔が驚愕に染まる。
「死肉は陰の気がこもっているのだ。それを喰らえば、おぬしの中の鬼気が大きくなり、暴走する。結局人を襲ってしまったのは、巡り巡ってそのためだ」
「そ、んな」
「哀れな。死肉喰らいなどせねば、救いがあったのに」
月凪は刀を振り上げた。
「い、嫌だ……死にたくない」
男は後ずさった。彼は気付いてるんだろうか。仕種や思いは人であっても、姿もまとう気も、とっくのとうに人からかけ離れていることに。
「もはやそこまで行けば、救いも何もあるまい。せめて楽に死なせてやる」
「い、嫌だあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
鬼童子は突然突進してきた。
「俺は死にたくない! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない! おまえを喰らって、俺は生き長らえる!!」
刀が振り下ろされた。月凪はそれを受け止めようか一瞬逡巡し、結局後ろに下がる。鬼童子の刀は空振りし、地面を穿った。
そこにできた大きな隙を逃さず、月凪は刀を突き出す。
「……がっ」
狙いは外れること無く、月凪の刃は鬼童子の横腹に突き刺さった。
かなり深く、おそらくは肺にまで到達しただろう。
しかし鬼童子は、明らかな致命傷を受けてなお反撃してきた。
刀をまた持ち上げ、こちらに向けて横殴りしてきたのだ。月凪は地面を蹴り、それを避ける。
更に鬼童子の背中に足を着き、それを利用して跳び上がった。その際に、彼の横腹から刀を抜く。
ぎくん、と鬼童子の身体がけいれんするのに半瞬遅れて、横腹から血が吹き出した。
だらだらと傷口から血が流れる様は、まるで流水のようである。返り血を避けながら月凪は、顔をしかめつつも構え直した。
人にとっては致命傷だが、鬼にとってはそうでない時がある。彼は人から鬼になったが、死肉喰らいによって、普通の鬼童子より強い力を持っているはずである。この程度ではやられない。
「い、嫌だ……死にたくない……俺は、おれは……」
鬼童子の目から理性が消えていく。傷のせいか、人の心が鬼の力に喰われつつあるようである。
「哀れだな。その力、使いようによっては人を救えただろうに」
月凪はそっとため息をつき、目線を自分の刀に落とした。
「――『剣姫』、部分解除」
刀の銘を呟き、そのまま流れるような動きで刀を振り下ろす。
刃は鬼童子に届かない。まだ届かない。
けれどこの刀には、間合いなど関係無かった。
「初の手――風刃斬」
刃から、衝撃波が放たれた。
衝撃波は地を這い、真正面にいた鬼童子に向かう。
衝撃波がぶち当たった瞬間、鬼童子の身体が縦に裂けた。
ぱっくりと、衝撃波が当たったところを沿うように。
「……え……?」
自分の身に何が起こったなど理解できなかっただろう。鬼童子はそのまま、血を吹き上げて倒れた。
その姿はみるみるうちに変わり、元の人の姿に戻っていく。
まるで時間を巻き戻しているようだった。数十秒ほどで、鬼童子は元の男の姿に戻る。
月凪はその様子を見届けた後、刃に付いた血のりを刀を振って払い、鞘に収めた。
「……『剣姫』、か」
月凪は刀の銘をそっと、ため息まじりに呟く。
「あらぁ? 先を越されましたぁ」
と。急に声をかけられ、月凪は刀に手を添えて声の方へ目をやった。
少し離れた場所に、女が立っている。旅装で、自分と同じく衣を被いている。しかし今は、それを下ろして肩にかけていた。
髪は背中の半分ほどまであり、ゆるくまとめられている。顔立ちは整っていて、しかしどちらかといえば美しいというより愛らしいという印象だった。そのせいか、見ただけでは性格な年齢は解らない。
女は口元に扇を当てながら月凪を見ていた。その扇は、なぜか黒い。
月凪は最初、また鬼かと思ったが、すぐに違うと解った。
彼女は――同業者だ。
「……女は我だけかと思っていたがな」
「私もです。でも嬉しい。同じ女が同業者にいて」
女はのんびり、穏やかに微笑した。
「初めまして、私は小百合。桐生小百合ですぅ」
「……月凪。椿月凪だ」
女が姓を名乗ることはない。それが常識である。
しかし二人は、二人の女陰陽師は、男のように姓を名乗り合った。