女、男の笛で舞う
安倍晴明という男は、誰も彼も、異口同音に「謎」と言わしめられる。
その出自も、考えも、本性すら、表に出ることはなく、また表に出さないからだ。
それらを知るのは師である賀茂忠行、その息子である賀茂保憲のみである。
――否、もう一人。
同じ出自である彼の妹もまた、彼のことをよく知る人物である。
名を月凪。しかし彼女は、安倍の姓を名乗ってはいなかった。
そもそも平安の世に、姓を名乗る女などいない。が、彼女はそんな理由で安倍の姓を名乗っていないわけではなかった。
彼女は女でありながら、姓を持っていた。
しかも安倍ではなく、全く別の姓。
それは、彼女が最も好む花の名だった。
―――
「馬鹿者が!!」
師の怒鳴り声に、月凪は身をすくめた。
普段は頭からすっぽり衣を被いているのだが、しかし今はその顔を存分にさらしている。
清らかなその姿は他を圧倒し、心どころか魂さえさらってしまうほどの美を誇るが、しかし賀茂忠行がそれに心を奪われることは無い。
それはすでに高齢であるためか、それとも月凪が弟子であるためか。
いや、どれも違うと晴明は思う。
一重に、忠行様の術師としてのお力ゆえだと、確信を持って言える。
月凪の美貌は、彼女の力が表に出た結果なのだから。
「あれほど顔を人目にさらすなと言ったのに……しかも相手は御上の甥だと!?」
「あぁ……あの男、御上の血族だったのですか」
どうやら月凪は今そのことを知ったようである。切れ長の瞳を見開いていた。
賀茂邸。館の主たる忠行の部屋に、晴明とその妹である月凪は来ていた。
と言っても部屋に呼び出されたのは月凪一人であり、晴明は少し心配で付いてきただけなのだが。
双子の妹である月凪は長いこと旅に出ていて、帰ってきたのは昨日の夜だ。ゆえに、彼女は先程まで眠っていた。
そのせいか、まだ月凪は眠そうである。師を前にしていなければ、あくびをしているに違いない。
容姿と性別とは裏腹に、はしたない真似を平気でするのだ、我が妹は。
晴明が月凪の後ろで座りながら考えている間にも、忠行の説教は続く。
そこまで月凪の姿を他人にさらしたくない理由。女だから顔を見せるのははしたないというのは、ここでは当てはまらない。
なら、なぜ。それは、月凪の容姿に関係がある。
それを説明するには月凪と晴明の出生から話さねばならないが、今の晴明の念頭に、そのことは思い至らない。
とりあえずは、高齢の忠行の身体を慮って仲裁に入ることにした。
ようやく解放された月凪は新しく与えられた衣を被ち、ため息をついた。
「我が何をしたというのだ……ただ顔を一人の男にさらしただけというのに」
「それが大問題なのだが……」
妹の言いように、晴明は頭を抑える。
月凪は、自身の姿をさらしてはいけない理由を知っている。知っているが、自分の容姿に関してはいまいち理解していないのだ。
――それが昔、ある事件を起こしたというのに。
「とりあえず、しばらくはこの屋敷でおとなしくしてるんだな」
「兄様が言われるなら……」
そう言いつつ、月凪の声は不満そうである。
「おいおい。つい昨日まできままに旅に出ていたのに、少しの間屋敷から出られない程度でふてくされるな」
「旅と言っても、出雲に一月ほど行っていた程度だがな」
月凪はごろりと横になった。
だからそれははしたないと言おうとさて、晴明は口を閉ざす。言っても今更聞く奴でもない。
代わりに、肩をすくめた。
「その後、因幡にも寄ったのだろう。全くふらふらと……何を考えているんだ」
「すまぬ、兄様。どうしてもこれが欲しくてな」
月凪は部屋の隅に置かれた刀に手を伸ばし、持った。
紅の柄に紅の鞘。隠れた刃は、白銀の輝きを持っている。一瞬観賞用とさえ思えるほど美しい刀だ。
しかし晴明は知っている。それがどういう代物かを。
「出雲に滞在していた際に聞いた噂で、いてもたってもいられず因幡に向かった。噂が虚実でなくてよかったよ。おかげで我は、この刀を手に入れた」
「その妖刀をか」
「妖刀……となるのかな、やはり。しかしそれと同時に名刀でもある」
月凪は僅かに見える紅い唇を緩めた。
「昨日初めて抜いたが、素晴らしいよ、この刀は。しかし同時に危うい。だからこそ、我は欲した」
「他者がその刀に飲まれぬように、か」
晴明はふっ、と笑った。
「優しいな、おまえは」
「そう言ってくださるのは、兄様と忠行様だけだ」
月凪も笑い返す。
「保憲様は?」
「保憲様も……かな」
忘れていた、と月凪は呟く。おそらく衣の下では、申しわけないという表情など微塵にも無いに違いない。
そんな妹に晴明はやれやれと首を振りながら、ふと思う。
(それにしても……源博雅か。一度会ってみるかな)
―――
源博雅は内裏にいた。
昨夜のことを思っていたためにあまり寝れなかったが、しかしそれを帝に悟られずにほっとしている。
今はぼぅっと、近くの木を眺めているだけである。思い出すのは、やはり昨夜のことだ。
月凪。月下で出会った、美しい女。
彼女にまた会いたいと思うのは、純粋に彼女に礼がしたいからなのか。いや違う。それ以外にもあることに、自分は気付いてる。気付いてしまっている。
しかしまた会えると確信してはいるものの、どうやったら会えるかなど解らない。どこにいるかも、博雅は知らないのだ。
知っているのは月凪という名と、信じられないようなその容姿。
それだけで、たったそれだけで一人の女を探し出そうなど無謀にもほどがある。
「……あの時、引き止めればよかったな」
後悔も、もう遅い。
「源博雅殿か?」
と。声をかけられ博雅は振り返った。
後ろにいたのは、見知らぬ青年であった。
白磁の頬に薄い唇は女のように紅く、整った顔立ちは腕のよい職人が造った人形のように整っている。切れ長の目に収まった瞳は黒曜石のように澄んでいて、思わず目を惹いてしまうような美しさだった。
おそらく自分と同い歳か、あるいは少し歳上の青年に、博雅は一瞬目を瞬く。
美しいうんぬん以前に、なぜ彼は自分に声をかけたのだろうか。
「確かに私が博雅だが……そちらは?」
「失礼。私は安倍晴明と言う者。賀茂忠行様の弟子だ」
賀茂忠行、という名は博雅も聞いたことがある。高齢ながら、かなりの力を持つ陰陽師だと。
そして安倍晴明の名も、聞き覚えがある。
幼いころから忠行に目をかけられている才ある男で、しかしそれ以外に彼の話は聞かない。
それは、晴明が他人とほとんど関わりを持たないからだろう。
そんな彼が、一体自分に何の用なのだろうか。
「私に……何か?」
博雅が尋ねると、晴明は「つかぬことを訊くが」と前置きして、じっと見据えてきた。その目に、博雅は見覚えがある。
「月凪という女性に、昨夜会わなかったか?」
「……! 彼女を知っているのか!?」
博雅は心持ち身を乗り出した。
その反応に晴明は面喰らったように目を見開いたが、すぐに平素に戻って頷いた。
「ああ。……妹なんだ」
「妹……」
どうりで似ている、と博雅は納得した。特に目がそっくりだ。
「それで彼女は、今どこに?」
「……会いたいのか?」
晴明の質問に、博雅はすぐに「ああ」と頷く。
「礼がしたいんだ。昨日、助けてもらったからな」
「……それだけか?」
「え? それだけって……」
一体何だ。何かあるのか。
「……ふっ。いや何でもない」
「え……?」
今、なぜ自分は笑われたのだろう。
「礼がしたいから、だったな。そうだな……では、夕刻にまた声をかけよう。その時、彼女に会わせてさしあげよう」
晴明はそう言って、博雅に背を向けた。
「あ、会わせるってどこで……」
「夕刻、この場所で」
晴明は視線をこちらに向けて微笑した。その笑みが見たことも無い月凪の笑みのような気がして、博雅は無言のまま晴明を見送るしかできなかった。
―――
何で管弦の宴も無く、宿直でもないのに内裏に残っているのだろう。
博雅は嘆息した。
すでに日は見えなくなっており、辺りは薄暗くなっている。
これ以上ここにいると、誰かに咎められるのではないだろうが――
(しかし……誰も通らないな)
博雅は首を傾げた。
先程から、近くを誰も通らない。時間のせいかもしれないが、しかしだからといって、何の物音もしないのはおかしい。
(まるで、内裏に誰もいないような……)
いや、そんなわけない。まがりなしにも帝が住まう場所なのだ。夕刻であっても人がいるのが普通である。
だが、人の気配も音も無いのはどういうわけか――
「博雅……殿?」
心臓が跳ね上がった。
この涼やかな声は、聞き間違えようが無い。
博雅は振り返り、無意識に顔をほころばせた。
衣を頭からすっぽり被ち、白い狩衣を着た人物。顔は見えないが、間違い無い。
「月凪――殿。その……こんばんは」
「なぜおぬしがここに……」
月凪はうろたえたようにうわずった声を上げた。
「貴女の兄上に、何も聞いていないのか?」
「いや……ただ、待ち人がいるとしか。だから屋敷を抜け出してきたのだ」
おぬしとはな――と、月凪は言った。まるで、会いたくなかったとも言いたげだ。
それに傷付きつつも、博雅は一歩前に出た。
「月凪殿。俺は、いや、私は、また貴女に会いたかった」
「……」
「礼がしたかったんだ。昨日は、すぐに去ってしまったから」
博雅の言葉に、月凪は何の反応も示さない。博雅は首を傾げ、また一歩踏み出した。
「それだけか」
「え?」
「我に会いたかった理由は、それだけか」
何が言いたいのだろうか。というかその台詞、晴明と同じなのだが。
「それ以外に無いのか」
「え? いや、それ以外って何だ?」
逆にこっちが聞きたいのだが。
「……驚いた」
月凪は博雅をじっと見つめた――気がした。衣のせいで、視線はどこを向いているのは解らない。
「我の姿に惑わぬ者など、初めてだ。本当――ではないが、しかし嘘でもない。少なくともその言葉に、偽りは無い」
「何を偽ると言うんだ?」
偽ることなど――何も無いのに。
「……なるほど。愚直、というわけか」
「……?」
「……礼がしたい、と言っていたが、具体的には何をするつもりなのだ?」
訊かれ、博雅は困り果てた。それに関しては何も考えていない。本人の望む礼をしたいと思っていたからだ。
「貴女は何をしてほしい? その……私にはできることが少ないが、できることはやろうと思っている」
「皇族の言葉ではないな」
「この私が皇族など」
博雅は苦笑を浮かべた。
「私のような者が皇族であるなど、身分不相応もいいところだ。貴族としてもふさわしいか疑問に思っているのに」
「……変わり者だな」
月凪はあきれたように首を振った。
「……笛がいい」
「え?」
「おぬしの笛が、また聴きたい」
そう言って、顔をそむける月凪。顔が隠れているのに、その動作は何か意味があるのだろうか。
そんなことを思いつつも、博雅は常に持ち歩いている笛を懐から取り出した。
「曲は何がいいかな」
「何でも構わん。ただ、おぬしの笛が聞きたいだけなのだ」
吹き手として、嬉しい言葉だ。博雅は微笑して、笛に唇を当てた。
息を吹き込むと、流れる旋律。ただ静かに、再会できた喜びを表すように、博雅は笛を吹く。
つい昨日会ったばかりだというのに、何故ここまで心臓が高鳴るというのだろう。
やはり自分は、彼女に――
博雅は内心で頭を振り、考えるのを止めた。
今はただ、笛を吹いていたい。彼女に美しい音を聴かせてやりたいし、笛を吹いている間は、彼女と共に入れるのだ。
もっと長い間、彼女と一緒にいたい。そう願うのは、いけないことだろうか。
博雅は半眼だった眼を月凪に向けた。そして、息をつまらせかける。
月凪は衣を外していた。美しいその姿をさらし、博雅の前に立っていた。
笛を止めそうになるが、しかしそれはいけないと自分に言い聞かし、吹き続ける。
しかしなぜ、急に衣を外したのか。
博雅がじっと見つめるなかで、月凪は懐から扇を取り出した。そして扇を広げ、すっと持つ手を上げる。
(舞……?)
そう、月凪は舞い始めたのだ。
白拍子のように、優雅に。
確かにその格好は白拍子のようだが、まさか舞ができるとは思わなかった。
ただ舞うだけではない。博雅の笛に合った、静かに波打つ水面のような穏やかさをともなった舞だった。
昨日、鬼を斬った時とは違う動き。優美で、たおやかで、どこか儚げな、幽玄のような舞。
博雅は月凪に釘付けになりながら、夢中で笛を吹いていた。無意識だった、と言っていい。
それほどまでに目の前で舞う月凪の姿は非現実で、幻想の中にいるような感覚だったのだ。
何もかも忘れてしまいそうだった。しかしそんな頭にも不思議と理性は残っていて、ふと思うのだ。
なぜ自分が笛を吹いているというのに、誰も来ないんだろう。誰も気付いていないんだろうか、と。
―――
笛の音を聞きながら、晴明は微笑を浮かべていた。
二人は今、自分の張った結界の中でひとときの逢瀬を楽しんでいることだろう。
「これほど美しい音だ。月凪の奴、今頃舞っているのだろう」
口の中で呟き、晴明はふと思う。
彼ならもしや、月凪の相手になるかもしれないと。
(彼が月凪に惹かれたのなら……本当の意味であの娘を好いたのなら)
諦めていたことだ。あの事件以来、あの娘に女としての幸せは訪れることは無いと思っていたが、彼が相手ならそれも可能かもしれない。
それに。
「あの哀しい運命から、月凪を救うことができるかもしれない」
それは月凪が望んだことではないけれど、自分が望んだことではある。
あの娘は運命を受け入れる気だ。しかし、それでは駄目なのだ。
受け入れるのではなく、変えなければ。あんな最後を、あんな最期を迎えさせるわけにはいかない。
「……月凪」
晴明は弱々しく呟く。己の、最愛の妹の名を。
主人公である月凪は沙伊のオリジナルキャラクターですが、それ以外の人物は実際にいた人物です。
安倍晴明は勿論のこと、源博雅や賀茂忠行も実在する人物です。
こんな風に実在の人物とオリキャラが入り乱れていくと思います。