男、月下にて女と出会う
時は平安。
日本を統べるは時の帝。
そんな遠い時代の、ある夜だった。
月が綺麗だった。
真円を描く、金とも銀ともとれる輝きを持った満月。
牛車の中からそれを覗き見た源 博雅はほう、とため息をついた。
紫がかった青の直衣を着た、若い貴族である。
家柄、というか血筋だけを見れば、他の貴族など足元にも及ばない。
彼の祖父は先の帝である醍醐天皇であり、父はつまり天皇の息子である。
現在帝位についている朱雀天皇は叔父にあたるのだ。叔父と言っても、博雅の方が五つ上なのだが。
ともあれ、それらを見れば次の帝位を充分に狙えるのである。
しかし、彼は他の一貴族のように帝に仕える身だった。
単純に出世欲とか、そういうものが無いのである。帝位どころか、皇族としてふんぞり返る気も無い。
しかし今の彼はそんなこと考えてはいなかった。脳裏をよぎったりもしなかった。
ただ、月の美しさに見惚れていたのである。
こういう場合、和歌の一つでも詠むべきなのだろうが、あいにく博雅はその才能に恵まれなかった。
(だから俺はもてないんだろうなぁ)
友人からの指摘を思い出し、今度は憂鬱とした嘆息を吐き出す。
貴族の恋愛は、和歌が無ければ発展しない。
それが常識だったし、当然博雅もそんなこと解っていた。
博雅の年齢なら、本来妻の一人ぐらいいてもおかしくないのだ。
なのに恋人すらいないのは、和歌を作れないからという、ただそれだけの理由である。
貴族の娘と会うには、和歌で会いたい旨を伝えなければならない。そのために、和歌はうまく詠めた方がいい。
簡単に言えば、博雅は和歌の才能が無いために恋愛ができなかった。家柄上結婚話が無いわけでもなかったが、どれもぴんと来ずに断っている。
(ぜいたくだろうか、俺は)
考えてる内に、どんどん気持ちが沈んでいく。月に対する感動を忘れそうだ。
そうなる前に、博雅は笛を取り出した。
後に様々な説話を語られることになる博雅。しかし、それを今の彼が知ることはない。
そんなことよりも、博雅は月への美しさを忘れまいと笛に薄い唇を押し当てた。
息を吹き込むと、流れる旋律。
それは、生物が息をひそめてしまうほど美しい音だった。
もし道の近くに誰かがいたら、その場で立ち尽くしていたかもしれない。
笛の音はどこまでも伸びていき、夜闇の中へ溶けていく。それすらも美しかった。
牛車が多少揺れようと、旋律は乱れない。それほどまでに、博雅は笛に集中していた。
しかし、さすがに牛車が急に止まったことには驚き、笛から唇を離す。
まだ屋敷ではないはずだ。こんな時間に他の牛車と鉢合わせもあるまい。
犬か猫の死骸でも落ちていたか――そんな風に思って御簾から顔を出した。
「なっ……!」
しかし、目の前の光景は想像していたのと全然違っていた。想像を絶していた、と言っていい。
いたのは人でも動物でも、ましてや犬や猫の死骸でもなかった。
いたのは、鬼である。
身丈三丈以上ありそうな、獣に似た鬼だった。
犬のような顔は浅黒い毛で覆われており、額には皮膚を突き破ってねじれた角が生えている。全身も顔と同様の毛で包まれていて、長く鋭い爪はぬらぬら黒光りしていた。
「ひ、ひいぃぃ!」
悲鳴を上げたのは博雅ではない。
牛の傍にいた従者である。牛もまた、従者の恐怖が感染したのか大きく鳴いた。 ただ一人、博雅だけは冷静だった。
これが鬼かとか、やはり本物は怖いとか、そう思っていた。
のんきというわけではなく、あまりの恐怖にかえって冷静になったのである。
あぁ俺はここで死ぬのか、と他人ごとのようにぼんやり考えていた。
鬼は一歩前に踏み出した。それだけで、ずしんと地面が揺れる。
「おい、おまえは逃げろ」
博雅は従者に声をかけた。しかし聞こえてないのか、従者はその場から動かない。
こちらに音が聞こえてきそうなほど、がたがたと震えていた。
牛もまた興奮状態で、いつ暴れ出すか解らない。
牛車で押し潰されてはたまらない、と博雅は慌てて外へ出た。
それがまずかったらしい。いきなり鬼が咆哮を上げた。
お゛お゛おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
空気がびりびりと震えた。どうやら刺激してしまったようだ。
(なんて思ってる場合じゃない!)
本当にこれは命が危ない。自分と、それから従者も。
刀など持っていないし、そもそも持っていたとしても対抗などできるはずがない。
「くっ……」
博雅は唇を噛んだ。
ここで自分は死ぬのか、こんな鬼に喰われて。だがせめて、従者だけは逃がしてやらないと。
「おい、早く逃げろ!」
博雅は従者の腕を引っ張った。
だが、従者は完全に固まってしまっている。博雅の呼びかけに答えもしない。
鬼がまた近付いてきた。
「肉、にく、人間、にんげん」
うわ言のように鬼の口から同じ言葉が繰り返される。
毛むくじゃらのぶっとい腕が振り上がった。
「う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
術者が叫んだ。そのまま博雅の腕を振り切るように走り出す。
だが遅い。鬼の手が、術者の背中を捉える――!
ざんっ
血が舞った。
赤黒い血だ。鉄錆の臭いがむあっ、と博雅に迫る。
「げほっ、げほっ」
たまらず咳き込む博雅の目に、従者の死体は映らなかった。
代わりに映ったのは、片腕を無くして呆然とする鬼である。
ぼたぼたと鬼の腕の切口から落ちる血を見た後、博雅は次いで目の前に急に現れた人物を見た。
「笛の音に誘われて来てみれば……これも職業柄か?」
声は女だ。しかし、容貌は解らない。
博雅に背を向けているから、ではない。その女は、頭からすっぽり衣を被いていたのだ。顔どころか、服装も髪も解らない。
ただ、彼女の手には一振りの刀が握られていた。
ぞっとするほど美しい、白銀の細い刃だ。白くたおやかな手が掴んでいるのは、血のような紅色の柄である。
「おい」
博雅が刀に見惚れていると、女は振り返りもせず話しかけてきた。
「少しばかり離れておれ。上物だろう、その直衣」
「そ、それより……おまえは一体」
博雅が口を開いた時、鬼が我に返った。
先程のように、否、先程以上の咆哮を上げ、残った腕を振り下ろす。
「危ない!」
博雅の声にも、女はその場から動かなかった。
ただ、刀を持ち上げただけである。
刀と拳がぶつかり合った。
女が吹っ飛ぶという博雅の予想は、きっちり外れることとなる。それどころか、刀も女も微動だにしなかった。
「格の違い、次元の違いが解らん阿呆が。我とこの刀に出会った以上」
女が鬼の拳を押し退けた。鬼がよろけたところで、女は地面を蹴る。
「おぬしは冥夜に沈むがよい」
高々と舞い上がる女。その際に衣が落ち、その姿があらわになる。
白い狩衣だ。水色のはかまをはき、くるぶしまで伸びた髪を革紐で結んでいる。が、月の逆光でやはり顔は見えなかった。
ただ女を目で追っていた鬼は、頭上の女を見てその動きを止める。
呆けたように目を見開き、振り上げようしたであろう腕が持ち上げるだけに終わった。
人間離れした跳躍力を見せた女は、そのまま重力にのっとって落ちてきた。
当然、刀も一緒に。
刀が鬼の脳天を捉える。
ぎゃあ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
悲鳴と共に鬼の身体が半分に割れていった。
舞う黒い血。博雅はそれの酷い臭いに我に返った。
「あ……」
小さく声を上げ、鬼と、血まみれの刀を握る女を見比べる。
あまりにも残酷な行為だったが、彼女は命の恩人である。礼を言わねば。
「おかげで助かった。ありがとう」
博雅は女に声をかけ、まず礼を述べた。
「鬼を倒したところを見ると、貴女は陰陽師……」
博雅は言葉を切った。いや、切らざるをえなかった。
言葉を見失ったのだ。女に目を奪われたために。
美しい女だった。
ただ美しいだけなら、声を失うことはない。その女は、規格外の美しさだったのである。
肌は初雪のようだった。汚れの無い白い頬は、触れるのをためらうほどすべらかだ。そのため紅をさしたように紅い唇がなまめかしいぐらいに強調されていた。漆黒の髪は濡れたままのように艶やかで、絹糸のようにさらさらと揺れている。
しかし何より目を惹き付けられたのは、その顔立ちと瞳であった。
どんな腕のいい職人でもこれほど美しい人形は造れないだろう。御仏に愛されて産まれたとしか思えないほど端正な顔立ちだった。
そして瞳。切れ長の目に収まった黒曜石の瞳は限り無く澄んでいて、心の内を見透かされそうだ。とても鬼をためらい無く斬ったとは思えない。
博雅がぼうっと見とれていると、女は顔をしかめた。それさえ絵に描かれた美女よりずっと美しい。
「何だ、おぬし。人の顔をじろじろ見おって」
「あっ……す、すまない」
博雅は顔を下に向けた。
そういえば、こうやって直接女人の顔を見るのは、母や女房達以外で初めてかもしれない。しかもこんな麗しい女だ。おまけに出会い方が出会い方である。
「っ……あの」
「む?」
「おまえ……いや貴女の名前は何と言う? 私は、源 博雅と言うが」
どもりどもりだった。我ながら情けない。
しかし、女の方は特にそれを気にした様子は無く、名乗ってくれた。
「月凪だ」
「つき、なぎ……」
「そう。月を凪ぐと書いて月凪。よろしく、と言っておこう。しかしもう会うことは無かろうよ」
ではな、博雅殿。
女は――月凪はそう言って去っていってしまった。
後に残されたのは、立ち尽くす博雅と鬼の死体、気絶した従者と牛である。
「月凪……」
博雅はそっと、女の名を呟いた。
できすぎだとも思ったが、しかしだからこそ、これが偶然とも思えなかった。
「……また、会える。きっとだ」
確証は無く、確実でもなく。
しかし確信を持って、博雅は呟いた。
―――
「源博雅、か」
月凪はふむ、と首を傾げた。
「奇妙な男だ。あれほどの笛の音、人の身では吹けまいに。しかし、なるほど……御仏に愛されたか」
だからこそ、あの男に自分は会ってはいけない。そう思えた。
この穢れた身をまた彼に晒すなど……耐えがたい。
そこで、月凪は衣をあのまま置いてきてしまったことに気が付いた。
「しまった。兄様達に、常に被くよう言われておったのに……」
月凪は困り顔を浮かべた後、「まぁいいか」とため息をついた。
「しょうがあるまい。屋敷に着いたら、新しいものを調達せねば」
月明かりのおかげで明るい道を歩きながら、月凪は一人ごちた。
月光の元を、一人の麗人が闊歩する。
時は平安。
日本を統べるは時の帝。
今は昔の物語。
初めましての人も、そうじゃない人も、こんにちは。沙伊と言います。
この作品は沙伊が書いている連載小説の「HUNTER」の番外編連載なのですが、「HUNTER」を読まなくても読めるよう書いていくつもりです。
でも興味があればそちらの方も読んでいただけると嬉しいです。
感想評価お待ちしております! 読んでいただきありがとうございます!!