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月華狩人  作者: 沙伊
1/5

男、月下にて女と出会う




 時は平安。

 日本を統べるは時の帝。

 そんな遠い時代の、ある夜だった。



 月が綺麗だった。

 真円を描く、金とも銀ともとれる輝きを持った満月。

 牛車の中からそれを覗き見た源 博雅(みなもとのひろまさ)はほう、とため息をついた。

 紫がかった青の直衣を着た、若い貴族である。

 家柄、というか血筋だけを見れば、他の貴族など足元にも及ばない。

 彼の祖父は先の帝である醍醐(だいご)天皇であり、父はつまり天皇の息子である。

 現在帝位についている朱雀天皇は叔父にあたるのだ。叔父と言っても、博雅の方が五つ上なのだが。

 ともあれ、それらを見れば次の帝位を充分に狙えるのである。

 しかし、彼は他の一貴族のように帝に仕える身だった。

 単純に出世欲とか、そういうものが無いのである。帝位どころか、皇族としてふんぞり返る気も無い。

 しかし今の彼はそんなこと考えてはいなかった。脳裏をよぎったりもしなかった。

 ただ、月の美しさに見惚れていたのである。

 こういう場合、和歌の一つでも詠むべきなのだろうが、あいにく博雅はその才能に恵まれなかった。

(だから俺はもてないんだろうなぁ)

 友人からの指摘を思い出し、今度は憂鬱とした嘆息を吐き出す。

 貴族の恋愛は、和歌が無ければ発展しない。

 それが常識だったし、当然博雅もそんなこと解っていた。

 博雅の年齢なら、本来妻の一人ぐらいいてもおかしくないのだ。

 なのに恋人すらいないのは、和歌を作れないからという、ただそれだけの理由である。

 貴族の娘と会うには、和歌で会いたい旨を伝えなければならない。そのために、和歌はうまく詠めた方がいい。

 簡単に言えば、博雅は和歌の才能が無いために恋愛ができなかった。家柄上結婚話が無いわけでもなかったが、どれもぴんと来ずに断っている。

(ぜいたくだろうか、俺は)

 考えてる内に、どんどん気持ちが沈んでいく。月に対する感動を忘れそうだ。

 そうなる前に、博雅は笛を取り出した。

 後に様々な説話を語られることになる博雅。しかし、それを今の彼が知ることはない。

 そんなことよりも、博雅は月への美しさを忘れまいと笛に薄い唇を押し当てた。

 息を吹き込むと、流れる旋律。

 それは、生物が息をひそめてしまうほど美しい音だった。

 もし道の近くに誰かがいたら、その場で立ち尽くしていたかもしれない。

 笛の音はどこまでも伸びていき、夜闇の中へ溶けていく。それすらも美しかった。

 牛車が多少揺れようと、旋律は乱れない。それほどまでに、博雅は笛に集中していた。

 しかし、さすがに牛車が急に止まったことには驚き、笛から唇を離す。

 まだ屋敷ではないはずだ。こんな時間に他の牛車と鉢合わせもあるまい。

 犬か猫の死骸でも落ちていたか――そんな風に思って御簾から顔を出した。

「なっ……!」

 しかし、目の前の光景は想像していたのと全然違っていた。想像を絶していた、と言っていい。

 いたのは人でも動物でも、ましてや犬や猫の死骸でもなかった。


 いたのは、鬼である。


 身丈三丈以上ありそうな、獣に似た鬼だった。

 犬のような顔は浅黒い毛で覆われており、額には皮膚を突き破ってねじれた角が生えている。全身も顔と同様の毛で包まれていて、長く鋭い爪はぬらぬら黒光りしていた。

「ひ、ひいぃぃ!」

 悲鳴を上げたのは博雅ではない。

 牛の傍にいた従者である。牛もまた、従者の恐怖が感染したのか大きく鳴いた。 ただ一人、博雅だけは冷静だった。

 これが鬼かとか、やはり本物は怖いとか、そう思っていた。

 のんきというわけではなく、あまりの恐怖にかえって冷静になったのである。

 あぁ俺はここで死ぬのか、と他人ごとのようにぼんやり考えていた。

 鬼は一歩前に踏み出した。それだけで、ずしんと地面が揺れる。

「おい、おまえは逃げろ」

 博雅は従者に声をかけた。しかし聞こえてないのか、従者はその場から動かない。

 こちらに音が聞こえてきそうなほど、がたがたと震えていた。

 牛もまた興奮状態で、いつ暴れ出すか解らない。

 牛車で押し潰されてはたまらない、と博雅は慌てて外へ出た。

 それがまずかったらしい。いきなり鬼が咆哮を上げた。


 お゛お゛おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!


 空気がびりびりと震えた。どうやら刺激してしまったようだ。

(なんて思ってる場合じゃない!)

 本当にこれは命が危ない。自分と、それから従者も。

 刀など持っていないし、そもそも持っていたとしても対抗などできるはずがない。

「くっ……」

 博雅は唇を噛んだ。

 ここで自分は死ぬのか、こんな鬼に喰われて。だがせめて、従者だけは逃がしてやらないと。

「おい、早く逃げろ!」

 博雅は従者の腕を引っ張った。

 だが、従者は完全に固まってしまっている。博雅の呼びかけに答えもしない。

 鬼がまた近付いてきた。

「肉、にく、人間、にんげん」

 うわ言のように鬼の口から同じ言葉が繰り返される。

 毛むくじゃらのぶっとい腕が振り上がった。

「う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 術者が叫んだ。そのまま博雅の腕を振り切るように走り出す。

 だが遅い。鬼の手が、術者の背中を捉える――!


 ざんっ


 血が舞った。

 赤黒い血だ。鉄錆の臭いがむあっ、と博雅に迫る。

「げほっ、げほっ」

 たまらず咳き込む博雅の目に、従者の死体は映らなかった。

 代わりに映ったのは、片腕を無くして呆然とする鬼である。

 ぼたぼたと鬼の腕の切口から落ちる血を見た後、博雅は次いで目の前に急に現れた人物を見た。

「笛の音に誘われて来てみれば……これも職業柄か?」

 声は女だ。しかし、容貌は解らない。

 博雅に背を向けているから、ではない。その女は、頭からすっぽり(きぬ)(かづ)いていたのだ。顔どころか、服装も髪も解らない。

 ただ、彼女の手には一振りの刀が握られていた。

 ぞっとするほど美しい、白銀の細い刃だ。白くたおやかな手が掴んでいるのは、血のような紅色の柄である。

「おい」

 博雅が刀に見惚れていると、女は振り返りもせず話しかけてきた。

「少しばかり離れておれ。上物だろう、その直衣」

「そ、それより……おまえは一体」

 博雅が口を開いた時、鬼が我に返った。

 先程のように、否、先程以上の咆哮を上げ、残った腕を振り下ろす。

「危ない!」

 博雅の声にも、女はその場から動かなかった。

 ただ、刀を持ち上げただけである。

 刀と拳がぶつかり合った。

 女が吹っ飛ぶという博雅の予想は、きっちり外れることとなる。それどころか、刀も女も微動だにしなかった。

「格の違い、次元の違いが解らん阿呆が。我とこの刀に出会った以上」

 女が鬼の拳を押し退けた。鬼がよろけたところで、女は地面を蹴る。

「おぬしは冥夜に沈むがよい」

 高々と舞い上がる女。その際に衣が落ち、その姿があらわになる。

 白い狩衣だ。水色のはかまをはき、くるぶしまで伸びた髪を革紐で結んでいる。が、月の逆光でやはり顔は見えなかった。

 ただ女を目で追っていた鬼は、頭上の女を見てその動きを止める。

 呆けたように目を見開き、振り上げようしたであろう腕が持ち上げるだけに終わった。

 人間離れした跳躍力を見せた女は、そのまま重力にのっとって落ちてきた。

 当然、刀も一緒に。

 刀が鬼の脳天を捉える。


 ぎゃあ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!


 悲鳴と共に鬼の身体が半分に割れていった。

 舞う黒い血。博雅はそれの酷い臭いに我に返った。

「あ……」

 小さく声を上げ、鬼と、血まみれの刀を握る女を見比べる。

 あまりにも残酷な行為だったが、彼女は命の恩人である。礼を言わねば。

「おかげで助かった。ありがとう」

 博雅は女に声をかけ、まず礼を述べた。

「鬼を倒したところを見ると、貴女は陰陽師……」

 博雅は言葉を切った。いや、切らざるをえなかった。

 言葉を見失ったのだ。女に目を奪われたために。


 美しい女だった。


 ただ美しいだけなら、声を失うことはない。その女は、規格外の美しさだったのである。

 肌は初雪のようだった。汚れの無い白い頬は、触れるのをためらうほどすべらかだ。そのため(べに)をさしたように紅い唇がなまめかしいぐらいに強調されていた。漆黒の髪は濡れたままのように艶やかで、絹糸のようにさらさらと揺れている。

 しかし何より目を惹き付けられたのは、その顔立ちと瞳であった。

 どんな腕のいい職人でもこれほど美しい人形は造れないだろう。御仏に愛されて産まれたとしか思えないほど端正な顔立ちだった。

 そして瞳。切れ長の目に収まった黒曜石の瞳は限り無く澄んでいて、心の内を見透かされそうだ。とても鬼をためらい無く斬ったとは思えない。

 博雅がぼうっと見とれていると、女は顔をしかめた。それさえ絵に描かれた美女よりずっと美しい。

「何だ、おぬし。人の顔をじろじろ見おって」

「あっ……す、すまない」

 博雅は顔を下に向けた。

 そういえば、こうやって直接女人の顔を見るのは、母や女房達以外で初めてかもしれない。しかもこんな麗しい女だ。おまけに出会い方が出会い方である。

「っ……あの」

「む?」

「おまえ……いや貴女の名前は何と言う? 私は、源 博雅と言うが」

 どもりどもりだった。我ながら情けない。

 しかし、女の方は特にそれを気にした様子は無く、名乗ってくれた。

月凪(つきなぎ)だ」

「つき、なぎ……」

「そう。月を凪ぐと書いて月凪。よろしく、と言っておこう。しかしもう会うことは無かろうよ」


 ではな、博雅殿。


 女は――月凪はそう言って去っていってしまった。

 後に残されたのは、立ち尽くす博雅と鬼の死体、気絶した従者と牛である。

「月凪……」

 博雅はそっと、女の名を呟いた。

 できすぎだとも思ったが、しかしだからこそ、これが偶然とも思えなかった。

「……また、会える。きっとだ」

 確証は無く、確実でもなく。

 しかし確信を持って、博雅は呟いた。


   ―――


「源博雅、か」

 月凪はふむ、と首を傾げた。

「奇妙な男だ。あれほどの笛の()、人の身では吹けまいに。しかし、なるほど……御仏に愛されたか」

 だからこそ、あの男に自分は会ってはいけない。そう思えた。

 この穢れた身をまた彼に晒すなど……耐えがたい。

 そこで、月凪は衣をあのまま置いてきてしまったことに気が付いた。

「しまった。兄様(あにさま)達に、常に(かづ)くよう言われておったのに……」

 月凪は困り顔を浮かべた後、「まぁいいか」とため息をついた。

「しょうがあるまい。屋敷に着いたら、新しいものを調達せねば」

 月明かりのおかげで明るい道を歩きながら、月凪は一人ごちた。


 月光の元を、一人の麗人が闊歩する。

 時は平安。

 日本を統べるは時の帝。

 今は昔の物語。






 初めましての人も、そうじゃない人も、こんにちは。沙伊と言います。

 この作品は沙伊が書いている連載小説の「HUNTER」の番外編連載なのですが、「HUNTER」を読まなくても読めるよう書いていくつもりです。

 でも興味があればそちらの方も読んでいただけると嬉しいです。

 感想評価お待ちしております! 読んでいただきありがとうございます!!



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