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無魔(ノーマ)の鑑定士~絶縁体の少年と、極大魔力の令嬢~  作者: ぱすた屋さん
第7章:地上の重力、空の嘘

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後日談

 地上に降り立ったアステリアは、かつての白亜の威容を泥と緑に沈め、大地の一部になりつつあった。魔法による完全な空調が失われた今、人々の肌には季節の移ろいが容赦なく突き刺さる。初冬の冷たい風が、テオの新しい鑑定所の隙間風となって吹き込んでいた。


「……熱伝導率の計算が狂いました。この村の地金は、不純物が多すぎる」


 作業机の上で、テオは短く息を吐いた。彼の目の前には、近隣の村から持ち込まれた複雑な真鍮製の歯車群が散乱している。それは、村の地下深くから地下水を汲み上げるための、古い風車ポンプの「調速機ガバナー」だった。地上で生きる人々にとって、清潔な水は命綱だ。しかし、長年の摩擦と金属疲労によって、中心となる直径わずか数ミリの軸受けが完全にひび割れてしまっていた。


 これを直すには、割れた真鍮の接合部を正確に溶かし、再びくっつける「溶接」が必要になる。だが、地上にはかつてアステリアにあったような精密な魔導炉はない。テオは旧式のガスバーナーを改造して挑んだが、炎の温度が安定せず、周囲の繊細な歯車まで熱で歪みそうになっていた。


 さらに悪いことに、テオの両手には創立祭の夜に負った重度の火傷の痕が残っていた。引き攣れた皮膚は、ミリ単位の繊細な工具の操作を容赦なく阻む。テオは自身の震える指先を無言で見つめ、静かにバーナーの火を止めた。


「テオ。手、また痛むの?」


 部屋の隅で、冷えた薬草茶を淹れていたアイリスが心配そうに近づいてきた。彼女の服装は、かつての豪奢なドレスから、動きやすい厚手の綿の作業着へと変わっている。泥に汚れることをいとわなくなった彼女の顔つきは、どこか以前よりもずっと大人びて見えた。


「痛みは神経の正常な反応ですから問題ありません。ただ、物理的な可動域が制限されているのは事実です。……この調速機の軸受けは、融点が約九百度の真鍮製。しかし、隣接するゼンマイバネは熱に弱く、三百度を超えると弾性を失って使い物にならなくなる。極めて局所的に、一ミリ以下の点にだけ九百度の熱を与えなければならないのですが、私の今の指先とこのバーナーでは、誤差が生じます」


 テオが淡々と事実だけを述べるのを聞き、アイリスは机の上の小さな真鍮の部品を見つめた。


「……私に、やらせてくれないかしら」


 アイリスの口から出たその言葉に、テオはわずかに目を丸くした。


「アイリス。君の魔力は、都市を丸ごと押し上げるほどの極大出力です。バケツの水を一滴だけこぼすのが難しいように、巨大なエネルギーを一点に絞り込むのは、すべてを吹き飛ばすよりも遥かに高度な制御が必要です」


「わかっているわ。私の魔法は今まで、壊すか、力任せに押すことしかできなかった。魔法学校でも、いかに大きく、いかに派手な現象を起こすかばかり評価されてきたもの。……でも、地上に降りてわかったの。本当にすごいのは、都市を浮かせることじゃなくて、この小さな歯車一つが、誰かの毎日の飲み水を作っているっていうこと」


 アイリスは、テオの横に立ち、その火傷の痕が残る手にそっと自分の手を重ねた。


「あなたが世界を繋ぎ止めてくれた手よ。今度は私が、あなたの手の代わりになりたい。……それに、私だって鑑定士の助手だもの。不備を直す方法を、一緒に見つけたいの」


 テオはしばらくアイリスの真っ直ぐな碧眼を見つめ返していたが、やがて小さく息をつき、引き出しから分厚い遮光ガラスのゴーグルを二つ取り出した。


「……真鍮の融点は摂氏九百度。それ以上の熱を与えれば、金属は気化して有毒なガスになります。逆にそれ以下なら溶接は不完全になり、ポンプを動かした瞬間に再び割れる。……魔法の詠唱やイメージは捨ててください。必要なのは、対象の分子の運動を極所的に激しくさせるという、純粋な熱力学の視点です」


 テオはアイリスにゴーグルを渡し、自身もそれを装着した。緑色のガラス越しに、世界が暗く沈む。


「私の指示に合わせて、魔力の出力を調整してください。針の先を通すような、極小の熱源をイメージするんです。……開始します」


 アイリスは深く深呼吸をし、割れた真鍮の部品へ向けて右手の人差し指をそっと向けた。

 彼女の体内で、海のように膨大なマナが渦巻いているのがテオにも感じられた。それを彼女は必死に押し殺し、圧縮し、ただ一点の「熱」として指先から抽出していく。


「……出力、強すぎます。周囲の空気が膨張し始めている。もっと絞って」


 テオの冷静な声が響く。アイリスの額に汗が滲んだ。巨大なダムの決壊を、素手で塞いでいるかのような恐ろしいほどの集中力。指先の先端に、チカチカと青白い光の点が灯る。


「対象距離、三センチ。……照射、開始」


 アイリスの指先から、目に見えない熱線が放たれた。

 真鍮の割れ目に熱が到達した瞬間、金属の表面がかすかに赤みを帯びる。


「温度上昇、五百度……六百度……遅い。熱伝導によって周囲のバネに熱が逃げています。出力をあと二パーセント上げてください」


「くっ……!」


 アイリスが奥歯を噛み締める。彼女の指先が微かに震え、熱の焦点がずれそうになる。テオは自身の両手で、アイリスの右手を包み込むようにして固定した。火傷の引き攣れなど気にも留めない、万力のような力強いホールドだった。


「私が固定します。あなたは温度の維持だけに集中して。……七百度、八百度……」


 真鍮のひび割れた部分が、チェリーレッドから眩いオレンジ色へと変わっていく。金属の表面がどろりと溶け出し、二つの断面が物理的に融合を始める。


「今です、アイリス。九百度。その温度を三秒間維持」


 一、二、三。

 アイリスの呼吸と、テオのカウントが完全に同調する。


「……冷却。魔力をゆっくりと引いてください。急激な温度変化は金属にひび割れ(クラック)を生みます」


 アイリスは言われた通り、指先に込めていた膨大な熱を、ゆっくりと、綿毛を置くような慎重さで引いていった。青白い光が消え、室内に元の薄暗さが戻る。


 テオはゴーグルを外し、ピンセットで慎重にその真鍮の部品をつまみ上げた。

 そして、手元のルーペで接合部をじっと観察する。


 部屋の中には、アイリスの荒い息遣いだけが響いていた。彼女は緊張で膝が震えそうになるのを必死に堪えていた。都市を落下から救った時よりも、遥かに精神を消耗していた。


 やがて、テオはピンセットを置き、眠たげな半眼をアイリスに向けた。


「……見事な溶接です。接合部の強度は元の素材と同等、いや、熱処理が加わったことでそれ以上になっている。隣のゼンマイへの熱影響も皆無。誤差ゼロの、完璧な仕事だ」


 その言葉を聞いた瞬間、アイリスはへなへなとその場に座り込んでしまった。


「……よかったぁ……。私、心臓が口から飛び出るかと思った……」


 テオは珍しく口角を柔らかく上げ、座り込んだアイリスに水筒を差し出した。


「あなたの魔力は、大きすぎて壊すことしかできない呪いなどではなかった。この極小の熱源を維持できたのは、底なしの魔力容量タンクという圧倒的な余裕があったからです。……魔法も、捨てたものではありませんね。物理法則という定規を当てれば、これほど精密な道具になる」


 アイリスは水筒を受け取り、一口飲んでから、テオの顔を見上げた。


「テオが教えてくれたからよ。……魔法は奇跡じゃない。世界を形作る、たくさんの法則の一つに過ぎないって。だから、ちゃんと計算して、丁寧に扱えば……こんな小さな傷だって直せるのね」


 テオは直った調速機の部品を、風車ポンプの本体へと組み込み始めた。

 カチリ、という小気味よい金属音が鳴る。それは、魔法でごまかされた音ではなく、物理的に完璧に噛み合った歯車だけが奏でることのできる、真実の音だった。


「これで、明日の朝には村の井戸から水が出るようになります。あなたの『小さな奇跡』のおかげで、百人の村人が明日も泥水をすすらずに済む」


 アイリスは自身の指先を見つめた。

 かつては恐ろしくて制御しきれなかった自分の力が、今はとても誇らしく、愛おしいものに感じられた。


「……助手として、少しは役に立てたかしら?」


「少しどころではありません。時給を弾まなければならないほどに優秀な助手ですよ。……もっとも、我が鑑定所は現在、深刻な資金不足ですが」


 テオの言葉に、アイリスは声を出して笑った。

 冷たい隙間風の吹く地上の工房で、油と金属の匂いに包まれながら。

 二人の世界は、空の上にいた頃よりもずっと狭く、不自由で、泥臭い。しかし、その手触りは確かな温度を持って、二人の毎日を少しずつ前へと動かしていた。


 遠くで、夜を告げる地上の鳥が鳴いた。

 物理法則に縛られた不完全な世界で、彼らの新しい修理の日々は、まだ始まったばかりだった。


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