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無魔(ノーマ)の鑑定士~絶縁体の少年と、極大魔力の令嬢~  作者: ぱすた屋さん
第7章:地上の重力、空の嘘

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地面に立つ者たち



 静寂が、世界を支配していた。


 数千年の間、アステリアを包んでいた魔導核の唸り声も、高度を維持するための排気音も、すべてが沈黙した。

 沈下した土埃がゆっくりと地上へと舞い戻り、ひび割れた観測窓の向こう側に、未知の色彩が広がっていく。

 魔法で再現された「空の青」ではなく、大気中の塵や水分が複雑に光を散乱させて生み出す、深く、奥行きのある本物の青だ。


 テオは、ぐったりと制御レバーに身体を預けたまま、震える指で包帯を解いた。

 赤く焼けた皮膚が空気に触れ、鋭い痛みが走る。だが、その痛みこそが、自分が今「質量を持った生物」としてこの大地に存在している証拠のように感じられた。


「……テオ。動ける?」


 アイリスが、自身の汚れたドレスの裾を破り、テオの傷ついた手に新しい布を巻いた。

 彼女の極大な魔力は、着陸の瞬間にすべてを使い果たし、今は穏やかな温もりとして彼女の内に留まっている。魔力の光を失った彼女の瞳は、しかし、どの魔法の結晶よりも強く、現実の光を反射していた。


「ええ。……重力加速度 $9.80665 m/s^2$ 。計算通りの重さです。少々、身体が重く感じますが……許容範囲内ですね」


 テオはよろけながらも、自身の足で立ち上がった。

 足元に広がるのは、金属の床ではなく、アンカーが突き破った「地面」だ。

 湿った土、踏み潰された草の瑞々しい匂い。それらは魔法の芳香剤にはない、生々しい生命の摩擦を感じさせた。


「……信じられない。本当に、降りたのね。私たち、落ちたんじゃなくて、降りたんだわ」


 ヴァレリーが魔導杖を杖として使いながら、テオの隣に並んだ。

 彼女が捨てた銀の紋章は、瓦礫の山に埋もれている。だが、彼女の背筋は、かつて風紀維持局長として教義を守っていた時よりも、ずっと真っ直ぐに伸びていた。


「局長。……いえ、ヴァレリーさん。見てください」


 カイルが、ハッチのレバーを物理的にこじ開けた。

 重厚な鋼鉄の扉がゆっくりと開き、外の世界が四人を迎え入れた。




 アステリアは、広大な緑の盆地に、巨大な鉄の要塞のように鎮座していた。

 展開されたアンカーは、かつてこの都市を空に繋ぎ止めていた鎖から、大地に根を張る「脚」へと、その役割を変えていた。

 空を見上げれば、かつての隣人たちが、窓から恐る恐る外を覗き込んでいるのが見える。


 ハッチから外へ一歩踏み出した瞬間、アイリスが小さく息を呑んだ。

 柔らかい土が、彼女の靴底を優しく受け止める。

 魔法の反発力ではない、物質としての「土」が持つ、圧倒的な受容性。


「……温かい。地面って、こんなに温かいものだったのね」


「地熱、ですよ。魔法のヒーターとは熱伝導の効率が違います」

 テオは、足元の小さな石を拾い上げ、その質量を確認するように掌で転がした。


 そこへ、ボロボロになった法衣を纏ったゼノスが、這うようにして姿を現した。

 彼の魔力は、高濃度のマナが供給されない「地上」では霧散し、ただの老いた人間に成り果てていた。


「……おのれ……。神域を汚し、泥の中に引き摺り下ろして満足か。魔法の栄光を捨てたお前たちに、この過酷な地表で生きる術などあるものか!」


「栄光、ですか」

 テオはゼノスを冷ややかに見下ろした。


「ゼノス様。魔法は確かに、多くの不都合を消し去ってくれました。ですが、それは『解決』ではなく『先送り』に過ぎなかった。……あなたが汚れだと言ったこの泥は、植物を育て、水を濾過し、私たちが立つための確かな摩擦を与えてくれます。魔法という嘘で固めた空の上よりも、ずっと誠実な場所です」


 テオは、拾った石をゼノスの足元に静かに置いた。


「これからは、呪文を唱える代わりに、手を動かして家を建てる必要があります。空飛ぶ都市としての『アステリア』は死にましたが、地上の街としての『アステリア』は、今この瞬間から始まります。……不備だらけの再出発ですが、計算式を立て直すには絶好の機会です」


 ゼノスは絶望したように大地に顔を伏せた。

 空を飛ぶための傲慢な翼は折れ、今や物理法則という名の、全人類に平等な法がこの場所を支配していた。


 ---


 数ヶ月後。


 アステリアは、地上の生態系と融合を始めていた。

 巨大な都市の基部は、今や周囲の村々からやってきた人々との交易の場となり、魔法に依存していた市民たちは、かつて自分たちが蔑んでいた「泥臭い技術」を熱心に学び始めていた。


 テオの新しい鑑定所は、都市のメインゲートのすぐ脇、かつてのアンカーの支柱の影に建てられていた。

 看板には、以前と同じ「不備鑑定所」の文字。だが、訪れる依頼は以前とは全く異なっていた。


「テオさん! この農業用ポンプ、ピストンの戻りが悪いんです!」

「テオ。……この井戸の滑車、重心がズレている気がするわ。確認してくれる?」


 アイリスは、テオの助手として、魔力を「繊細な溶接」や「微細な熱源」として使う新しい技術を開発していた。彼女の魔力は、都市を浮かせるための暴力的な力から、生活を支えるための「小さな道具」へと、その性質を変えていた。


 ヴァレリーは、地上の人々との共生を円滑にするための「新しい憲法」……物理的な安全基準と対等な権利を定めた法律の編纂に明け暮れていた。カイルは、地上の古い遺構から「物理学の欠片」を発掘し、それを新しい教科書として都市に広めている。


「……テオ。今日の鑑定は、これで最後?」


 アイリスが、淹れたての紅茶をテオの机に置いた。

 テオは包帯が取れた手で、古いノートに最後の点検項目を書き込んでいた。


「ええ。……都市全体の傾斜角、変化なし。地盤の沈下速度、許容範囲内。冷却水の循環効率、魔法による補助なしで八十八パーセントを維持。……完璧ではありませんが、合格点です」


 テオは、窓の外を眺めた。

 そこには、夕日に照らされた広大な大地が広がっていた。

 魔法で作り出した永遠の夕暮れではない。一秒ごとに影を伸ばし、確実に「夜」へと向かっていく、物理的な時間の流れ。


「……テオ。あなたにとって、この世界はまだ不備だらけ?」


 アイリスの問いに、テオは懐から一本の古いペンセットを取り出し、それを机の端に置いた。

 ペンは転がることなく、ピタリとその場に止まった。


「世界に不備がないことなど、あり得ません。……摩擦があれば物は摩耗し、重力があれば物は壊れる。魔法のように、すべてが都合よく回ることはないでしょう」


 テオは立ち上がり、アイリスの隣に並んで地平線を見つめた。


「ですが、不備があるからこそ、私たちはそれを直そうとする。摩擦があるからこそ、私たちは立ち止まり、誰かの手を握ることができる。……計算の合わない不完全な世界の方が、鑑定しがいがあるというものです」


 空には、魔法の輝きではない、本物の星が瞬き始めていた。

 かつて見上げていた「嘘の星空」よりも、ずっと遠く、ずっと冷たいが、その光は億光年の距離を物理的に旅してきた、嘘のない真実の輝きだった。


 テオは、自身の作業服のポケットに手を突っ込み、小さなレンチの感触を確かめた。

 不備だらけの、しかし愛おしい大地の上で。

 絶縁体の少年は、これからも世界の軋みに耳を澄ませ、一つ一つの不備を、真実の数式で直し続けていくだろう。




「さて、アイリス。明日の予定を立てましょう。……西区の給水塔のボルトが、三本ほど緩んでいるはずですから」


 二人の影が、暖かな灯火に照らされて、大地の夜に長く伸びていった。

 魔法という名の空虚な夢から覚めた人類は、今、ようやく自分たちの重みを感じながら、一歩ずつ明日へと歩き出していた。


(完)


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