見えない糸の正体
昔のものなのですが誤字多くて改修に時間かかっております。
アーベントの夕暮れは、街を包む巨大な魔導障壁が、西日をプリズムのように分光することで訪れる。空は淡い紫から深い藍色へと移ろい、街中の魔導灯が一斉に瞬き始める。その光景は、誰の目にも完璧な調律がなされた楽園の如く映るだろう。
しかし、テオの瞳が捉えているのは、その光の乱反射によって巧みに隠蔽された「死角」だった。
テオとアイリスは、空中回廊のさらに上、普段は保守用の魔導師以外は立ち入らない時計塔の展望デッキにいた。
「ここに何があるというのですか? 風紀維持局の捜査員たちが、最新の探知魔法で何度もスキャンしたはずですわ」
アイリスが、まだ少し覚束ない足取りでテオの後を追う。彼女は今日、生まれて初めて「靴の踵を地面に擦りながら歩く」という経験をしていた。浮遊魔法を使わずに歩く行為は、彼女にとって全身の筋肉に重力の重みを再確認させる、過酷な労働に近い。
「魔法使いの目は、魔力の光を追うようにできている。真っ暗な部屋で懐中電灯を振り回しているようなものだ。照らされた場所は見えても、照らしている自分自身の足元や、光を反射しない暗闇には気づかない」
テオは展望デッキの欄干に身を乗り出し、夕闇に沈む空間を凝視した。
「あんたが墜落した高度は、ちょうどこの時計塔と、向かいの迎賓館の尖塔を結ぶ直線上だ。高度にして約五十メートル。ここは浮遊都市の風が一定の層を成して流れる場所でもある。気圧差を利用した上昇気流が発生しやすい。つまり、物理的な揚力を稼ぐには絶好のポイントだ」
テオは作業服のポケットから、小さな革袋を取り出した。中には、極細の石灰粉と、ある特殊な鉱石の粉末が混ぜ合わされている。
「何をするつもりですの?」
「世界に色をつけるだけだ。魔法というフィルターを通さない、本当の色を」
テオは風の向きを読み、手の中の粉末をふわりと宙に撒いた。
白い粉は風に乗り、霧のように空間へ広がっていく。通常であれば、それはただ拡散して消えるはずだった。しかし、夕陽が水平線に沈み込もうとするその瞬間、斜めに差し込んだ光が、空中に「静止した線」を浮き彫りにした。
「……っ!」
アイリスは息を呑んだ。
そこには、時計塔から向かいの尖塔へと渡された、蜘蛛の糸よりも細く、しかし鋼のような冷徹さを持った「ワイヤー」が横切っていた。粉末が付着したことで、その存在が残酷なまでに鮮明になる。
「これが……私を落としたもの?」
「正確には、特殊な防蝕油を塗布された極細の炭素鋼ワイヤーだ。魔力伝導率がゼロ――つまり完全な絶縁体。魔法の探知網をすり抜けるために選ばれた、物理の凶器だ」
テオはワイヤーの起点となっている時計塔の石柱に近づいた。そこには、石材を物理的に削り、ボルトで固定された頑強なプーリー(滑車)が設置されていた。
「見てみろ。このプーリーは魔法で保持されていない。ただの梃子と摩擦で、この張力を支えている」
彼は指先でワイヤーを弾いた。空気を切り裂くような高い金属音が、静かな黄昏に響く。
「誰かが意図的にこれを張った。あんたが通る時間に、あんたが通る高度に。魔法を無効化する罠ではなく、魔法を無視する『物理の壁』を設置したんだ」
「でも、なぜ……。私に恨みを持つ者なら、攻撃魔法を使ったほうが確実ですわ」
「そうかな。攻撃魔法を使えば、すぐに魔力の残滓から犯人が特定される。だが、これはただの針金だ。アーベントの法典には、空中に針金を張ることを禁ずる魔導法なんて存在しない。彼らにとって、魔法に映らないものは『存在しない』のと同じだからな」
アイリスは、震える手でその冷たいワイヤーに触れようとしたが、テオがその手を手繰り寄せ、制止した。
「触るな。指が切れるぞ」
テオの指先は、アイリスの白く細い手首をしっかりと掴んでいた。
アイリスは、その手の熱さに驚き、顔を上げた。魔法で体温を調節されている彼女にとって、他人の生身の熱は、どこか暴力的なほどの実感を伴って胸に響いた。
「……テオさん」
「アイリス。あんたがこれまで見てきた世界は、魔法という名の絵画だ。美しくて、破綻のない、完成された結果。だが、そのキャンバスの裏側では、腐った油や錆びた鉄が、悲鳴を上げながら重力と戦っている」
テオは手を離し、暗くなった空を見据えた。
「誰かが、この都市の『見えない歯車』を回し始めた。今回のことは、その歯車が噛み合う過程で生じた、単なる摩擦音に過ぎないかもしれない。だが、ノイズは確実に大きくなっている」
アイリスは、自分の汚れた靴の感触を思い出し、それから目の前の少年の横顔を見つめた。
彼は眠たげで、やる気もなさそうで、口を開けば理屈ばかりを並べる。しかし、彼だけが、魔法の奇跡に酔いしれるこの街で、たった一人「現実」と格闘している。
「私は、逃げたくありません」
アイリスの声には、先ほどまでの怯えは消えていた。
「魔法で消せない汚れがあるのなら、私はその汚れの意味を知りたい。テオさん、あなたの鑑定眼を、私に貸してください」
「断る。と言いたいところだが、あいにく俺は不快なノイズが嫌いでね。あんたの足元についたあの油の正体を突き止めない限り、今夜は安眠できそうにない」
テオはワイヤーを固定していたボルトの一つを、手際よく緩めて抜き取った。そのボルトの頭には、小さな「歯車」の紋章が刻印されていた。
それは、この浮遊都市のどの機関にも属さない、未知の記号。
「鑑定開始だ、お嬢様。……これからは、泥を歩く覚悟をしてもらう」
「ええ。望むところですわ」
アイリスは微笑んだ。その微笑みは、どの魔導具よりも鮮やかに、暗い展望デッキを照らした。
二人の足元で、都市の地下深くから響くような、微かな振動が伝わってきた。
それは魔法の脈動ではない。
半世紀の眠りから覚め、ゆっくりと回転を始めた「物理の歯車」が奏でる、終焉と始まりの鼓動だった。
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次回お楽しみに。




