不備の再定義
鑑定所の空気は、焦げた銅と消毒薬の匂いが混ざり合っていた。
テオは作業机に座り、火傷を負った自身の両手をじっと見つめていた。包帯の上からでもわかる脈動。それは、昨夜彼が食い止めた巨大な歯車の振動と、奇妙に同調しているように感じられた。
「テオ。……賢人会の『査察官』が、今朝から街のあちこちを回っているわ」
扉のベルを鳴らさずに現れたヴァレリーが、硬い声で告げた。彼女は既に制服を脱ぎ、目立たない灰色のコートを纏っている。だが、その眼光は以前にも増して鋭く、周囲の「不自然」を警戒していた。
「目的は鑑定所の閉鎖、そして君の身柄の確保だ。彼らは昨夜の異変を『無魔のテオによる魔導回路への物理的干渉』という罪状に書き換えた。……君はもう、ただの鑑定士ではなく、国家反逆のテロリスト扱いだよ」
「……相変わらず、効率的な嘘ですね」
テオは感情の起伏を見せず、包帯を巻いた指先で古い真鍮の分度器を動かした。
「魔法が完璧であるためには、不備を直した私の存在自体が『不備』でなければならない。物理的な整合性を取るためには、非常に合理的な判断です」
「感心している場合かよ! 俺の端末にも、もう検閲の追跡が回ってきてる。この店も、あと数時間で封鎖されるぜ」
カイルが窓の外を気にしながら、重いトランクを机に置いた。昨夜のデータが詰まった、世界で最も危険な情報源だ。
「だが、ただで逃げるのは俺の美学に反する。……これを見てくれ。ロジャーの隠れ家から回収した、五十年前の極秘設計図だ」
カイルが投影したホログラムには、浮遊都市の断面図が映し出されていた。しかし、そこには中央塔や学園の姿はない。代わりに、都市の底部に折り畳まれるように配置された、巨大な「着陸脚」と、衝撃吸収用の油圧シリンダーの設計案が記されていた。
「……プロジェクト:アンカー。都市を地上へ降ろすための、最終計画書です」
テオの半眼が、その設計図の細部を凝視した。
「アイリス。君の魔力は、都市を押し上げるだけではなく、この巨大な脚を『展開』するための動力源として設計されていた可能性があります。君の家系が代々、極大な魔力を受け継いできたのは、いつか訪れる『着陸の日』に、重力という衝撃を物理的に抑え込むためだった」
「私が、着陸のための……ブレーキだったっていうの?」
アイリスが、自身の掌を見つめた。昨夜、魔力を熱に変えて機械を動かしたあの生々しい感触。それが、彼女の血筋に刻まれた真の役割だったのだ。
「賢人会はこの計画を凍結した。……いいえ、抹消したんです。彼らにとって、地上は『穢れた場所』ではなく、自分たちの魔法的な特権が通用しない『ただの不自由な土地』でしかない。彼らは、空の上で永遠に続く『便利な嘘』を維持するために、唯一の救命ボートである脚を切り落とした」
テオは立ち上がり、背後の棚から一本の重いマスターキーを取り出した。
「ヴァレリー局長。査察官が来る前に、一つだけ『鑑定』をやり直す必要があります。……賢人会が隠しているのは、歯車の摩耗だけではありません。この都市を地上へ繋ぎ止めるための『錨』が、今もどこかで、物理的に機能不全のまま眠っているはずです」
外では、軍靴の音が石畳を叩き始めていた。
魔法の均衡を保つための偽りの平穏が、重力という真実を知った四人を包囲しようとしている。
「不備を放置すれば、いつか必ず致命的な損壊を招きます。……私たちは、この都市を墜落ではなく、正しく『降ろす』ための手順を、物理的に証明しなければなりません」
テオは、焦げたレンチを再び握り直した。
逃亡ではなく、真の物理的な解決へ。
浮遊都市という壮大な欠陥品を救うための、最後の一手が動き出そうとしていた。




