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無魔(ノーマ)の鑑定士  作者: ぱすた屋さん


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3/10

泥のついた靴底



 学園の喧騒から切り離された路地裏に、湿った静寂が戻っていた。

 風紀維持局の魔導師たちが立ち去った後、そこには「魔素の揺らぎ」というもっともらしい説明だけが残された。アーベントにおいて、魔法的な不具合はすべて自然現象として処理される。雷が落ちるのを防げないように、奇跡が気まぐれに途絶えることもまた、この街のことわりとして受け入れられていた。


 だが、テオはその「理」を信じていない。

 彼は事故現場となった石畳の上に屈み込み、手元のルーペで地面を凝視していた。彼の視界には、魔力残滓などという曖昧なものは映らない。ただ、石畳に刻まれた微かな溝や、空気を漂う煤の匂いといった、確かな物理情報の集積があるだけだ。

 彼が探しているのは、先ほどアイリスの靴に付着していたものと同じ「不純物」だった。


「……やはり、ここには落ちていないか」

 テオは立ち上がり、空を見上げた。アイリスが墜落した軌道。彼女は空中回廊から、放物線を描いてこの路地へと吸い込まれた。もし空中で何かに接触したのだとすれば、その「何か」は今も空にあるはずだ。

 しかし、見上げる空には一点の曇りもない。ただ、都市を支える巨大な魔導障壁が、陽光を乱反射させてきらめいているだけだ。


「あの、鑑定士さん」

 鈴の音のような声が、背後から届いた。

 振り返ると、そこには公爵令嬢アイリス・フォン・アストレアが立っていた。ヴァレリーたちの監視を振り切ってきたのだろう。銀髪は少し乱れ、その碧眼には隠しきれない不安と、それを上回るほどの奇妙な熱が宿っていた。

「……お嬢様。ここはあなたのような人が来る場所じゃない。泥が服に跳ねますよ」

「構いません。それより、教えてください。さっきの言葉……『物理的な事故』とは、どういう意味ですか?」

 アイリスはテオに歩み寄る。彼女の足元では、相変わらず浮遊魔法の術式が作動し、彼女の靴を地面から数ミリ浮かせていた。汚れを拒む、完璧な魔法の守護。


「言葉通りの意味です。あんたは『運が悪かった』と言われたようですが、俺の目にはそうは見えなかった。あんたの墜落には、明確な作用と反作用があった」

 テオは無造作に、アイリスの足元を指差した。

「靴を脱いでください。鑑定の続きをします」

「えっ、ここで……?」

「嫌なら帰ればいい。俺はノイズの原因を知りたいだけだ」

 アイリスは躊躇したが、やがて小さく頷くと、浮遊魔法を解除して地面に降り立った。生まれて初めて、彼女の体重が直接、石畳へと伝わる。細い足首が重力に耐え、靴の底がジャリという乾いた音を立てた。

 彼女は片足立ちになりながら、片方のパンプスを脱いでテオに差し出した。


 テオはその高級な革靴を受け取ると、汚れの付いたヒールの端を再びルーペで覗き込んだ。

「見てください、ここです」

 彼に促され、アイリスは不安定な姿勢のまま、自分の靴底を覗き込む。

「……線のような、傷?」

「ええ。単なる傷じゃない。深さと角度が一定だ。これは、高速で移動する物体が、細くて硬い『線』に接触した時にできる典型的な擦過痕です。それも、表面の魔力防護膜を物理的に食い破っている」

 テオは指先で、傷口に残った黒い汚れを掬い取った。

「そして、これだ。あんたたちはこれを『魔素の澱み』と呼ぶかもしれないが、実態は全く別物だ」

 彼はその汚れを鼻先に近づけ、鋭く臭いを嗅いだ。

「……重質油の焼けた匂い。それと、微細な鉄粉が含まれている」


「油と、鉄……? でも、この街の空にそんなものがあるはずありませんわ。空は魔法で浄化されているはずですもの」

「魔法では『物質』を消すことはできない。隠すことはできてもね」

 テオは立ち上がり、汚れた指を自分の作業着で拭った。

「これは、機械の潤滑剤だ。それも、相当な高圧下で酷使された果ての廃油。それが、空中に張られたワイヤーに付着していた。あんたはそれに足を引っかけ、飛行の慣性を奪われて墜落した」


 アイリスは絶句した。

 魔法が万能であると信じられているアーベントにおいて、彼女の靴を傷つけ、墜落させたのが「ただの針金と油」だという事実は、世界の根幹を揺るがすほどの衝撃だった。

「そんな……誰が、何のために?」

「さあ。だが、魔法のセンサーに検知されない物理的な障害物が空に浮いている。これはもはや、単なる事故じゃない。都市のシステムそのものに食い込んだ、巨大な『ガタ』だ」


 テオは空を見上げた。

 優雅に浮かぶ島々。光り輝く魔導の街。

 だが、その美しい景色の裏側で、ドロドロとした廃油を撒き散らしながら軋む、見えない歯車の音が彼には聞こえるような気がした。

 アイリスは、地面に足をつけたまま、自分の汚れた靴を見つめていた。

 魔法では決して得られなかった、足の裏に伝わる冷たさと、確かな「衝撃」の記憶。


「テオさん。私……もっと知りたいです。この汚れがどこから来たのか」

「省エネ主義なんでね。深入りはしたくない」

 テオは冷たく突き放したが、アイリスの瞳は逸らされなかった。

「これは、私を殺しかけた『真実』です。魔法という結果(嘘)の中に隠された、原因プロセスを知る権利が私にはあるはずです」

 

 テオは溜息を吐き、頭を掻いた。

「……仕方ない。ノイズを放置して眠れなくなるのは俺だ。鑑定料は高くつきますよ、お嬢様」

 二人の足元には、剥がれ落ちたばかりの黒い泥が、石畳の隙間にしがみつくように残っていた。

 それは、完璧な浮遊都市に刻まれた、最初の「物理的な綻び」だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回お楽しみに。

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