師匠の教え
「魔法とは、世界で最も贅沢な『言い訳』だ」
地下倉庫の奥、埃にまみれた古い計測器を指先でなぞりながら、テオはかつて師匠が漏らした言葉を反芻していた。
彼に物理を、鑑定を、そして世界の「不備」を直す術を教えたその老人は、常に煤けた作業服を纏い、魔法の輝きを不浄な光であるかのように嫌っていた。
「テオ。……師匠さんは、この都市の核心について、他に何を言っていたの?」
アイリスが、暗がりに置かれた巨大な真鍮製の球体――かつては気圧を測るためのものだったであろう装置――を眺めながら、静かに問いかけた。
テオはランプを机に置き、師匠から譲り受けた古い手帳の、ページが黄ばんだ箇所を開いた。
そこには、大魔導核を模したような円形の図解が、無数の矢印と熱量を示す数字によって埋め尽くされていた。
「局長。あなた方は、あの中央塔に鎮座する大魔導核を、無限にマナを湧き出させる聖なる泉だと思っていますね。……ですが、私の師匠は、それを全く別の名で呼んでいました」
テオは、図解の中央にある「大魔導核」と記された箇所を、ペン先で突き刺すように指した。
「『高効率熱交換ボイラー』。それが、彼がこの都市の心臓に付けた本当の名前です」
「ボイラー……? 冗談を言わないで」
ヴァレリーが、自身の誇りを傷つけられたかのように鋭く声を上げた。
「大魔導核は純粋な精神エネルギーの結晶よ。そこから溢れるのは高次元のマナであって、決して、水蒸気や熱のような野蛮なものではないわ」
「野蛮、ですか。……では、なぜ大魔導核の周辺には、あれほど膨大な数の冷却管が張り巡らされているのですか? なぜ、魔力供給が不安定になると、決まって周囲の温度が跳ね上がるのです?」
テオの問いに、ヴァレリーは言葉に詰まった。彼女もまた、風紀維持局員として魔導核の周辺を巡回した際、あの耐え難いほどの熱気と、蒸気が吹き出すような咆哮を聞いたことがあった。
「師匠は教えてくれました。大魔導核の本質は、マナを生み出すことではありません。マナという名の『不安定な高エネルギー体』を、物理的な『圧力』と『熱』へと変換する、ただの巨大な触媒装置に過ぎないのだと。……この都市を空中に押し上げているのは、魔法の反発力ではありません。マナが変換された際に発生する、天文学的な膨張圧。それが、地下の巨大なシリンダーを突き動かし、先ほど見たあの歯車を、物理的に回しているんです」
「それじゃあ……魔法はただの、石炭やガスの代わりだっていうの?」
カイルが、自身の端末で都市のエネルギー収支を再計算しながら呟いた。
「マジかよ。それなら、この都市は巨大な『蒸気船』が空を飛んでいるのと、構造的には何も変わらないじゃないか」
「ええ。ですが、賢人会はその事実を隠したかった。なぜなら、それが物理的な『熱機関』であるならば、そこには必ず『限界』と『代償』が生じるからです。……魔法という言葉を使えば、故障は『呪い』として、老朽化は『魔素の枯渇』として片付けられる。人々の関心を、保守点検という泥臭い義務から、信仰という安価な感情へ逸らしたんです」
テオは、手帳の最後の一節を指差した。そこには師匠の力強い筆致で、こう記されていた。
『都市が落ちるのは、魔力が尽きる時ではない。歯車の摩擦が熱を食い潰し、機械が自らの質量に耐えられなくなった時だ。テオ、覚えておけ。この都市で唯一信じられるのは、手のひらに伝わる金属の熱と、目盛りが示す真実だけだ』
「師匠は、50年前の事故の際、魔導核の『出力』ではなく、物理的な『弁』を閉じることで暴走を止めました。……彼は知っていたんです。魔法のコマンドよりも、一個のボルトを締めることの方が、確実に世界を繋ぎ止めることができると。……そして、彼はその代償として、絶縁体でない自身の身体を、物理的な高熱によって焼き尽くした」
テオの静かな語り口には、師匠への崇拝も、自分自身の運命への恨みもなかった。
あるのはただ、冷徹なまでに正確な、事象の鑑定結果だけだった。
アイリスは、自身の胸元に手を当てた。極大の魔力。それは自分にとって、選ばれた者の証であり、同時に孤独の象徴でもあった。しかし、もしそれがただの「燃料」に過ぎないのだとしたら。
「……テオ。私が今まで誇りに思っていた魔力は、この街を動かすための、ただの『お湯を沸かす火』だったのね」
「お湯を沸かす火に、貴賤はありませんよ、アイリス。……それがなければ、お茶も淹れられません」
テオはわずかに目を細め、彼女を慰めるのではなく、事実としての対等さを提示した。
「……サイレント・ギア。彼らは、師匠が守ろうとしたこの『ボイラー』を、爆発させようとしている。魔法という名の安全弁を取り払い、物理的な限界まで圧力を高めてね」
テオはランプを持ち上げ、出口へと続く暗い回廊を照らした。
師匠の教えは、呪いではなく、道標だった。
世界が魔法という嘘に酔いしれる中で、ただ一人、シリンダーの軋みと熱量の計算に人生を捧げた老人の遺志。
「行きましょう。ボイラーの寿命が来る前に、私たちがその『不備』を鑑定し、修正しなければならない」
ヴァレリーは、自身の魔導杖を杖としてではなく、硬い鋼鉄の棒として握り直した。
彼女の信じていた「聖なる輝き」は消えた。しかし、その後に残ったのは、自身の重みで地面を捉える、確かな自意識の感触だった。




