物理学という名の禁書
「……これが、彼らが火に投げ込み、歴史から消去しようとした『世界の設計図』の正体か」
カイルが震える指でページをめくる。地下倉庫の奥底、偽装された二重底の革表紙の中に隠されていたのは、魔導ルーンの一文字すら記されていない、無機質な図表と数字だけの羅列だった。
学園の教義において、この浮遊都市が空にある理由は明確だ。賢人会が管理する大魔導核から発せられる「慈愛の波動」が、選ばれた民を重力という名の穢れから救い上げている。それが世界の唯一の理であり、疑うことさえ許されない聖域の知識だった。
しかし、テオが手にしたこの『物理学原論』の断片は、その前提を真っ向から否定していた。
「見てください。ここには『重力は神の意志ではない』とはっきり記されています」
テオが指し示した節には、黄ばんだインクで驚くべき一文が刻まれていた。
――重力とは、あらゆる質量を持つ物体が、その大きさに応じて互いを引き寄せる、宇宙に遍在する普遍的な『力』である。
「質量が……引き合う?」
ヴァレリーが、自身の魔導杖を杖ではなく、単なる「重い棒」として見つめるように凝視した。
「そんなはずはないわ。もしそれが事実なら、この都市の巨大な質量は、絶えず地上に引かれ続けていることになる。魔法という名の浮力がなければ、私たちは一瞬たりとも空に留まれない。……でも、この本には『魔法』なんて言葉は一言も出てこないわ」
「ええ。この本が説いているのは、浮力を得るための『翼の断面形状』であり、高度を維持するための『質量のバランス』です」
テオは、破れた図解をオイルランプに翳した。そこには、都市の基部に備えられた巨大なジャイロスコープと、それを回転させるための「慣性のモーメント」についての計算が記されていた。
「局長。賢人会は、この事実を恐れたんです。重力が『神の意志』であれば、人々は神に祈り、それを管理する賢人会に平伏すしかない。ですが、もし重力が単なる『質量の性質』であるなら……計算と技術さえあれば、誰でも空を飛ぶことができてしまう」
テオの言葉は、静かな断罪のように響いた。
魔法が奇跡である限り、それは一部の特権階級の独占物であり続ける。だが、それが物理法則であるならば、それは全人類に平等に開かれた「法則」へと成り下がる。権力者たちが最も恐れたのは、自分たちの神秘性が「ただの計算式」に置き換えられることだったのだ。
「……信じられない。私たちが学んできた『魔導力学』は、この単純な法則を隠すための、壮大なデコレーションだったのね」
アイリスが、自身の白く細い指を見つめる。
「私が極大な魔力を持っているから浮いているんじゃない。この都市という巨大な質量の一部として、私はただそこに『在る』だけ。重力は、私を嫌っているんじゃなくて、私を捕まえて離さないだけなのね」
アイリスの碧眼には、恐怖ではなく、どこか救われたような色が浮かんでいた。自分を特別な存在だと思っていた彼女にとって、世界の理に縛られているという事実は、何よりも強い「連帯感」を与えてくれた。
「だが、この本には続きがあるぜ」
カイルが、さらに古い羊皮紙を引っ張り出した。
「『重力に従うことは、敗北ではない。重力を理解し、それと調和することこそが、真の自由への鍵である』……。かっこいいこと言うじゃねえか、50年前の物理学者さんはよ」
しかし、その「調和」という言葉の直後で、ページは鋭利な刃物で切り裂かれていた。
もっとも重要な、都市を安全に地上へ降ろすための「質量制御の手順」が、組織的に抹消されている。
「サイレント・ギアは、この続きを知っている。あるいは、彼ら自身がこの知識を奪い去ったのかもしれない」
テオは本を閉じ、重い溜息をついた。
「彼らは重力の正体を知っている。だからこそ、都市がどれほど危うい均衡の上に立っているかも理解している。……局長。この本を風紀維持局に持ち帰りますか? それとも、ここで焼きますか?」
ヴァレリーは、自身の銀色のバッジを見つめ、それからテオの眠たげな半眼を射抜くように見つめ返した。
「……風紀維持局に、物理学を理解できる人間はいません。あそこに持ち帰れば、この真実は再び闇に葬られるだけだわ」
彼女は、自身の魔導杖を静かに床に置いた。
「それは、あなたが持ちなさい。……私は、自分の目で見た事実だけを、私の『秩序』として再定義することにしたわ。魔法の嘘を守るために、物理の真実を捨てることはしない」
ヴァレリーの「警告」は、今や「共犯」への誓いへと変わっていた。
絶縁体の少年、泥を歩く令嬢、落ちこぼれの情報屋、そして信念を曲げた番人。
四人は、一冊の禁書を囲み、魔法という光の裏側に広がる「重力という名の真実」を共有した。
「……さて、物理学の勉強はここまでです」
テオは、懐から自身の師匠が遺した古いレンチを取り出した。
「重力が質量を引き寄せる力なら、今の私たちのやるべきことは一つ。……都市という巨大な質量の『中心』が、サイレント・ギアによってどこへ引き寄せられようとしているのか、その座標を特定することです」
地下の冷たい風が、禁書のページをパラパラと捲り、誰もいない暗闇へと「普遍的な法則」を囁き続けていた。




