図書室の禁忌(タブー)
学園の中央図書室は、知識を「保管」する場所というよりは、知識を「管理」するための神殿だった。
高い天井まで届く書架には、光り輝く魔導記録結晶が整然と並び、検索術式を唱えれば必要な情報は一瞬で脳内へと投影される。紙の匂いも、ページをめくる摩擦音もない。そこにあるのは、完璧に濾過され、体系化された「魔法の真理」だけだった。
だが、テオはその煌びやかな記録結晶の列には目もくれず、図書室の最奥、厚い結界に守られた「閉架区域」のさらに先にある、忘れ去られた地下倉庫へと足を運んでいた。
「……埃の堆積から見て、少なくとも十年は誰も立ち入っていませんね」
テオがオイルランプを翳すと、そこには死蔵された「紙の束」が積み上がっていた。魔法によるデジタル化が進んだこの都市において、物理的な本はもはや廃棄を待つだけの粗大ゴミでしかなかった。カビの匂いと、インクが酸化した独特の酸っぱい香りが、澱んだ空気の中に充満している。
「ここが、学園が隠したがっている『物理』の残骸なのね」
アイリスが、自身の魔導衣の裾を汚すのも厭わず、テオの隣に立った。彼女の碧眼には、魔力の輝きを放たない死んだ書物たちが、かえって新鮮な驚きを持って映っていた。
「テオ。……この区画、風紀維持局の記録からも抹消されているわ。本来なら、存在してはいけない場所よ」
同行するヴァレリーが、自身の魔導杖を硬く握りしめたまま、警戒を露わにする。彼女にとって、記録から消された場所を歩くことは、自身の信仰する「秩序」に対する背信行為に等しかった。しかし、地下の巨大な歯車を見てしまった今、彼女の足がここから逃げ出すことを拒んでいた。
「デジタルデータは書き換えが容易です。都合の悪い事実は削除すればいい。ですが、物理的な質量を持った『本』を完全に消し去るには、燃やすという物理的な破壊の手間が必要になる。……賢人会は、その手間すらも惜しんだのでしょうね」
カイルが、手元の端末で周辺の空間をスキャンしながら皮肉っぽく笑った。
「見てみろ。どの本も表紙が剥ぎ取られ、タイトルが抹消されている。だが、この棚の配列……図書分類法じゃなく、ある特定の『パラメータ』に従って並べられているぜ」
カイルが指差したのは、書架の側面に刻まれた微小な索引記号だった。それは魔導文字ではなく、無機質な数字の羅列――「物理定数」による分類だった。
テオは、崩れかけた一冊の厚い本を棚から引き抜いた。
その瞬間、指先に伝わる紙の重みと、装丁の革が剥がれる嫌な感触。テオは迷うことなく、その本の中ほどを開いた。
そこには、現代の魔導師が見れば「発狂」しかねない禁忌の知識が、緻密な図解と共に描かれていた。
「……『万有引力の法則』」
テオが、その言葉を静かに音読した。
「重力とは、神の意志でも魔導核の慈悲でもない。質量を持つ物体同士が、互いに引き合う物理的な力である。……その大きさは、二つの質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する」
F = G \frac{m_1 m_2}{r^2}
その数式が目に飛び込んできた瞬間、ヴァレリーは激しい目眩に襲われたように壁に手をついた。
「……何、その、出鱈目な理屈は。浮遊都市が空にあるのは、反重力術式によって重力の因果を『否定』しているからよ。質量が引き合うなんて、そんな野蛮な法則、この空には存在しないわ」
「いいえ、局長。存在しないのではなく、隠されているだけです」
テオは、破れたページを指先でなぞった。
「魔法は重力を『無効化』しているつもりでいますが、物理学は重力を『利用』しようとした。この古い教科書には、こう記されています。――浮遊都市を支えているのは魔法の反発力ではなく、巨大な遠心力と、大気圧の差による揚力、そして『歯車』による質量の分散である、と」
テオは本のさらに奥、黒く塗り潰された記述を、鑑定士特有の鋭い眼差しで透かし見た。
「五十年前の都市大改修の際、この都市は物理学を捨てた。あるいは、捨てさせられた。魔法という『答え』だけを教え、その根底にある『数式』をすべて禁忌として封印したんです。……なぜなら、数式を知る者は、魔法という嘘の綻びに気づいてしまうから」
「これを見て……!」
アイリスが、別の書架から一枚の折りたたまれた図面を見つけ出した。
それは、都市の断面図だった。
現在の学園が教えている「魔導エネルギーの循環図」とは全く異なる、血の通った機械の設計図。そこには、魔導核の周囲を取り囲むように、巨大な蒸気タービンと、それによって駆動する「ジャイロスコープ」が描かれていた。
「私たちの街は、魔法の雲に乗っているんじゃない。……巨大な独楽のように、物理的な回転によってその水平を保っていたのね」
アイリスの震える声が、地下倉庫の静寂に波紋を広げた。
もしこの知識が事実なら、魔法は単なる「動力源」に過ぎず、都市を浮かせている実体は巨大な「物理機械」であるということになる。そして、サイレント・ギアが狙っているのは、その「機械」の死角なのだ。
「テオ。……この本の続きは?」
ヴァレリーが、自身の恐怖を隠すように鋭く問う。
「切り取られています。この先に、都市の『真の急所』が記されていたはずですが……。誰かが、物理的に持ち去った跡があります」
テオは、切り裂かれた本の断面に触れた。断面は鋭利で、まだ新しい。
「サイレント・ギアもまた、ここに来たということです。彼らは失われた教科書の『続き』を読み、私たちはその『断片』しか持っていない。……この差を埋めなければ、私たちは都市の墜落を計算することすらできません」
テオは、埃まみれの禁書を、自身の作業服の懐へと押し込んだ。
魔法の光が支配する地上へと戻るために。
「帰りましょう。この地下には、もう『物理的な正解』は残っていません。……次は、この本の持ち主――五十年前の『失敗』を知る者を探す必要があります」
出口へと向かう四人の背中を、オイルランプの火が長く、歪な影として壁に映し出していた。
図書室の禁忌。それは単なる過去の遺物ではなく、これから訪れる「重力の審判」に対する、あまりにも重い予告状だった。




