墜落する宝石
浮遊都市アーベントの空は、常に魔導師たちの優雅な軌跡で彩られている。
特に、公爵家の令嬢であるアイリス・フォン・アストレアの飛行は、市民にとって一種の芸術だった。彼女の纏う銀髪が朝陽を弾き、最新の魔導衣から溢れる青白い光の粒子が、雲の合間に虹を架ける。彼女にとって空を飛ぶことは、呼吸をすることよりも容易で、歩くことよりも自然な行為だった。
足元は常に浮遊魔法によって地面から数ミリ浮いており、彼女はこの一生で、一度も「泥を歩いた」ことがない。
その日も、アイリスは学園への通学路として、最短距離である空中回廊を滑走していた。
高度は約五十メートル。風は穏やかで、魔素の濃度も安定している。完璧な朝だった。彼女の意識は、今日の講義の内容や、午後の茶会の段取りへと向けられていた。
だが、その「完璧」は唐突に断絶する。
――衝撃。
それは、魔法的な干渉ではなかった。魔力の供給が途絶えたわけでも、術式が崩壊したわけでもない。
アイリスの体は、目に見えない巨大な「壁」に衝突したかのように、前方への慣性を急激に奪われた。肺から空気が押し出され、視界が激しく明滅する。
「え……?」
言葉を紡ぐ余裕すら与えられず、彼女の体は重力の支配下へと引きずり込まれた。浮遊魔法の術式が、彼女のパニックに反応して激しく明滅するが、揚力を得るための「手応え」がどこにもない。
銀色の髪が乱れ、宝石のような碧眼に恐怖が宿る。世界が高速で逆流し、石畳の路地が牙を剥いて迫ってくる。
その時、階下の路地裏で、古い時計のゼンマイを巻いていたテオは、不快な「音」を聞いた。
それは魔力の爆発音ではない。空気が鋭く裂かれ、何かが急速に位置エネルギーを失っていく、物理的な破綻の音だ。
テオは作業台を蹴って窓辺に立ち、半開きの目で空を見上げた。
視界には、制御を失った銀色の塊が、螺旋を描きながら落下してくるのが映る。
「仰角六十度……自由落下にしては減速が足りない。あのアホな魔法使い、パニックで出力を上げすぎて、余計に推進力を歪めてるな」
テオは独り言を吐き捨てながら、壁に掛けられた太いワイヤーガンのホルスターを掴んだ。
彼は絶縁体だ。魔法で彼女を助けることはできない。だが、彼には質量と張力という、裏切ることのない物理法則の味方がいた。
テオは屋上の手すりに飛び乗り、落下地点を予測する。
アイリスが地上に激突するまで、あと三秒。
彼は無造作に引き金を引き、高強度炭素繊維のワイヤーを放った。
魔法の糸ではない。火薬の爆発エネルギーによって射出された、ただの鋼の紐だ。
ワイヤーはアイリスの腰に巻かれた魔導ベルトの金具に、吸い付くような精度で絡みついた。
「ぐっ……!」
テオの腕に、一人の人間を急停止させるだけの凄まじい衝撃が走る。
彼はその衝撃を殺すために、自らの体もろとも前方にダイブし、滑車を利用して衝撃を分散させた。
アイリスの体は、石畳まであと数十センチというところで、不格好に宙吊りとなった。
静寂が路地を支配する。
やがて、上空から遅れてやってきた学園の風紀維持局――魔導師たちの分隊が、大騒ぎをしながら舞い降りてきた。
先頭に立つのは、冷徹な美貌を隠そうともしないヴァレリーだった。彼女は現場の惨状と、ワイヤーに吊るされたアイリスを見て、眉をひそめた。
「アイリス様! ご無事ですか!」
駆け寄る魔導師たちが、慌てて浮遊魔法でアイリスを地上に下ろす。
アイリスは蒼白な顔で震えていた。彼女の足が、生まれて初めて「地面」に触れる。冷たく、固い、不確かな感触。
「……何が、起きたの……?」
震える声で問うアイリスに対し、ヴァレリーは周囲の魔素濃度を測定する魔導具を確認し、断定的に告げた。
「突発的な魔素の揺らぎ(マナ・フラクチュエーション)です。この一帯の魔力分布が一時的に不安定になり、浮遊術式にバグが生じたのでしょう。非常に稀な自然現象ですが、時折起こることです」
周囲の魔導師たちも、納得したように頷く。彼らにとって、魔法が効かなくなる理由は、常に魔法の中にしかない。
「バグ、か。便利な言葉だ」
背後から聞こえた冷ややかな声に、ヴァレリーが鋭い視線を向けた。
そこには、肩の脱臼を自分ではめ直し、汚れた作業着の埃を払うテオが立っていた。
「君か。……また非公式な道具を持ち出して。今回ばかりは感謝するが、現場を混乱させるような真似は慎んでもらいたい」
「混乱させているのは、あんたたちの目の方だ」
テオはアイリスの足元に歩み寄った。
跪き、彼女の靴底をじっと見つめる。
アイリスは呆然と、自分を見上げる眠たげな黒髪の少年を見つめ返した。自分を「道具」で助けた、魔法の光を持たない少年。
「魔素の揺らぎで、靴のヒールが削れるのか?」
テオの問いに、ヴァレリーが言葉を詰まらせる。
「何を……」
「見てみろ。彼女の左足のヒール、エッジが鋭角に削り取られている。これは落下の衝撃じゃない。空中で『何か』に接触した擦過痕だ。それも、相当な高度で固定されていた物理的な何かに」
テオは指先でアイリスの靴の縁をなぞった。
そこには、微かな、だが確かな「泥」の汚れが付着していた。
「空に泥が浮いているはずがないだろう。……これは魔法の不具合じゃない。単なる物理的な事故だ」
「ふざけないで。空中に物体を固定するには、強力な固定魔法が必要です。局のセンサーが感知しなかった以上、そんなものは存在しない」
ヴァレリーは吐き捨てるように言い、アイリスを促してその場を去ろうとした。
しかし、アイリスは動かなかった。
彼女は自分の靴底に触れた、テオの無骨な指の感触を反芻していた。
魔法の暖かさではない、確かな質量を持った、生身の感触。
「……名前は?」
アイリスが、かすれた声で尋ねた。
「テオ。ただの鑑定士だ」
テオは興味なさげに背を向け、自分の店へと戻っていく。
「あ、待って……!」
呼び止める声は、喧騒の中に消えた。
テオの脳裏には、先ほどアイリスの靴に付着していた「泥」の質感が残っていた。
それは、この浮遊都市のどこにでもある土ではない。もっと粘り気が強く、油分を含んだ、機械の潤滑剤に近い性質の泥。
空中に張られた、見えない「物理的な糸」。
テオは欠伸を一つ噛み殺し、手の中のワイヤーガンを見つめた。
この都市の空は、彼らが信じているほど、透明ではなさそうだった。
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次回お楽しみに。




