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【絶対爽快】因果応報・ざまぁ短編集 ~見下された者たちの逆転劇~

『「アレルギーなんて甘えだ」と娘にパンを強要した新担任。アナフィラキシーで搬送された病院で、医師に「それは殺人未遂です」と完全論破され、破滅するまで』

作者: 品川太朗

アレルギーを「ただの好き嫌い」と勘違いし、「精神論」で克服させようとする新任教師のお話です。


前半は教師の無知で独善的な言動により、かなり胸糞の悪い展開が続きますが、ご安心ください。

後半、専門知識を持った医師による「完全論破」と、因果応報の「制裁」が待っています。


ムカムカからのスカッと、最後はほっこりハッピーエンドです。

短編ですので、サクッとお読みいただけます。


第1話 :新学期と新しい担任

「お母さん、これ。乳化剤って書いてあるけど、大豆由来?」

「どれどれ……うん、これは大豆由来だから大丈夫。小麦は入ってないよ」

 スーパーの買い物かごに入れる前、十歳の娘、結衣ゆいが私にパッケージを見せてくる。

 パッケージの裏面、原材料名の欄を二人で確認する作業。それは、結衣が物心ついた頃からの、我が家の当たり前の日常だった。

 結衣には、重度の小麦アレルギーがある。

 パンや麺類はもちろん、つなぎに使われるわずかな小麦粉、醤油に含まれる成分にさえ反応することもある。誤って摂取すれば、全身の蕁麻疹じんましんだけでは済まない。喉が腫れ上がり、呼吸ができなくなるアナフィラキシーショックを起こす危険性が高いのだ。

 食事は命に直結する。だからこそ、私たちは常に神経を尖らせてきた。

 けれど、そんな緊張感とは裏腹に、結衣の学校生活はとても穏やかで楽しいものだった。

宮本みやもと先生、赤ちゃん産まれたら見に来てねって言ってたよ」

「そう。楽しみだね」

 三年生から担任をしてくれていた宮本先生は、アレルギーに対する知識も深く、クラスの子どもたちにも「結衣ちゃんのアレルギーは、好き嫌いとは違うんだよ」と丁寧に教えてくれていた。

 おかげで、給食の時間に結衣が代わりの弁当を広げても、誰も奇異な目で見たりしない。

 学校は、家と同じくらい安全な場所。そう信じて疑わなかった。

 ――あの日、あの手紙が届くまでは。

 四月。新学期を迎えたその日、学校から配られたプリントには、宮本先生が予定より早く産休に入ること、そして代わりに新しい先生が着任することが記されていた。

権田ごんだ……修一先生?」

 聞き慣れない名前に、胸の奥で小さく警鐘が鳴るのを感じた。

 不安を打ち消すように、私は結衣の背中をポンと叩く。

「大丈夫よ。学校にはちゃんと申し送りしてあるはずだし、養護の先生もいるから」

「うん……そうだよね」

 結衣は少し不安そうに笑った。

 その笑顔を守るために、私はもっと早く気づくべきだったのだ。

 この世には、悪気さえなければ何をしても許されると思い込んでいる、「善意の怪物」がいるということに。

     ◇

 最初の違和感は、四月の保護者会だった。

 教室の前に立った新しい担任、権田先生は、ジャージ姿が似合う日焼けした大柄な男性だった。

「えー、新しく担任になりました権田です! 私のモットーは『不撓不屈ふとうふくつ』! 子どもたちには、困難に打ち勝つ強い心と体を育てていきたいと思ってます!」

 大きな声が教室に響く。

 ハキハキとした喋り方、真っ直ぐな視線。保護者の中には「頼りがいがありそう」と好意的なひそひそ話をする人もいた。

 けれど、私は妙な胸騒ぎを覚えていた。彼の言葉には、どこか「弱さ」を否定するような響きがあったからだ。

 会が終わり、私は個別に挨拶をするために権田先生の元へ向かった。

 もちろん、結衣のアレルギーのことを再確認するためだ。

「ああ、結衣さんのお母さんですね! 聞いてますよ、給食が食べられないとか」

 食べられない、という言い方に少し引っかかる。

「はい。重度の小麦アレルギーですので、引き続きお弁当を持参させます。給食当番の際も、配膳での接触を避けるようにお願いしてありまして……」

「いやあ、お母さん。心配しすぎじゃないですか?」

 権田先生は、私の言葉を遮って、豪快に笑った。

「え?」

「今の子はね、ちょっと過保護に育てられすぎなんですよ。アレルギーとか言いますけど、要は『慣れ』でしょう? 僕も昔はピーマンが嫌いでしたが、親父に無理やり食わされて克服しましたからね! ガハハ!」

 頭の中が真っ白になった。

 ピーマンの好き嫌いと、命に関わる免疫反応を一緒にしている?

「先生、それは違います。好き嫌いではなく、アレルギーなんです。最悪の場合、命に関わります」

 私が強い口調で訂正すると、権田先生は「はいはい」と面倒くさそうに手を振った。

「わかってますよ、一応ね。まあ、僕のクラスになったからには、少しずつでも身体を強くしていきましょう。みんなと同じ釜の飯を食えるようになるのが、一番の幸せですからね」

 その目は、私の訴えを全く聞いていなかった。

 自分の考えこそが正義であり、私を「神経質な過保護な親」と決めつけている目だった。

 帰り道、繋いだ結衣の手の温かさを感じながら、私は冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。

 この先生は、危ない。




第2話:小さなすれ違い

 新学期が始まって一週間。その日、学校から帰ってきた結衣の表情は、どこか曇っていた。

「ただいま……」

「おかえり、結衣。どうしたの? 元気ないじゃない」

 玄関でランドセルを受け取りながら顔を覗き込むと、結衣は困ったように眉を下げた。

「今日ね、先生にプリント出しに行った時、言われたの」

 ――それは、休み時間の出来事だったという。

     ◇

(ここからは結衣が体験した、教室での光景)

 ガヤガヤと騒がしい休み時間の教室。

 結衣は連絡帳を提出するために、教卓に座る権田先生のもとへ向かった。

「先生、お願いします」

「おう、結衣か! ご苦労!」

 権田先生の声はいつも大きい。ビクリと肩を震わせながら連絡帳を置くと、先生は不意に結衣の顔をじろりと見た。

「そういえば結衣、今日の給食も弁当だったな。今日のメニュー、揚げパンだったぞ。みんな美味い美味いって食ってたのになぁ」

「あ……はい。でも、私、小麦がだめなので」

 結衣が俯きながら答えると、権田先生は「もったいない!」と大げさに嘆いてみせた。

「いいか結衣。給食っていうのはな、ただの栄養補給じゃないんだ。同じ釜の飯を食って、クラスの団結力を高める。それが一番の目的だ」

「はい……」

「お前だけ違うものを食ってるっていうのは、仲間外れみたいで先生は寂しいぞ。小麦アレルギーなんて言ってるが、要は好き嫌いの延長みたいなもんだろ? 少しずつ食べて慣らしていけば、絶対治るって!」

 先生の顔には、一点の曇りもない笑顔が張り付いていた。

 彼は本気で励ましているのだ。結衣のために、良かれと思って言っている。

 けれど、結衣にとってその言葉は、鋭いナイフのように心を削った。

「……すみません」

 結衣は逃げるように自分の席に戻った。

 アレルギーは、私の努力が足りないから治らないの?

 私がみんなと同じものを食べられないのは、クラスの団結を乱す悪いことなの?

     ◇

 一方その頃、職員室ではもう一つの「すれ違い」が起きていた。

「権田先生、少しいいですか?」

 声をかけたのは、養護教諭の里見さとみ先生だ。

 眼鏡の奥の瞳は理知的で、常に生徒の健康管理に目を光らせているベテランだ。彼女の手には、分厚いクリアファイルが握られていた。

「ああ、保健の先生。なんです、俺健康診断なら自信ありますよ! オールAです!」

「ご自身の健康自慢ではありません。あなたのクラスの、結衣さんのことです」

 里見先生はため息混じりに、ファイルを権田の机に置いた。表紙には『食物アレルギー対応マニュアル・緊急時対応プラン』と書かれている。

「宮本先生からも引き継ぎは受けていると思いますが、改めて確認してください。結衣さんの小麦アレルギーは、クラス6、つまり最重度です。微量の混入コンタミネーションでもアナフィラキシーを起こす可能性があります。エピペンの使い方は……」

「あー、はいはい、わかってますって!」

 権田は話を遮り、面倒くさそうに頭をかいた。

「里見先生、あんたは真面目だなぁ。マニュアル、マニュアルって。俺たち教師が見るべきなのは、紙切れじゃなくて子供の顔でしょう?」

「子供の命を守るためのマニュアルです。読んでおいてくださいね、必ず」

 念を押して去っていく里見先生の背中を見送りながら、権田は鼻を鳴らした。

 そして、渡されたファイルをパラパラとめくりもせず、書類の山の隙間に無造作に突っ込んだ。

「大げさなんだよなぁ。今まで何人も生徒を見てきたが、パンの粉吸って死んだ奴なんて見たことねぇよ」

 彼は自分の経験則しか信じていない。

 「今まで大丈夫だったから、これからも大丈夫」。その根拠のない自信が、最悪の事故へのカウントダウンを進めていることに、彼はまだ気づいていなかった。

     ◇

「……そんなことを言われたの」

 夕食の準備をしながら、私は包丁を握る手に力を込めた。

 結衣は「先生、悪い人じゃないと思うんだけど……」と気を使っているが、その内容は看過できるものではない。

「ママ、私、努力が足りないのかな?」

「そんなことない! 絶対にないわ!」

 思わず大きな声が出てしまい、結衣が驚いた顔をする。私は慌てて声を落とし、娘を抱きしめた。

「結衣は何も悪くないの。体質は、気合や根性でどうにかなるものじゃないのよ。……お母さんから、また先生にお話ししておくからね」

 大丈夫、と結衣に言い聞かせながら、私の中の不安は黒い渦となって広がっていた。

 あの先生には、常識が通じないかもしれない。

 

 私の予感は、翌日、さらに悪い形で的中することになる。




第3話 :危うい兆候

 四時間目のチャイムが鳴り、給食当番が配膳を始めると、教室の中に香ばしい匂いが充満し始めた。

 今日のメニューは、コッペパンとクリームシチュー。

 クラスメイトにとっては食欲をそそる香りでも、結衣にとっては警戒すべき「危険な空気」だった。

 結衣は息を潜めるようにして、持参した弁当箱の蓋を開けた。

 母が早起きして作ってくれた、米粉パンと、米粉の衣で揚げた唐揚げ。見た目はみんなと変わらないけれど、安全な食事。

 それを一口食べようとした時だった。

「おっ、結衣。今日の弁当も豪勢だな!」

 ドス、と机に手をつき、権田先生が顔を近づけてきた。

 近い。圧迫感に結衣の手が止まる。

「唐揚げか。……おい結衣、お前『揚げ物』は食えるんだな?」

「え? あ、はい。これは米粉を使ってて……」

「粉は粉だろ?」

 権田先生はニヤリと笑った。彼の中で、何か勝手な理屈が繋がったようだった。

「いいか結衣。唐揚げが食えるってことは、お前の体は油も粉も受け付けてるってことだ。だったら、給食のコロッケやフライだって、中身は同じようなもんだろうが」

「ち、違います。小麦が入っていると……」

「それが『思い込み』だって言ってるんだよ」

 先生の声が大きくなり、クラスの生徒たちが一斉にこちらを見た。

 注目が集まる中、権田先生は演説でもぶつように両手を広げた。

「みんな、聞いてくれ。結衣はな、本当はみんなと同じものが食べられるはずなんだ。でも、ちょっと心が弱くて、最初の一歩が踏み出せないだけなんだよな?」

 違う。そう言いたいのに、喉が張り付いて声が出ない。

 クラスメイトたちは、先生の勢いに飲まれ、なんとなく「そうなんだ」「結衣ちゃん、頑張ればいいのに」という空気になり始めていた。

 先生は満足げに頷き、結衣の肩を強く叩いた。

「アレルギーなんていう難しい名前がついてるから怖いんだ。好き嫌いと一緒で、鼻をつまんでエイッと食えば、案外『なんだ、平気じゃん』ってなるもんだぞ。俺もピーマン克服した時はそうだった」

 そして、先生の視線が、隣の席の子のトレーにあるコッペパンに向いた。

「どうだ結衣。今日、一口だけでも――」

「先生! 何をしているんですか!」

 鋭い声が教室の空気を切り裂いた。

 入り口に立っていたのは、養護教諭の里見先生だった。

 彼女は普段の穏やかな様子とは一変し、鬼のような形相で早足に近づいてきた。

「え? いやあ、里見先生。ちょうど今、結衣の食わず嫌いを直そうと……」

「食わず嫌いではありません! 命に関わる疾患だと、何度言えばわかるんですか!」

 里見先生は権田先生と結衣の間に割って入り、結衣を背に隠すようにして立ちはだかった。

「食事中に余計なプレッシャーを与えないでください。万が一、発作が起きたら責任取れるんですか?」

「……チッ」

 権田先生は明らかに不機嫌そうに舌打ちをした。

 生徒たちの前で女教師に怒鳴られたことが、彼のプライドを傷つけたのだ。

「責任、責任って……過保護すぎんだよ、今の学校は。教師が生徒の成長を促して何が悪いんだ」

 ボソボソと捨て台詞を吐きながら、権田先生は教卓へと戻っていった。

 里見先生は振り返り、震えている結衣の目線に合わせてしゃがみ込んだ。

「結衣さん、大丈夫? 怖かったわ音ね」

「う、うん……」

「安心して。先生がちゃんと見ているから。……でも、もし次にああいうことを言われたら、すぐに逃げて保健室に来なさい。いいわね?」

 結衣はコクリと頷いた。

 けれど、里見先生はずっと教室にいられるわけではない。

 

 教卓に戻った権田先生が、パンを乱暴にかじりながら、こちらを睨んでいるのが見えた。その目は反省しているようには見えなかった。

 むしろ、「俺が正しいことを証明してやる」という、歪んだ執念のような光が宿っていた。

 ――Xデーは、明日に迫っていた。


第4話 :運命の日の給食

 その日は、朝から雨が降っていた。

 湿った空気の中に、給食室から運ばれてきた甘く重たい匂いが混ざる。今日の主食は黒糖パンだ。

 給食の時間。結衣はいつものようにランドセルから弁当袋を取り出した。

 しかし、教室の空気はいつもと違っていた。

 頼みの綱である養護教諭の里見先生は、午後から出張のため不在。朝の会でそれが伝えられた時、権田先生が一瞬だけニヤリと笑ったのを、結衣は見ていた。

「……いただきます」

 結衣が手を合わせ、弁当の蓋に手をかけた、その時だった。

 ぬっ、と視界に大きな手が差し込まれ、弁当箱を押さえつけた。

「結衣。今日は弁当はなしだ」

 顔を上げると、権田先生が立っていた。

 今日は怒っていない。むしろ、聖人のように穏やかな笑みを浮かべている。それが余計に怖かった。

「先生、あの……」

「俺もな、昨日の夜いろいろ調べたんだよ」

 権田先生は、給食のトレーから黒糖パンを一つ掴み取ると、結衣の目の前に置いた。

「『減感作療法げんかんさりょうほう』って知ってるか? アレルギーの物質を少しずつ食べて体を慣らす治療法だ。医者もやってる真っ当なやり方だぞ」

 先生は自信満々に語る。けれど、それは医師の厳密な管理下で、ミリ単位の調整をして行うものだ。決して、教室で目分量で行っていいものではない。

 十歳の結衣にそれを論理的に否定する言葉はなかったが、本能が「食べてはいけない」と警鐘を鳴らしていた。

「でも、お母さんが、絶対だめだって……」

「お母さんは心配性なだけだ。先生を信じろ。このパンの端っこ、小指の先くらいだ。これだけで死ぬわけないだろう?」

 先生の声が少し大きくなる。

 クラスのみんなが箸を止め、こちらを見ている。

 「一口くらいなら大丈夫なんじゃない?」「先生がああ言ってるし」という無言の圧力が、結衣を四方から押し潰していく。

「ほら、口を開けて。先生が見ててやるから」

 権田先生が、ちぎったパンの欠片を、結衣の唇に押し当てた。

 黒糖の甘い匂いが、鼻の奥を刺激する。

 食べなければ、この時間は終わらない。先生は許してくれない。

 結衣の目から涙がこぼれた。

(ごめんなさい、お母さん……)

 結衣は震えながら口を開け、その小さな欠片を受け入れた。

 飲み込む瞬間、喉が焼けるように熱く感じた。

「――よし! 飲み込んだな!」

 権田先生が手を叩いて大声を上げた。

「ほら見ろ! なんともないじゃないか! やっぱりただの食わず嫌い、思い込みだったんだよ!」

 先生は満面の笑みで、まるで偉業を成し遂げたかのように結衣の頭を撫で回した。

 クラスからも「おー」という拍手がまばらに起こる。

 結衣は青ざめた顔で、曖昧に笑うしかなかった。

 直後、体には目立った変化は現れなかった。

 権田先生は「な? 案ずるより産むが易しだ」と上機嫌で自分の席に戻っていった。

 けれど。

 異変は、静かに、しかし確実に体内で進行していた。

 昼休みに入り、みんなが遊び始めた頃。

 結衣は机に突っ伏していた。

 

(喉が、イガイガする……)

 首筋を掻くと、熱を持ったミミズ腫れのようなものが指に触れた。

 息を吸おうとしても、空気が細いストローを通るようにしか入ってこない。

 ヒュー、ヒュー、という音が、自分の喉の奥から鳴り始めていた。


第5話:発作発症

 午後の授業を告げるチャイムが、遠くの水底で鳴っているように聞こえた。

 五時間目は国語。権田先生が黒板にチョークを走らせるカッカッという音が、頭蓋骨に響いて痛い。

(くるしい……)

 結衣は首元を掻きむしりたい衝動を必死に抑えていた。

 喉の奥が急激に狭まっている。まるで濡れた真綿を詰め込まれたように、息が入ってこない。

 視界が歪む。まぶたが重く、熱い。

 隣の席の男の子が、ギョッとした顔でこちらを見ているのがわかった。

「……先生」

 助けを求めようとしたが、口から出たのは「ヒュー」という、笛のような掠れた音だけだった。

「おい、そこ! 私語は慎め!」

 権田先生が振り返り、チョークを投げようと振りかぶる。

 しかし、その動作は途中で止まった。

 ガタッ!

 結衣の体が意思を失い、椅子ごと通路に崩れ落ちたからだ。

「きゃああああ!」

「ゆ、結衣ちゃん!?」

 女子生徒の悲鳴が上がり、教室は一瞬で騒然となった。

 権田先生は苛立った様子で教卓から降りてくる。

「おい結衣! 授業中に寝るとはどういう……」

 言いかけ、結衣の体を引き起こそうとした権田先生の手が、ピタリと止まった。

 その顔から、サァッと血の気が引いていく。

 結衣の顔は、数分前とは別人のように変貌していた。

 まぶたや唇は赤紫に腫れ上がり、顔全体がパンパンに膨張している。首筋には地図のような蕁麻疹が広がり、口元からは泡がこぼれていた。

 何より恐ろしいのは、呼吸音だ。

 ゼーッ、ゼーッ、という、壊れたふいごのような音が、必死に命を繋ぎ止めようともがいていた。

「な……なん、だこれ……」

 権田先生は腰を抜かしたように後ずさった。

「う、嘘だろ? たった一口だぞ? あんな小さな……」

 目の前の現実が受け入れられない。

 自分の「指導」が、子供をこんな姿にしたという事実を認めたくない。

「おい、しっかりしろ! 大げさなんだよ、起きろ!」

 錯乱した権田先生が、苦しむ結衣の体を揺さぶろうとした、その時だ。

「触らないで!!」

 雷のような怒号と共に、教室のドアが勢いよく開いた。

 飛び込んできたのは、出張から戻ったばかりの里見先生だった。

 彼女は廊下での騒ぎを聞きつけ、鞄を放り投げて駆けつけてきたのだ。

「ひ、保健の先生……これ、急に結衣が……」

「どいて!」

 里見先生は権田先生を突き飛ばすと、結衣の横に膝をついた。

 脈を確認し、呼吸音を聞く。その所作に迷いは一切ない。

「アナフィラキシーショック……! 気道閉塞が始まってる!」

 里見先生は鋭い視線で周囲を見回した。

「日直! 職員室に走って! 救急車を要請! 『アレルギー発作、意識障害あり』と伝えて!」

「は、はいっ!」

「権田先生! 結衣さんのランドセル、どこ!?」

 呆然と立ち尽くす権田先生に、里見先生が怒鳴る。

 権田先生はパクパクと口を開閉させるだけで、言葉が出てこない。

 里見先生は舌打ちをし、自分で結衣の机の横にかかったランドセルをひっくり返した。

 教科書が散乱する中から、オレンジ色のプラスチックケースを取り出す。

 ――エピペンだ。

「結衣さん、頑張って! 痛いけど我慢してね!」

 里見先生は迷わず安全キャップを外し、結衣の太ももの外側に、強く押し当てた。

 カチッ。

 バネの作動音が響き、薬剤が体内に注入される。

 数秒数えてから引き抜き、患部を揉む。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

 しばらくして、結衣の呼吸がわずかに大きくなった。気道が少しだけ開いたのだ。しかし、依然として危険な状態には変わりない。

「な、な……」

 権田先生は、震える手で自分の顔を覆った。

「俺は……ただ、良かれと思って……みんなと一緒に……」

 遠くから、サイレンの音が近づいてくる。

 その音は、結衣を助ける希望の音であると同時に、権田先生にとっては、教師生命の終わりを告げる断罪のカウントダウンでもあった。

 教室の隅で、怯えきった生徒たちがヒソヒソと囁き合う声が聞こえる。

 

「先生が無理やり食べさせたから……」

「結衣ちゃん、死んじゃうの……?」

 その言葉は、鋭い棘となって権田の胸に突き刺さった。



第6話:母の絶望と怒り

 その時、私はリビングで洗濯物を畳んでいた。

 窓の外は雨が上がり、雲の隙間から光が差し込んでいた。「結衣が帰ってきたら、おやつに米粉のホットケーキを焼いてあげよう」。そんなのどかなことを考えていた。

 静寂を切り裂いたのは、固定電話の無機質な呼び出し音だった。

 ナンバーディスプレイには「〇〇小学校」の文字。

 胸騒ぎがした。忘れ物の連絡などではない、もっと嫌な予感が背筋を駆け上がった。

「……はい、もしもし」

『あ、結衣さんのお母様でしょうか……! 学校です、教頭の鈴木です』

 受話器の向こうの声は、明らかに震えていた。

『落ち着いて聞いてください。先ほど、結衣さんが授業中に倒れまして……現在、救急車で市民病院へ搬送されています』

「……え?」

 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 倒れた? 搬送? なぜ?

『アレルギーの発作です。アナフィラキシーショックの疑いで……至急、病院へ向かってください!』

 世界が反転したようだった。

 私はどうやって返事をしたのか、どうやって家を出たのか覚えていない。

 気がつけばタクシーの後部座席で、震える手を強く握りしめていた。

「神様、お願いします。結衣を助けて。あの子を連れて行かないで」

 祈ることしかできなかった。

 お弁当を持たせたはずだ。朝、原材料も確認した。結衣もわかっているはずだ。

 どこで間違った? どこに落とし穴があった?

 悪い想像ばかりが頭をよぎり、心臓が早鐘を打っていた。

     ◇

 病院に到着し、救急外来の受付へ走った。

 案内された処置室のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、私は膝から崩れ落ちそうになった。

「……結衣?」

 ベッドに横たわっているその子は、私の知っている結衣ではなかった。

 顔全体が赤紫に腫れ上がり、目はふさがってしまっている。唇はタラコのように肥大し、口からは気道を確保するための太いチューブが挿入されていた。

 細い腕には何本もの点滴が繋がれ、心電図モニターが電子音を刻んでいる。

「お母さんですね」

 白衣を着た男性医師が、厳しい表情で歩み寄ってきた。

「処置が早かったことと、エピペンが適切に使われたおかげで、なんとか峠は越えました。今は鎮静剤で眠っていますが、命に別状はありません」

 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れ出した。

 よかった。生きてる。

 私はベッドに駆け寄り、腫れ上がった結衣の手を、壊れ物を扱うようにそっと握った。熱い。高熱を出しているような熱さだ。こんな小さな体で、どれだけ苦しかっただろう。

「……先生。あの子、何を食べたんですか?」

 涙を拭いながら、私は医師に尋ねた。

 結衣は慎重な子だ。自分から危険なものを食べるはずがない。誰かとおかずを交換してしまったのだろうか。

 医師が口を開く前に、処置室の隅にいた人物が、泣き崩れるようにして私の前に進み出た。

 養護教諭の里見先生だった。衣服は乱れ、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

「お母さん……本当に、本当に申し訳ありません……!」

 里見先生は床に手をつき、深々と頭を下げた。

「私が、もっと注意していれば……あんな馬鹿な教師に、結衣さんを任せなければ……!」

「馬鹿な教師……?」

 里見先生の言葉に、思考が止まる。

 そこに医師が、カルテを見ながら静かに、しかし氷のように冷たい声で告げた。

「搬送時の報告によると、担任教師が『指導』と称して、給食のパンを無理やり食べさせたそうですね」

 ――え?

 耳を疑った。

 指導? 無理やり?

 アレルギーがあると言っているのに?

「そんな……そんなこと、あるわけ……」

「事実です。結衣さんは抵抗したのに、権田先生が……」

 里見先生の慟哭が、真実であることを告げていた。

 その瞬間。

 私の心の中にあった「悲しみ」や「恐怖」といった感情が、一瞬にして蒸発した。

 代わりに湧き上がってきたのは、どす黒く、煮えたぎるようなマグマだった。

 事故じゃない。

 誤食でもない。

 これは、事件だ。

 教育という名の暴力を振るい、私の大切な娘を殺そうとした人間がいる。

 私は結衣の熱い手を両手で包み込み、額を押し当てた。

 ごめんね、結衣。守ってあげられなくて。

 でも、ママはもう泣かない。

「……来ているんですか? その、担任は」

 私の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。

 里見先生が顔を上げ、怯えたように頷く。

「は、はい。廊下で待機しています……」

「そうですか」

 私はゆっくりと立ち上がった。

 涙はもう止まっていた。

 許さない。絶対に。

 無知と独善で娘の命を弄んだその男に、犯した罪の重さを骨の髄まで思い知らせてやる。

 私は戦場へ向かう兵士のような足取りで、処置室のドアへと向かった。



第7話:病院での対決

 処置室を出て、廊下へ進むと、ベンチに座って頭を抱えている権田先生の姿があった。

 私の足音に気づき、彼はガバッと顔を上げた。

 その顔色は土気色で、脂汗が滲んでいた。彼は私を見るなり、駆け寄ってきた。

「お、お母さん! 結衣は、結衣は無事なんですか!?」

「……一命は、取り留めました」

 私が抑揚のない声で答えると、権田先生は「はあぁぁ」と大きな息を吐き、膝に手をついた。

「よかった……本当によかった。もし万が一のことがあったら、どうしようかと……」

 安堵するその姿を見て、私の中の怒りの炎がさらに燃え上がった。

 よかった? お前が言うな。

「先生。なぜ、あの子にパンを食べさせたんですか。私はあれほど、命に関わると言ったはずです」

 私が問い詰めると、権田先生はバツが悪そうに視線を逸らし、頭をかいた。

「いや、その……私もね、悪気があったわけじゃないんです。ただ、結衣の将来を思って、強く育ててやりたいと……一種の愛の鞭というか」

「愛の鞭? それがアレルギーと何の関係があるんですか」

「ですから、あれですよ。『減感作療法』です。ネットで見たんです。少しずつ食べれば治るって。だから私は、ほんのひとかけら、小指の先ほどを食べさせただけで……」

 権田先生は、手のひらを広げて身振りを交えながら、必死に弁解を始めた。

「まさか、あんな少量で発作が出るとは夢にも思わなかったんです! これは不可抗力というか、予測できない事故で……そう、不幸な事故だったんですよ!」

 事故。その言葉を聞いた瞬間、私は平手打ちをしてやりたい衝動に駆られた。

 しかし、私の手が動くよりも早く、背後から氷のように冷たい声が響いた。

「――事故ではありません。これは、未必の故意による傷害事件です」

 振り返ると、先ほどの担当医がカルテを片手に立っていた。

 眼鏡の奥の瞳は、権田先生をゴミを見るような目で見下ろしていた。

「だ、誰ですかあなたは。部外者は口を挟まないで……」

「私は結衣さんの担当医です。そして、今あなたが口にした『減感作療法』という言葉を聞き捨てならなかったのでね」

 医師は静かに歩み寄り、権田先生の目の前に立った。

「いいですか。減感作療法というのは、アレルギー専門医が、緊急時の蘇生設備が整った環境で、抗原の量をミリグラム単位で厳密に管理しながら行う高度な医療行為です。素人が、教室で、目分量で行っていいものでは断じてない」

「で、でも、ネットには食べて治すと……」

「ネットの情報を鵜呑みにして、医師免許もない人間が勝手に医療行為の真似事をする。それを世間では何と呼ぶか知っていますか?」

 医師は一歩、また一歩と権田先生を追い詰める。

「それは『治療』ではありません。『人体実験』であり、『毒物の投与』です」

「ど、毒……!?」

「結衣さんにとってのアレルゲンは、青酸カリにも匹敵する毒です。あなたは致死量の毒を、嫌がる子供の口に無理やり押し込んだ。その結果、気道が閉塞し、窒息死しかけた。……これを殺人未遂と言わずして、何と言うんですか?」

 殺人未遂。

 その言葉の重みに、権田先生は「あ、あぅ……」と声を漏らし、後ずさった。

「そんな……大げさな……私はただ、良かれと思って……」

「その『良かれと思って』という無知な善意が、一番タチが悪いと言っているんです!」

 医師の怒声が廊下に響いた。権田先生はビクリと肩を震わせ、縮こまった。

 医師はため息をつき、私に向き直った。

「お母さん。診断書には、詳細な病状と、発作の原因が『第三者によるアレルゲン食品の強要』であることを明記します。警察に提出すれば、十分に証拠になりますよ」

「……ありがとうございます、先生」

 私は医師に深く頭を下げ、そして、震える権田先生を見据えた。

「権田先生」

「お、お母さん、待ってください。話し合いましょう。警察だなんて、そんなことになったら私の教師生活が……」

 権田先生はすがりつくような目で私を見た。

 自分のやったことの重大さよりも、自分の保身。最後までこの男はそうなのか。

 私は冷たく言い放った。

「教師生活? 心配しなくても、もう終わりですよ」

「え……」

「娘は、あなたに殺されかけました。私は、あなたを絶対に許しません。警察への被害届、教育委員会への通報、そして民事での損害賠償請求。できることはすべてやります」

「そ、そんな……たかがパン一口で……」

「その『たかが』で、娘は死ぬところだったんです!!」

 私の叫びに、権田先生は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 廊下の床に座り込み、呆然と口を開けるその姿には、かつて教室で「不撓不屈」を叫んでいた威厳のかけらもなかった。

「終わりです、先生。あなたが無知のまま振りかざしたその権力、もう二度と子供たちの前で振るわせたりはしません」

 私は彼に背を向けた。

 もう、見る価値もない。

 私は病室に戻り、戦い抜いた娘の手を握りしめた。




第8話:学校側の対応

 事件から三日が経過した。

 結衣は一般病棟に移り、顔の腫れもようやく引き始めていた。まだ精神的なショックから口数は少ないが、「お家に帰りたい」と小さく呟くようにはなっていた。

 私は夫に結衣の付き添いを頼み、学校からの呼び出しに応じることにした。

 怒りが消えたわけではない。けれど、結衣がこれからもこの地域で生きていく以上、学校と話をしないわけにはいかなかった。

 通された校長室には、重苦しい空気が漂っていた。

 部屋に入った瞬間、待ち構えていた田中校長、教頭、そして養護教諭の里見先生の三人が、直角に腰を折って頭を下げた。

「この度は、本校教員の不適切な指導により、結衣さん、そしてご家族に多大なる苦痛と危険を与えてしまい、誠に申し訳ございませんでした!」

 校長の声は震えていた。

 しばらく沈黙が続き、私はゆっくりと息を吐いてから口を開いた。

「……頭を上げてください。謝罪の言葉よりも、これからどうされるのか、具体的なお話を聞きたいです」

 三人が顔を上げる。校長の顔は心労でげっそりとやつれ、目の下には濃い隈ができていた。

「はい……。まず、当該教員の権田ですが、現在は自宅待機を命じております。教育委員会へは事の顛末をすべて報告し、懲戒処分を検討中です」

「権田先生は、なんと仰っているんですか?」

 私が尋ねると、校長は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「それが……お恥ずかしい話ですが、彼はまだ事態の深刻さを完全には理解していないようです。『指導の一環だった』『結果的に事故になったが、動機は善意だった』などと……」

 ドン、と私は思わず膝の上で拳を握りしめた。

 まだ、そんなことを言っているのか。

「あいつは……権田は、教育者として以前に、人間として何かが欠落しています。私は彼を教壇に立たせた責任者として、腹を切って詫びたい気持ちです」

 校長の声には、部下への怒りと失望が滲んでいた。

 そして、横に控えていた里見先生が一歩前に出た。

「お母さん。私も、同罪です」

 彼女は涙をこらえるように唇を噛んでいた。

「権田先生の認識が甘いことは、以前から気づいていました。給食の時間に異変があった時、もっと強く介入すべきでした。出張なんて行かずに、教室に張り付いていれば……私の油断が、結衣さんを危険な目に遭わせました」

「里見先生」

 私は首を横に振った。

「自分を責めないでください。先生がすぐに駆けつけて、エピペンを打ってくれなかったら、結衣は助かりませんでした。先生は娘の命の恩人です。感謝こそすれ、恨むなんてとんでもない」

「うぅ……っ」

 里見先生は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

 私は校長に向き直り、毅然とした態度で告げた。

「校長先生。私たちの要望はシンプルです。二つあります」

「はい、なんなりと」

「一つ目は、権田先生を二度と娘に近づけないこと。担任を外れるのは当然として、視界に入るだけでも娘はフラッシュバックを起こします。彼が学校にいる限り、娘は登校できません」

「お約束します。彼が再び本校の教壇に立つことは、私が職を賭して阻止します。事実上、依願退職か懲戒免職になる方向で調整が進んでいます」

 校長の言葉に嘘はないようだった。

 あの病院での医師の言葉、そして警察への被害届提出の動きが、教育委員会を本気にさせたのだろう。

「二つ目は、アレルギー対応の徹底です。マニュアルがあるだけでは意味がないことは、今回で証明されました。『知らなかった』『良かれと思って』で命が脅かされることがないよう、全教職員の意識を変えてください」

「肝に銘じます。来週、外部から専門医を招いて全校職員向けの研修を行います。アレルギー対応を学校の最優先事項として再構築します」

 校長は深く頷き、そして少しだけ表情を和らげた。

「それから、お母さん。少しでも安心材料になればと思うのですが……」

「はい?」

「実は、この件を聞いて、ある先生が『いてもたってもいられない』と連絡をくれまして」

 校長室のドアがノックされ、控えめに開いた。

 そこ立っていた人物を見て、私は思わず声を上げた。

「宮本先生……!」

 産休に入っていたはずの、前の担任の宮本先生だった。

 彼女は少しふっくらとした姿で、しかし以前と変わらない温かい眼差しでこちらを見ていた。

「お母さん、結衣ちゃん……大変でしたね」

 その懐かしい声を聞いた瞬間、張り詰めていた私の心がようやく解け、目頭が熱くなった。

 

 戦いはまだ終わっていない。けれど、娘が戻るべき場所は、少しずつ修復されようとしていた。



第9話:無知の代償と決断

 季節が春から初夏へと移り変わろうとしていた頃、一つの「処分」が下された。

 権田修一、依願退職。

 表向きは「一身上の都合」となっていたが、実態は教育委員会からの厳しい指導による、事実上の懲戒解雇に近い追放だった。傷害事件として警察が受理したこと、そして医師の診断書が決定打となったのだ。

 荷物をまとめるため、最後にもう一度だけ学校に現れた権田先生の姿を、私は遠くから見ていたわけではない。しかし、懇意にしているママ友や、良心的な先生方からの話で、その惨めな末路は手に取るように分かった。

 職員室での彼は、もはや「透明人間」だったという。

 かつて「不撓不屈」を大声で語っていたその口は堅く結ばれ、誰一人として彼に声をかける者はいなかった。

 アレルギーへの無知と偏見で、児童の命を危険に晒した男。

 同僚たちにとって彼は、学校の信頼を地に落とした疫病神でしかなかったのだ。

 ダンボール箱を抱えて校門を出た彼を待っていたのは、保護者たちの冷ややかな視線だった。

 噂は光の速さで広まっていた。

 

『あいつよ、例のアレルギー事件の犯人』

『無理やり食べさせたんですって? 信じられない』

『殺人未遂よね、あんなの』

 直接罵声を浴びせるわけではない。けれど、ひそひそと交わされる会話と、蔑むような視線は、どんな罵倒よりも彼のプライドを抉ったことだろう。

 彼は逃げるようにタクシーに乗り込み、走り去ったという。

 後日談だが、彼はこの地域にはいられなくなったそうだ。

 今の時代、悪評はネットを通じてどこまでも追いかけてくる。検索すれば「アレルギー 教師 事件」の候補に彼の名前がちらつく状況で、再就職など望むべくもない。

 彼が信じていた「熱血指導」という名の独善は、彼自身の人生を焼き尽くして終わったのだ。

     ◇

 週末、私たちは弁護士事務所の応接室にいた。

 テーブルの上には、学校側、そして権田側から提示された示談書の案が置かれている。

「……権田氏は、教員免許の自主返納も検討しているそうです。二度と教壇には立たない、と」

「そうですか」

 弁護士の言葉に、私は淡々と頷いた。

 夫が私の手を握り、顔を覗き込む。

「佳苗。裁判を起こして、徹底的に追い込むこともできる。世間に事実を公表して、もっと社会的制裁を受けさせることも。……どうしたい?」

 夫の問いに、私は目を閉じた。

 怒りは消えていない。一生許すつもりもない。

 けれど、これ以上戦いを続ければ、結衣も巻き込まれることになる。事情聴取、証言、好奇の目。

 あの子はもう十分苦しんだ。これ以上、あの子の時間を「あんな男」のために使いたくない。

「……終わりにしましょう」

 私は目を開け、はっきりと告げた。

「彼が二度と先生になれないなら、それでいい。お金の問題じゃないけれど、慰謝料もしっかり払ってもらう。その代わり、もう二度と私たちの前に顔を見せないでほしい。それが条件よ」

 それは、慈悲ではない。

 汚いものを切り離し、清々しい未来へ進むための「手切れ」の宣言だった。

 弁護士が頷き、書類を整える。

 ペンを取り、署名をする私の手は、不思議と震えなかった。

 書き終えた瞬間、肩に乗っていた重い荷物が、すとんと落ちた気がした。

「……帰ろう、あなた。結衣が待ってる」

「ああ。帰ろう」

 事務所を出ると、空は抜けるように青かった。

 あの日、雨が降っていた空とは大違いだ。

 嵐は去った。

 あとは、結衣が笑顔で学校に戻れるよう、私たちが支えていくだけだ


第10話:和解と新しい始まり

 初夏の風が、青々とした葉を揺らしている。

 あの雨の日から一ヶ月。季節は巡り、私たち親子の時間もようやく動き出そうとしていた。

「お母さん、行ってきます」

 玄関で靴を履いた結衣が、少し緊張した面持ちで振り返る。

 その背中にあるランドセルの中には、教科書と一緒に、新しいエピペンが入ったポーチが収められている。それはもう「恐怖の象徴」ではなく、彼女を守る「お守り」になっていた。

「行ってらっしゃい。……無理しなくていいからね。辛くなったら、すぐに保健室に行くのよ」

「うん、わかってる」

 結衣は一つ大きく深呼吸をして、ドアノブを回した。

 光の中へ踏み出すその小さな一歩が、私にはとても力強く見えた。

     ◇

(ここからは結衣の視点)

 学校の廊下を歩く足音が、心臓の音と重なる。

 教室のドアの前に立つと、どうしてもあの日の光景――権田先生の怒鳴り声や、喉が詰まる感覚――がフラッシュバックして、足がすくんだ。

 怖い。また、あんなことが起きたらどうしよう。

 ドアノブに手をかけられずに立ち尽くしていると、ガラリと内側からドアが開いた。

「あ、結衣ちゃん! おはよう!」

 そこに立っていたのは、懐かしくて大好きな、宮本先生の笑顔だった。

 彼女は驚いたような顔をした後、すぐにふわりと微笑み、結衣の肩を優しく抱いた。

「待ってたよ。よく来たね」

 その温かい声を聞いた瞬間、結衣の胸の中にあった氷が溶けていった。

 先生に背中を押されて教室に入ると、ざわついていたクラスが一瞬静まり返り――次の瞬間、歓声が上がった。

「結衣ちゃん!」

「久しぶり! 大丈夫だった?」

 みんなが席の周りに集まってくる。

 以前のように遠巻きに見る目じゃない。みんな、本当に心配してくれていたんだ。

 権田先生が作った「同調圧力」の空気は、もうこの教室にはなかった。

     ◇

 そして、一番の難関である給食の時間がやってきた。

 今日のメニューはカレーライスとナン。ナンには小麦が含まれている。

 けれど、今までとは決定的に違うことがあった。

「はい、結衣ちゃん。一緒に確認しようね」

 宮本先生が結衣の机に来て、一枚のカードを見せた。『アレルギー対応チェックシート』だ。

 今日の献立、結衣が食べるお弁当、誤配膳がないかの確認。それらを一つずつ、指差し確認していく。

「お弁当よし。机の上よし。周りの子のナンとの距離よし。……うん、完璧だね」

「はい!」

 宮本先生はニッコリと笑い、黒板の前に立った。

「それじゃあみんな、手を合わせて。いただきます!」

 「いただきます!」という元気な声が響く。

 結衣は、お母さんが作ってくれた米粉パンのサンドイッチを手に取った。

 恐る恐るではない。

 堂々と、安心した気持ちで、大きな口を開けて頬張った。

 美味しい。

 味がする。

 給食は、怖い時間なんかじゃなかった。みんなと笑い合える、楽しい時間だったんだ。

     ◇

(再び母・佳苗の視点)

 放課後、私は校門の前で結衣を待っていた。

 チャイムが鳴り、子供たちが昇降口から溢れ出てくる。

 その中に、養護教諭の里見先生と話しながら歩いてくる結衣の姿を見つけた。

「あ、お母さん!」

 結衣が私を見つけて駆け寄ってくる。その顔は、朝の緊張が嘘のように晴れやかだった。

 里見先生も、穏やかな笑顔でこちらに会釈をした。

「お母さん、安心してください。結衣さん、給食も完食でしたよ。お弁当、美味しかったって」

「そうですか……本当によかったです」

 私は里見先生に深く頭を下げた。

 かつて、あの無知な担任に立ち向かい、エピペンを打ってくれた恩人。彼女が学校にいてくれる限り、もう大丈夫だ。

「先生、これからも娘をよろしくお願いします」

「はい。もう二度と、あんな思いはさせません。私が、私たちが全力で守りますから」

 里見先生の力強い言葉に、私は涙ぐみそうになるのをこらえて笑顔で頷いた。

「帰ろう、結衣」

「うん! あ、ママ、今日の夜ご飯なに?」

「そうねぇ……結衣のリクエスト、なんでも聞いてあげる」

「ほんと!? じゃあね、米粉のグラタン!」

 私たちは手を繋いで歩き出した。

 繋いだ手のひらから伝わる体温は、あの日病院で感じた高熱ではなく、力強い生命力の温かさだった。

 無知や偏見は、時として刃となって人を傷つける。

 けれど、正しく知ろうとする心と、守ろうとする勇気があれば、私たちは何度でも立ち上がれる。

 

 娘の笑顔を取り戻した今日という日が、私たち家族の本当の「新しい一歩」なのだ。

 空を見上げると、飛行機雲が一直線に、明日へと続いていた。

(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「無知な善意ほど怖いものはない」というテーマで執筆しました。

現実でも、アレルギーへの理解が浅いゆえのトラブルは少なくありません。

作中の先生には厳しい制裁が下りましたが、これを機に少しでもアレルギーへの正しい理解が広まればいいな、という願いも込めています。


もし、この物語を読んで

「医師の論破がスカッとした!」

「娘ちゃんが助かってよかった!」

「教師の末路にスッキリした」


と少しでも思っていただけましたら、

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