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【断章Ⅰ】《氷の咆哮(The Howl of Ice)》



標高6100メートル、北東リッジ。


ブロッケンの妖怪が現れたのは、最後の氷雪混成帯を突破した直後だった。右肩に背負ったDeuter Guideライト50のバックパックが傾き、汗まみれのカラビナが頬に触れた。その瞬間、谷の彼方から吹き上がった風が、スリングに絡んだ氷粒を空へ巻き上げた。


「アイスフルート、割れたぞ」


後方10メートルの確保支点から相棒の大田が叫ぶ。声は風にかき消されかけたが、彼の顔に張り付いた霜がその動揺を語っていた。


俺は反射的に、左手の**リーシュレス・アイスツール(Nomic)**を手前の岩角にかけ、アイゼンのフロントポイントを雪の踏み跡に埋め直した。

氷壁の中心を走っていたスノーリッジが、ミクロな雪崩によってごっそり崩落していた。20メートル先のバンドまでは、プロテクションなしのフリーで登るしかない。


「もう、アックス効かせられる氷がねぇ」


声は吐息のなかに吸い込まれていた。だが行くしかない。


俺たちはこのルートをピュア・アルパインスタイルで登ると誓っていた。ベースキャンプから無補給、無キャリア、ノーフィックス、ノーボルト。天候ウィンドウは72時間。これが最後の好機。


「プロテクション、あと何本?」


「アイススクリュー3本、ナッツはサイズ#2が1個、**アリーナ(アリゲーター型のカム)**は全部使った」


限界だった。だが、もう一歩だけ。先のステップを決めれば、傾斜は緩むはずだった。


俺はアックスを引き抜き、氷壁の斜めの棚に向かって打ち込んだ。氷質はシュガーアイス、腐りかけの雪と水分が混ざった不安定層。刃先が「シュッ」と音を立て、虚空に吸い込まれた。

次の一撃で、ようやく手応えがあった。グラスアイス。氷の粒子がしまった、乾いた音。


右足を小さなステップに乗せ、左足のフロントポイントを打ち込む。


ズル――


一瞬、アイゼンが外れかけた。足下の雪が崩れ、身体がわずかに傾ぐ。

それでも手は離さなかった。指先はもう感覚がなく、ハーネスにつないだパルスオキシメーターが異常値を出しているのがわかった。SpO2は71%。これ以上の判断は錯覚と直結する。


「ここからビレイピッチ切る!3分くれ!」


俺は叫び、腰のギアラックから**アイススクリュー(BD Express)**を抜き、氷面に差し込んだ。

半回転目で「カチリ」と音が鳴った――効いた。奇跡だ。


その瞬間、空が割れたような音が響く。雪庇のクラックが崩れ、遠くの尾根から小規模なスラフが滑り落ちていく。まだ、俺たちのルートには届かない。だが時間はない。


大田が登ってくる。彼の顔は、白化した口元と、蒼くくすんだ目の周囲に死の気配を宿していた。


「もうダメだ、今日、下降しよう」


「……いや、あとひとつ。あの**ブラックバンド(黒い岩稜帯)**を抜ければ、最終雪壁に出られる」


「山は逃げないぞ」


「だが、天気は逃げる。お前が言ったんだろ?“次はないかもしれん”って」


言葉が胸に突き刺さった。


そこからは無言だった。確保支点は少ない。大田が先行し、俺が背後に続く。ルートの氷質は変化し、ミックス(雪・氷・岩)からピュアロックに移行していた。

フィンガークラックにカムを押し込み、ビレイポイントを構築。すでにピッチ数は14を超えていた。


そして、それは訪れた。


最後のビバーク地点――標高6450メートルの稜線上。風速は30m/sを超え、ジェットストリームが稜線を吹き抜ける音が、まるで氷の獣の咆哮のようだった。


テントなど張れない。自立式のスノーウォールを掘り、2人でうずくまった。

酸素はなく、会話もできず、ただ呼吸だけがある。1時間後、体温が低下し始めた大田の指が動かなくなる。


「指、やったな」


「いいよ、もともと……ここに登りにきたんだ。全部、賭けるって決めてた」


夜は明けなかった。曙光の代わりに吹き込んできたのは、氷片混じりの風だけだった。


朝4時、俺は下山を決めた。


頂は見えていた。あと300メートルだった。だが、命は頂よりも重い。


【終章】


2024年、登山家・今西啓介(仮名)は、カラコルム・シスパーレ北東リッジの記録を残すことなく帰国した。

大田は右手全指を凍傷で失い、以後の登攀は断念。だが、彼らが立ち止まった地点まで、いまだ人類の到達記録はない。


「そこに山はあった。だが、我々の生は、それより遥かに小さく、美しかった」


彼の記録映像には、ただひとつの咆哮――氷の音が吹きすさぶ稜線だけが、今も永遠に記録されている。



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