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第一章:エアリアル・キャノピーの影


2050年の東京湾岸部、特に豊洲と有明を結ぶ地域は、もはやかつての面影をとどめていなかった。地平線まで続くはずのビル群は、幾重にも重なる「エアリアル・キャノピー」に覆われ、その下には陽の光が届かぬ影の世界が広がっていた。キャノピーは、上層階の「テック貴族」たちが暮らす空中回廊とタワーレジデンスを外界の喧騒から隔てる透明なシールドであり、同時に彼らの豊かな生活を象徴する境界線でもあった。

佐々木ケンジは、そのキャノピーの下、細い路地裏を抜けていく小型配送ドローンの群れをぼんやりと見上げていた。彼の視線の先には、湾岸部にそびえ立つ最新鋭のタワーマンション群「ネオ・アリアケ」が、夜空に突き刺さる巨人のように鎮座している。その最上階には、煌々と光を放つペントハウスがいくつも見え、まさに「法人オーナー国家」の象徴がそこにあった。

ケンジは32歳。非正規労働者であり、年収は250万円ほど。ギリギリ「ワーキングプア」の烙印は免れているものの、この国の年収中央値が350万円と聞けば、自分がどれほど下層にいるか痛感させられる。彼は、デジタル証券(STO)や医療AIベンチャーで一攫千金を掴んだ同年代の「テック貴族」たちの話を耳にするたびに、自分の人生がどこで分岐点を間違えたのかと考えずにはいられなかった。

今日の彼の仕事は、ネオ・アリアケに住む高所得者向けの「パーソナル・シェフAI」が作成した食事キットを、手動で最終確認し、ドローンに積み込む作業だ。彼の信用スコアはBマイナス。AIによる作業評価は平均レベルで、SNSでの発言も「無難」の域を出ない。そんな彼に与えられる仕事は、肉体労働を伴う単調な作業ばかりだった。コンビニの品出し、物流倉庫での仕分け、そしてこの、最終的な「人間の手による確認」を必要とする、ごく一部の仕事。

「おい、ケンジ!手ぇ止めんな!」

背後から飛んできたのは、彼の直属の上司であるタナカの声だった。タナカもまた非正規雇用だが、ケンジよりは少しだけ信用スコアが高く、ゆえに管理職の地位を与えられている。彼の右腕には、小型のスマートデバイスが埋め込まれており、そこには常に個人の信用スコアと作業AI評価が表示されていた。この社会では、人間の価値は「信用残高」と「AIによる評価」によって決定される。正社員雇用はすでに消滅し、仕事の可否も報酬も、すべてこれらのデジタルデータによって自動決定されるのだ。

ケンジは急いで最後の食事キットに認証タグを貼り付け、ドローンに積み込んだ。ドローンは静かに上昇し、エアリアル・キャノピーの切れ目から夜空へと吸い込まれていく。上層階の住人たちは、このキャノピーの中で、BMI(脳機械接続)による「記憶補強」や「作業効率強化」の恩恵を受けながら、思考を加速させ、情報処理能力の格差を指数関数的に広げているという。彼らにとって、ケンジのような人間が行う労働は、もはや「貴重な労働」ではなく、「AIには任せられない些細なミスを防ぐための、安価なヒューマンエラー排除装置」に過ぎないのかもしれない。

仕事が終わり、ケンジは古びたスマートフォンの画面を眺めた。彼のスマホは、最先端の機能などなく、チャットAIも無料版だ。今日の作業AI評価は「Aマイナス」。タナカの評価も「問題なし」だった。この小さな評価が、明日以降の彼の仕事の量と質を左右する。もし、評価が落ちれば、割り当てられる仕事はさらに単調になり、時給も最低水準にまで引き下げられるだろう。

彼は自宅へと向かうため、薄暗い路地を歩き始めた。途中、寂れた公園のベンチに、一人座り込む老人の姿があった。その老人は、ケンジの祖父くらいの年齢に見えたが、顔には深い皺が刻まれ、その瞳はどこか虚ろだった。彼のような一人暮らしの高齢者は、この都市にも溢れている。75歳以上の「孤独死リスクAI警戒ゾーン」に指定され、地域管理の対象となる人々。彼らは「精神医療AIの使用義務化」の対象にもなりつつあると聞く。

ケンジは、自分もいつかあのような存在になるのだろうか、と考えた。自分の両親も、彼のような信用スコアと作業評価の低さでは、家族企業体のような「ファミリー資本主義」を形成することはできなかった。親世代から「家産」を継承し、子どもを3人持ち、祖父母とのマルチ世代居住を行う新型家族共同体。そんな未来は、ケンジには遠い夢のように思えた。

彼は、自分の持つ唯一の資産である「古びたスマホ」を握りしめ、冷たい夜風が吹き荒れる中、歩き続けた。エアリアル・キャノピーの上では、テック貴族たちが、年間所得1億円を超える生活を謳歌し、彼らの思考はBMIによって加速され、彼らの子供たちは「階層専用教育」によって、さらにその上の階層へと引き上げられていく。

ケンジは知っていた。この社会は、もはや「分配」よりも「維持と統制」に移行していることを。政府はスマートパス(個人信用スコアID)による監視と補助制御を導入し、人々は精神的・制度的抑圧の中で、自己効力感を失っていく。彼は、自分の内側で、何か大切なものが少しずつ摩耗していくのを感じていた。だが、それでも彼は歩き続けるしかなかった。この「スコア管理型下層」の世界で、わずかな希望の光を探すように。


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